法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫 ハ 42-1)

  • 筑摩書房 (2014年12月10日発売)
3.68
  • (4)
  • (7)
  • (7)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 321
感想 : 12
5

通常人の道徳的感覚に著しく反する法(例えばナチスの法)は、「法」の資格をもつか?

この問いにYesと応えるのが法実証主義であり、Noと応えるのが自然法思想だ。ハートは法実証主義を擁護する。

ハートは本書で、法とは「責務に関するルール(一次ルール)」と「法の認定・変更・裁判に関するルール(二次ルール)」の組合せであるとする理論を説く。それは演繹的な定義ではなく、事実の観察に基づく「記述」である。だからこそ、その議論には説得力がある。

ハートの理論の大要は次のようなものだ:あるルールは、圧倒的多数の国民がそれに従う責務を感じ、裁判官や公務員がそれを法として受容し、社会生活で実際にそのルールが使用されているときに「法」としての資格をもつ。そのルールは、このような要件を満たしていれば、たとえ道徳の要請を満たさなくとも「法」としての資格をもつ。

したがって、冒頭の問いに対するハートの回答は、「道徳的に邪悪なナチスの法も、正当な法として認められうる」となる。ここでハートが言いたいことは、だからこそ、立法者は邪悪な法(邪悪な運用がなされうる法)を制定しないように、細心の注意を払わなければならないということだ。このあたりの議論を展開する第Ⅸ章第3節(法的妥当性と道徳的価値)は、本書の他の部分に比べ、確かな熱量を帯びているように感じる。レスリー・グリーンも本書の内容を要約して、“法に対する適切な態度は、祝福ではなく警戒である”と「解説」に書いている(p420)。

法実証主義と言っても、ハートの理論は自然法の存在を否定するものではない。自然権は、いくつかの人間の性質に由来するものである:暴力行使の制限、相互の自制と妥協の秩序、最小限の形態の私有財産制、法に従わない者に対する制裁などが、あらゆる実定法が満たすべき「自然法」の要請として挙げられている。

本書を読むまでは、「法実証主義」と聞くと、硬直した形式主義とかリーガリズムと呼ばれるものを想像して眉をひそめたものだったが、ハートの理論は、どんな人でも無理なくその大枠を受け入れることができるのではないかと思う。

以下は本書の要約である。

※※超長文につき注意※※

■第Ⅰ章~第Ⅳ章
ハートはまず、「法とは威嚇を支えとする命令である」としたオースティンの古典的法実証主義を批判する。
オースティンの定義は、法に関する必要条件でも十分条件でもない。

銃を持ったギャングの「金を出せ」という要求は“威嚇を支えとする命令”の一つだと言えるが、このギャングの要求は、法の指令とは次の点で異なっている。

・このギャングには命令を発する“権限”が与えられていない。
・法の指令は必ずしも「害悪を加える」という威嚇がなされる必要はなく、それはむしろ権威の尊重を要求するものである。
・法は具体的な個人に対する命令ではなく、国家領域の全てのメンバーが規制対象となる。
・法はその場限りの一時的命令ではなく継続的命令である。
・法の機能は、人々に何事かをなすことを要求することだけではなく、人々に権限を付与する法もある(契約・婚姻・遺言など)。このような法は“命令”とはいえない。

オースティンは、“威嚇を支えとする命令”を発するのは“主権者”だとしたが、ハートはこの“主権者”という概念をも批判する。

“主権者の権限に制約がないことは、定義からしてそうであることを理解することが重要である”(pp119-120)

“主権的という語が法理学にあらわれるとき、法の上に位置し、そのことばが彼の服属者や臣民にとって法となる人物とその語が結び付けられる傾向がある”(p340)

ハートは、このような主権者の存在は“法の存在のための必須の条件でも前提でもない”と述べている。なぜなら、“成文憲法が立法の形式や方法を特定するばかりでなく、立法権限の範囲から一定の事項を端的に除外することで内容上の制限を立法権に課すこともある”からだ(p123)。また、憲法は、その中に明記されているか否かを問わず、広く受容されたルールに違背する立法の無効を宣言することもできる。この意味において、いかなる制約からも完全に自由な“主権者”は存在しない。

この議論は、実定法に優越する自然法の存在を認めているようにも読める。ただ、ハートはここで「自然法」という用語を使用せず、控えめに「受容されたルール」とだけ述べている。

国民“主権”が憲法に謳われている日本は、ハートが本書で描写するアメリカの状況に近い。

“そこでは、有権者団は、憲法上の制限に法的に「拘束される」通常の立法機関の上位に位置する「非常時の、そして潜在的な立法機関」であり、紛争が生じたときは、裁判所が通常の立法機関の制定法を無効と宣言する。そこでは、有権者団こそがこの理論の主張する、あらゆる法的制限から自由な主権者である”(p131)

しかし、“主権”を行使して代表を選挙するときの“有権者”は、他ならぬ“主権者”が定めた法によって選挙の権限を付与され、制約を課されているのである。こうして“主権者”の概念は堂々巡りのエラーに陥る。したがって、通常の法秩序が存在する社会において、“主権”という語の本来の意味を維持することはできない。


■第Ⅴ章
ハート自身の法理論は第Ⅴ章から展開される。
ハートの理論によると、法とは、人に何ごとかをするよう、あるいはしないよう要求する“一次ルール”と、新たなルールを導入したり、廃止・変更したり、適用範囲を確定したり……といった権限を付与する“二次ルール”の組合せからなる。ここで“ルール”とは、裁判官が「指針」「正当化根拠」として参照するもののことを意味する。

法秩序が未発達な未開の社会にも、最低限の一次ルールは存在する。しかし、一次ルールだけからなる単純な社会の法には、次のような弱点がある。

・不確定性:紛争や疑義を決着する手続きが存在せず、秩序を成し得ない。
・静態性:一次ルールを意図的に変化させる手段がないため、移り変わる社会の状況に対応できない。
・非効率性:ルール違背に制裁を科す公的機関が存在せず、ルールを維持するための圧力が社会全体に分散している。

これらの欠陥は、次のような二次ルールを補足することで対処が可能となる。

・不確定性に対しては、何が法であるかを確定する「認定のルール」
・静態性に対しては「変更のルール」
・非効率性に対しては「裁判のルール」

次にハートは、法秩序を支える基礎としての“威嚇”に代わるものとして、“責務”の概念を導入する。

ルールが課す“責務”とは、そのルールへの同調への一般的要求が強固で、それから逸脱したり、逸脱が予期される者に大きな社会的圧力がかかるということを意味する。
責務には“道徳的責務”と“法的責務”の2種類がある。

・道徳的責務:恥辱、後悔、罪悪感などの感情にもっぱら依存する圧力がかかること
・法的責務:物理的制裁が用いられること

法を特徴づける責務のルールは、スポーツ競技などその他の場面で用いられる“ルール”と次の点で異なっている。

・物理的制裁が用いられること
・社会生活の維持に必要だということ
・他者の利益になる一方で、自己の欲求とは衝突することがあること

“責務”の概念からの一つの帰結は、ベンサムなどに見られる法の“予測理論”に対する反論である。

“責務”の概念は、ルールに従う人の内的側面に関わるものであるが、予測理論は、ルールに従う人々をその社会の外から観察する者の視線(“外的観点”)で法を記述する。予測理論はこの点で、法の重要な特徴を捉え損ねているのである。

■第Ⅵ章
第Ⅵ章からは、第Ⅴ章までの議論を基礎として、各論の検討に入る。「内的言明と外的言明」「法の妥当性と実効性」という、似ているようで微妙に異なる概念を扱う第Ⅵ章第1節は、本書の中でも特に難解である。

認定のルールはさまざまな形をとる。それは権威ある条文への言及であったり、立法機関による制定行為であったりするほか、慣習的慣行、特定の人物の一般的宣言、個別の事件での過去の裁判への言及、などである。
慣習と判例は制定法によって法としての地位を剥奪されうるので、制定法より弱い「法」ではあるが、一応独立した身分を認める認定のルールが受容されているといえる。

認定のルールが明確に定式化されることはめったにない。では、個別の法の認定はどのようになされ、その法はどのように妥当性をもつのか?
⇒あるルールが妥当しているということは、それが認定のルールの示す標識をすべて満足することを意味する。ここで特に注意しなければならないことは、法の認定に関する言明は、裁判官や法秩序の下で暮らす一般市民の内的言明(「○○は法である」)としてなされるということだ。

“認定のルールが明言されることはなく、その存在は、裁判官等の公務員、私人またはその助言者により、個々のルールが識別される仕方において示される”(p169)

あるルールの“妥当性”は内的言明であり、外的言明である“実効性”とは区別されるべきである。オースティンなどの法の予測理論(「法とは、裁判所その他の公的措置の予測である」とする理論)の誤りは、法の妥当性を内的言明ではなく、「当該法秩序が全体として実効的である」という外的言明から把握しようとしたことである。法の妥当性は、裁判官にとって自分が導く結論の“予測”ではなく、“理由”である。

ハートは次に「究極のルール」という概念を導入する。究極のルールとは、当該法秩序内において、それ自身以外のすべてのルールの妥当性を判定する認定のルールのことである。
究極のルールには、<最高>の標識が与えられる。ただし、ここでの<最高>は、他のルールよりも上位であるという相対的な概念に過ぎないのであって、無制限の立法者の存在を含意するものではないことに注意しなければならない。

法的に無制限の立法者が存在しなくとも、立法権を制限する憲法に改正規定がない場合や、特定条項が改正できない永久条項がある場合、その憲法やその条項は<最高>の標識を有しており、それは「究極のルール」と呼ぶことができる。

「認定のルール自体の妥当性は論証不可能」というしばしばなされる主張は、きわめてミスリーディングである。法的妥当性に関してなされる内的言明には、二つの前提がある:

①法的妥当性を論ずる者は、自身が受容する認定のルールをすでに使用していること

②彼が使用する認定のルールは、彼が受容するだけでなく、当該法秩序全般の運用において現実に受容され利用されていること

これらの二つの前提はいずれも「事実」に関することであり、「論証」できるものである。

“妥当性は「想定されてはいるが、論証は不可能だ」と意味ありげに言うことは、メートル単位の計測の正確性の究極の基準であるパリ―のメートル原器について、それ自体の正確性は想定されてはいるが、論証はされ得ないと言うようなものである”(p180)

認定のルールがその他のルールと異なるのは、「認定のルールの存在の認定」が、(その認定のルールが当該法秩序内で実際に受容されているという)事実に関する外的言明としてのみなされうる、という点である。

憲法が「法」であることはどのように論証できるか?つまり、憲法に「法」の地位を与える認定のルールとは何か?

⇒このような究極の認定のルールは、「当該法秩序の現実の慣行として存在する」という外的言明と、当該法秩序内のメンバーが発する「法として妥当である」という内的言明によって法としての地位を認定される。

では「法秩序が存在する」とはどういうことか?この問題を考えるときも、一次ルールと二次ルールという概念が役に立つ。
ハートは、法秩序が存在するための最低限の必要十分条件として、次の二つを挙げている。

①当該秩序の究極の妥当性の標識によって妥当とされる行動のルール〔一次ルール〕は、一般に〔私人を含むすべてのメンバーによって〕服従されなければならない。

②認定のルール、変更のルール、裁判のルール〔二次ルール〕は、公務員によって、公務員としての行動の、共通で公の規準として実効的に受容されていなければならない。

ただし、これはあくまで法秩序が成立するための「最低限の条件」である。

“〔公務員のみが秩序の法的妥当性の標識を受容し、使用するような〕社会は、嘆かわしくも羊の群れに似ているだろう。……しかし、そんな社会はあり得ないとか、それが法秩序の名に値しないと考えるべき理由はほとんどない”(pp192-193)

■第Ⅶ章
自然言語は宿命的に“綻び”を伴う。だから人は、具体の事例への適用の可否がつねに事前に確定しているような、きわめて詳細に規定されたルールを好まない。なぜなら、われわれは未来に起こりうる事柄についてすべてを知ることができないから。

法秩序は、人間のこの能力の欠如にさまざまな手法で対応している。ハートが挙げる例の一つが行政機関への立法委任(規則制定)であり、もう一つは、行為の合理性などの一般的規準のみを法で定めておき、個別の場面での判断を個人に委ねるという方法である。後者の場合、個人の作為または不作為の適合性は裁判で事後的に決まる。このとき裁判所は、行政機関の規則制定と同様の機能を果たすことになる(いわゆる「裁判官の法創造」)。

裁判所の立法機能を極端に強調する立場をハートは「ルール懐疑主義」と呼ぶ。法秩序におけるルールは裁判所の裁判およびその予測に過ぎない、とする考え方である。

⇒しかし、そもそも裁判所で裁判が行われるのは二次ルールの存在が前提となっているので、「ルールは存在しない」と主張することは矛盾である。ルールを単なる現象として「習慣的服従」によって説明するなら、習慣とルールの間の違いが説明できなくなる(習慣からの逸脱は批判されないが、ルールからの逸脱は批判される、などの違い)。

より穏健なルール懐疑主義者は、裁判所を構成するルールの存在だけは認め、それ以外のルールは不要と主張する。

⇒ルール懐疑主義の理論の特徴は「制定法は裁判所によって適用されるまで法ではなく、法源に過ぎない」とするものだが、この場合においても、裁判所を構成するルール以外に、裁判官に立法権限を付与するルールも必要となる。

ルール懐疑主義のより重要な主張は、裁判所は法の綻びた部分の判断に関して何ら制約を受けない、とするものである。ある種の“ルール”が実際に裁判官を拘束するとしても、その“ルール”にも綻びや例外があるし、その“ルール”から逸脱しても裁判官に刑罰が課されるわけではない、と彼らは主張する。

⇒ルール懐疑主義者は、「ルールは(綻びがないものとして)形式的に拘束するものとして存在するか、そうでなければ裁判の予測か行動パターンの再述として以外は存在しないかのいずれかである」というジレンマに囚われているが、そもそもこの二項対立自体が偽りである。ルールの例外を隈なく記述することができないからといって、ルールが存在しないことにはならない。

さまざまな場面において、人々の行動はルールを適用した結果である。我々は常にルールを意識して行動しているわけではないが、自らの行動が見咎められ非難されるとき、我々は他ならぬ“ルール”に言及しつつ自らを正当化しようとする。

裁判官の判断も、本当は直感的なものであるかもしれないし、ルールへの言及は“後付け”であるかもしれない。しかし、そうであっても、その判断はルールによって正当化されるものであることは明白である。

ルール懐疑主義のもう一つの形態:「法とは、裁判所が、これがそうだと言うものだ」

⇒ハートは、野球やクリケットの得点に関するルールを一次ルール、記録員に関するルールを二次ルールにそれぞれ譬えてこの理論に対して反論する。
人々(プレイヤー)は通常、裁判所(記録員)がなくとも一次ルール(得点に関するルール)にしたがってある程度はうまく社会(ゲーム)を維持することができる。「法とは、裁判所が、これがそうだと言うものだ」とあたう主張は、「最終的な法的決定を下すのは裁判所である」という二次ルールが存在するという意味でのみ正しい。裁判所の決定や、裁判所を構成する二次ルール(記録員に関するルール)の有無にかかわらず、一次ルール(得点に関するルール)が存在することを否定することはできない。

また、ある程度の綻びがあるとはいえ、法には意味の確定した核心部分がある。この核心部分があるからこそ、裁判所の決定は(最終的ではあっても)「不可謬」とまでは言えない。

裁判官がルールを逸脱した判決を下し、法秩序を破壊する可能性は否定できないが、そうした可能性への言及は、現在の法秩序にルールが存在することを否定する根拠とはならない。

■第Ⅷ章
ハートは「正義just」や「不正unjust」の概念を、一般的な道徳的批判とは異なる、より特定化された観点によるものだとしている:平等に処遇する、弁明の手続きを与える、など。

正義の観念の構造は二つの部分から成る(p254)
①正義の一般原則:個々人はお互い同士の関係で、何らかの等しい、または等しくない地位を与えられるべき。釣り合い、比例性を保ち、または回復する。「等しきものは等しく扱え」「異なるものは別異に扱え」
②ここでの等しい・異なるは「関連性のある点」での話。ではいかなる類似点や相違点が当面の問題について「関連性のある」点かを決めなくてはならない⇒公平性・客観性を保障する原理。これは法が自ら決めることはできない。社会の道徳観によって変化しうる。問題の法が実現しようとしているはずの目的を勘案すべし。


もう一つの正義=賠償に関する正義(矯正的正義の一種?ただし、刑罰ではなく原状回復としての正義。“この不正義は、たとえ刑事法がこうした暴行を刑罰で禁止したとしても、解消されない”p260)
ある者が他者に加えた損害について、道徳的には賠償すべきだと考えられるにもかかわらず、一定の損害について救済が全く定められていない法は正義に反する。

“道徳律がある者に対して――彼の腕力や狡知のゆえに咎められることなくそうできる場合でも――他者から強奪したり暴行を加えたりすることを禁ずるならば、強者や知恵者も弱者や愚者と同等の立場に置かれる……そこで正義は、加害者がこの道徳的な原状を可能な限り回復すべきことを要求する”

この意味における「正義」も、「等しきものを等しく扱え」の原理にのっとっている:被害者と加害者が同等の地位に立ち、等しくなる道徳的原状を、それが傷つけられた後に回復するよう定めている、と解釈できる。(p262)


道徳と法の類似性:
①拘束される個人の同意の有無とは無関係に拘束力を持ち、同調に向けた真剣な社会的圧力によって支えられる。
②遵守することは称賛の対象とはならず、当然なすべき社会生活への最低限の貢献と考えられる。
③特別な活動や場面ではなく、生きる上で、日常的に繰り返される状況での人々の行動を統御する。
④人間の集団が共に生きる以上は明らかに遵守の必要な要求をする。

法は「外的な」行動を要求し、道徳は内的な動機を要求する、という理解はミスリーディング。道徳的には無過失でも、法的な責任を負わされることがある。

道徳の4つの特質:
①重要性=道徳は、行儀作法や服装のルール、若干の法的ルールよりも重要性が高い。道徳は常に重要性をもつが、すべての法が重要性をもつとは言えない。
②意図的変更の不可能性=道徳は、法的ルールのように制定行為によって新規に導入されたり、古いルールが変更・廃止されることがない。
③道徳的罪過の意図的性格=意図しない、または無能力による罪は道徳的には免責されうる。法の場合は必ずしも免責されない。
④圧力の形態=法の場合は物理的制裁か不快な帰結の威嚇、道徳の場合は良心への訴えかけ。罪と悔恨の意識。

道徳は、責務と義務より多くのものを含む。称賛の対象となる英雄や聖者の例。

“徳性の多くは、義務が要求する限定された範囲を超えて先に進む能力や性向に存する”(p286)

■第Ⅸ章
法実証主義=法が道徳の要請を再述したり満たしたりすることはいかなる意味でも必然的真理ではない、とする立場。

古典的な自然法理論=人間の行動に関する一定の諸原理があって、人間理性による発見を待っており、人の定めた法が妥当するためには、それらと合致しなければならない、とする立場。

自然法の最小限の内容:以下の①~⑤に挙げるような人間と人間社会に関する基本的な事実を基礎とする、普遍的に承認された行動原則(一般に人は生きることを望む、など)

①人間の傷つきやすさ:人々はときに他人の身体を攻撃しようとするし、通常はそれで傷つく。だからこそ、暴力の行使は法や道徳によって制約される。
②大まかな平等性:いかなる個人も、自分一人では、ほんの短時間を超えて他者をすべて支配し服従させるほどの力は持たない。だからこそ、相互の自制と妥協の秩序が必要。
③限られた利他性:人類は相互に殺し合う願望に支配された悪魔でも、他者を傷つけようとしない天使でもなく、その中間的存在である。だからこそ、相互の自制の秩序が必要であり、かつ可能でもある。
④限られた資源:人間が生存のために必要とする衣食住の資源は無限ではない。最小限の形態の私有財産制度と、その尊重を求めるルールが不可欠。
⑤限られた理解と意志の強さ:人はときに、自身のその場の短期的利益を優先しようとするものだし、探知と制裁を行う特別な組織がなければ、多くの人はそうした誘惑に負ける。制裁は、自主的にルールに従う者がそうしない者の犠牲にならないための保障として必要。

※ここでハートが「事態は別のありようでもあり得る」として示す状況は、現実にはあり得ない状況である。逆説的なレトリック。

法が道徳に適合しなければならないという自然法論者の主張(デリダなど?)の検討。

①法秩序は、人に対する人の力だけには依拠していないし依拠しえないので、道徳的責務の感覚か、当該秩序の道徳的価値への確信によって支えられなければならない。
⇒人々が自主的に法秩序を受容する理由はいろいろある。人々が法的責務と道徳的責務を示すために同じ言葉を用いるために、法と道徳の間の区別が不明瞭になっている。

②あらゆる現代国家の法は、道徳の影響を示している。道徳の影響は、立法または司法の過程を通じて法に入り込む。
⇒この主張については、ハートは否定しない。

③司法過程には創造的法解釈の余地がある。ただし、裁判官の法解釈は恣意的でもないし機械的でもない。裁判官は、公平性、中立性、すべての当事者の利害、結論の根拠となる一般的原理など、あらゆる条件を考慮した上で解釈を行う。
⇒ハートは、裁判官を拘束するこれらの「道徳」の存在は否定しない。しかし、こうした事実が法と道徳との必然的関連性を示すとは言えない。道徳は、法の遵守の正当化にも、法の違背の正当化にも用いられてきたことから、法と道徳は独立した別個のものであることといえる。

④“善き法秩序”は、正義と道徳の要請に適合する必要がある。
⇒法秩序はすべての人を保護と自由に値する(平等な配慮への権利をもつ)存在として取り扱うべきだという啓蒙された判断規準は、確かに明らかに重要な理念を示すものであるが、この規準に適合しない法秩序も現実に存在し続けてきた。

⑤一般的ルールによって人間の行動が統御されるためには、必然的に最小限の正義が実現されねばならない。
⇒法適用における最も単純な形態の正義は、すべての人に平等に適用されるということ。これを法と道徳の必然的関連性として認めることもできるが、法の内容とは関係ない。

⑥道徳的に邪悪なルールは、法ではあり得ない。
⇒道徳的に邪悪なルールを法から除外してしまうと、法学の研究は意味をなさなくなる。邪悪なルールを「法ではない」と臭い物に蓋しても何の役にも立たない。

■第Ⅹ章
国際法は、国際的な立法府、強制的管轄権を持つ裁判所、集権的な制裁組織を欠いている。こうした特徴は、責務の一次ルールのみからなる単純な社会構造の形態に似ている。また、統一的な認定のルールを欠いてもいる。

国際法は本当に法か?

制裁組織がないから、国際法は拘束力を持たない?拘束力を持たないなら、それは法とは呼べないはず。
⇒制裁がないからといって拘束力を持たないと言うことはできない。そのような主張は、法とは威嚇に裏付けられた命令である、というオースティンの不正確な定義を前提としている。

国際法において制裁の組織化と行使が成功しないのは、戦争という非常に大きなリスクを伴う割に、制裁による望ましい結果がもたらされる保証もないから。

主権者という概念が“法的に無制約の命令者”という意味を維持できないのと同様、国家が主権的である(当該国家の法以外の何にも拘束されない)と言うのは誤りである。国際法は、各国家がそのルールに従う責務を自らに課すことによって成り立っている。自ら課した責務を遂行するよう要求する“ルール”は、どの国家からも独立して存在する。

国際法は道徳的ルールに過ぎないという主張がなされることがあるが、これは誤りである。

①一般的な道徳的ルールを支える道徳的圧力は、報復の恐怖や賠償請求に訴えかけるのではなく、良心(罪と恥の意識)に訴えかけるものだが、国際法の下での要求はこうした言葉遣いでは表現されない。技術的な議論では、先例・条約・法律文書への言及によって圧力がかけられる。
②道徳的意義のない道徳的ルールはありえないが、法は道徳的には中立的なルールを含みうる。道徳とは無関係な国際法ルールは多く存在する。したがって、国際法は道徳というより法と呼ぶ方が適切である。
③法は、ある種の“決定”によって創設したり変更したりすることができるが、道徳的ルールは“決定”によっては創設したり変更したりすることができない。国際法は“決定”によって創設したり変更したりすることができる。したがって、国際法は法である。
④「究極的には国際法は、それに服従する道徳的責務があるという諸国家の信念に依拠せざるを得ない」と言われることがある。しかし、そのような道徳的責務の意識は国際法の存在条件ではない。ルールが拘束力を持つための条件は、そのルールがそうしたものと考えられ、語られ、機能していること。機能するためには圧倒的多数の国家がルールを受容し、自主的にそれを維持すべく協力することが必要。

国際法の根本規範(認定のルール)を定式化しようとする議論がしばしばなされてきた(ケルゼン等)。が、そもそも国際法には根本規範がなければならないのか?
⇒国際法は法秩序を構成しない単なるルールの集合体である。そのようなルールは、実際に行動の規準として受容され、責務に関するルール特有の社会的圧力によって支えられるなら、拘束力あるルールとして妥当する。国際法には認定のルールはないが法として機能している。

■後記

第2版で追加された「後記」は、ドゥウォーキンによるハート批判への回答として書かれている。ドゥウォーキンの批判を「ド:」で、ハートの回答を「⇒」で示す。

ド:記述的理論も結局のところ、法命題の意味に関する問題(法の綻び)に直面せざるを得ない。十全な法理論は、法の解釈・評価の問い(何を法とすべきか)に答えなければならない。
⇒記述的理論家にとって、法の解釈・評価の問題は、裁判官や法律家がどのような解釈・評価を行うのかという事実の記録の問題である。

“記述は、記述対象が評価であるとしても、なお記述である”(p374)

ド:「法命題の真偽は歴史的事実に依存する」「裁判官や法律家たちが共有するルールによって法の基礎が確定される」という実証主義の主張は誤りである。法の基礎が確定していないとき、「法」という言葉は、人によってさまざまな意味を持つこととなる。が、事実として、法の基礎には、ときに物議をかもす道徳的判断や価値判断が含まれるのだ。
⇒ドゥウォーキンは、「法」の意味(一般に法とは何か)と「法命題」の意味(現にある法とは何か)を混同している。ハートの理論が扱うのは前者のみ。

ド:法の内容に着目せず、何が法かを識別するルールが歴史的事実のみからなると主張するのが実証主義である。
⇒ハートの理論は、特定の法秩序において、正義や道徳的価値の諸原理が法的妥当性の標識となることを否定するものではない。

ド:法的強制を広く一般に予告することで人々の期待を保護しようとするのが法実証主義である。
⇒そもそもハートの理論は、ドゥウォーキンの理論と異なり、法の「意義」や「目的」を同定しようとするものではない。

ド:ハートの理論における法的妥当性の標識は「系統=法の創造と採用の方式及び形式」に関する単純な事実〈のみ〉によって構成される。
⇒二重の意味で誤りである。
①認定のルールは、道徳原理を含み得る。
②「系統」に関する標識のみからなると主張しているわけでもない。

ド:法の道徳への依存を認めるハートの「柔らかい実証主義」は、実証主義的な法のイメージに合致しない。つまり、ハートの理論は法実証主義とは言えないのではないか?
⇒認定のルールは法の確定性を完全なものにするものではないが、確定性を高めることは事実である。法のあらゆる不確定性をゼロにすることは認定のルールによって達成されるものではない。

ド:いわゆる「法の綻び」が裁判所の裁量(法創造)によって補われるというハートの理論は誤りである。法は、ハートが言うような不完全なものではない。裁判官の間でも意見が分かれるような事例において、法命題の真偽を決定的に論証することはできないとしても、どちらがより善いかを評価することはできる。
⇒法理論は評価(道徳的判断)の問題からは独立しているべきである。p266で指摘したとおり、「道徳」「倫理」という言葉自体がかなり曖昧であり「綻び」をもつ。

ド:法の本質的な要素は、認定のルールによって同定することのできない「原理」にあると主張する。
⇒二つの誤りがある。
①ドゥウォーキンが「原理」と呼ぶものは、系統(成文憲法、制定法)によって同定されうる。成文憲法や制定法の中にも結論を決めない(大まかな方針を示すだけの)「原理」として機能する条文がある。
②認定のルールは、系統に基づく標識のみを供与するものではない。
⇒法原理を内容によって識別するというのも、他ならぬ「認定のルール」の一つであり、ドゥウォーキンの理論はむしろ「柔らかい実証主義」の一類型である。原理を法に取り入れたとしても、認定のルールの理論とは矛盾しない。ドゥウォーキンは、法原理は裁判官や法律家の「コンセンサス」などによって同定されるとしているが、これはハートの理論と同じことを言っているのである。

ド:裁判官が「法を創造する」というハートの記述は誤りである。なぜなら、裁判官を説得しようとする法律家たちは、裁判官が既存の法を発見し、それを適用することに専念しているかのような言葉遣いで語りかけるし、裁判官もまた同様である。
⇒法によっては完全には統御されない事例があることは、多くの法律家が認めるところである。そのような場面で裁判官は、複数の競合する原理の中から、自身の感覚に基づいて選択しなければならない。逆に、諸原理の間の優先順位を決定しうる場合には、司法的法創造の契機は排除される。

ド:司法的法創造は非民主的である。
⇒法創造権限を裁判官に付与するのは、法律で明確に定められていない個別の事案をいちいち立法府に送付する手間を避けるためである。行政府への委任立法と同様の権限付与である。

ド:司法的法創造は、事後的・遡及的法創造である。
⇒裁判官は確定した法を変更するのではない。事後的・遡及的立法という批判は、裁判で問題となりうる“困難な事案”には当てはまらない。


■レスリー・グリーンによる「解説」

法は、社会的構成物である。つまり、誰か(またはいずれかの団体)が意図的に、あるいは偶然に作ったからこそ存在する。これがハートの主張である。

ケルゼンは、法が規範を生み出すためには、社会的でも歴史的でもない「根本規範」が必要だと主張した。ハートが言う「究極の認定のルール」は、歴史的な事実から論証されるのに対し、ケルゼンの「根本規範」はそうではない。この意味でケルゼンは法実証主義者ではあるが、社会的構成主義者ではない。

“権限付与ルールが社会的権力と結び付いていることを指摘することは誤りではない”(p446)
“すべての法が強制的であるわけではない。しかし、非強制的法はときに、強制的法がなし得ないことをする。それは社会的権力を表明し、整序する”(p447)

ハートが強調した法と道徳の完全分離は、法実証主義者の間でも批判が多かった。
①法は単なるルールの秩序ではなく、多様な目的をもつ。
②ハートの正義は恒常的適用という形式に関するものであり実質的正義ではない。
“われわれは否応なく、ルールが個別具体の事案においていかに適用されるべきかを考えることになる。われわれは、人々がルールの下でどのような目に遭うかを考える”(p455)
“大規模で複雑な社会では、正義はこの種の制度〔個別具体の事案を考慮し、結論を下す裁判所のような制度〕なしには、遂行し得ない”(p455)
③ハートの「柔らかい実証主義=取り込み型実証主義」は、道徳原理が法源となることを否定しない。認定のルールによって道徳原理が法として認められることがある、という。しかし認定のルールによらずとも、(論理的推論の原理や算術の原理がそうであるように)道徳原理はすでに裁判所でつねに役割を果たしている。

……ハート以降の実証主義者たちが、法には必然的に道徳が含まれることを認めるなら、彼らが「実証主義者」であるのはどのような意味においてか?新たな疑問が沸き起こってきた。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年2月10日
読了日 : 2016年2月10日
本棚登録日 : 2015年6月14日

みんなの感想をみる

ツイートする