秀吉と利休 (中公文庫 の 1-3)

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  • 中央公論新社 (2022年1月20日発売)
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利休の高弟に山上宗二がいる。宗二は秀吉の怒りを買い、追放となった。小田原に落ち着いたが、秀吉が小田原征伐を始めたことが不幸であった。秀吉は小田原にいた宗二を殺害した。耳と鼻を削いだ上で打ち首にした。宗二は利休以上に反骨精神旺盛な人物とのイメージがあるが、単に管理されることを嫌っただけであった。それが逆に支配者の秀吉には許せなかった。

利休は表向き何事にも動じない風であるが、深く悲しむ。利休も宗二も丸くなった中で、この仕打ちは堪える。才能を潰すことほど腹立たしいことはない。秀吉の恐怖政治は普通に呼吸しているだけで息苦しさを感じてしまうほどであった。利休は覚悟を決めた。

利休は天正一九年(一五九一年)に堺への蟄居を命じられた。直接の理由は大徳寺三門(山門)事件である。大徳寺は応仁で多くの建物が焼失した。利休は三門の再建に尽力し、天正一七年(一五八九年)に三門の楼閣である金毛閣が完成した。大徳寺は利休への謝意を示すために金毛閣に利休の等身の木造を安置した。これが問題視された。参詣するために誰もがくぐる門の上に雪駄履きの像を立てることを非礼と糾弾された。

大徳寺三門事件自体は利休を陥れるための言いがかりに過ぎない。利休像の安置は二年前の話である。本質は言論弾圧、思想弾圧である。秀吉は唐入りを構想していたが、利休は唐入りが上手くいかないと述べていた。これが秀吉の逆鱗に触れた。しかし、唐入りが上手くいかないことは世の中の常識人が普通に考えることである。これを罪状として糾弾すれば唐入りへの批判を逆に注目させることになる。三門事件には別件逮捕と同じ権力の卑怯さがある。

一方で大徳寺の三門という点は意味がある。大徳寺一一七世の古渓宗陳は、堺の南宗寺から大徳寺の住持になった。利休の知己である。古渓は秀吉が信長の葬儀を行った際に導師を務め、信長の菩提寺の総見院の開祖になった。

利休も古渓も秀吉が天下人に駆け上がる最も輝いていた時期に秀吉を支えた存在であった。それが前田玄以や石田三成ら奉行衆には面白くなかった。古渓は奉行衆と対立して、天正一六年(一五八八年)に博多に流罪になった。後に許されて大徳寺に戻るが奉行衆との対立は残った。利休切腹も、この延長線上にある。この場合、石田三成が黒幕とみられることが多いが、豊臣政権で寺社関係の職務を担当した前田玄以のセクショナリズムの対立があった。

大徳寺三門事件は利休潰しだけでなく、大徳寺潰しの狙いもあった。大徳寺への弾圧は後の江戸時代にも紫衣事件が起きた。江戸幕府は寛永四年(一六二七年)に後水尾天皇の紫衣着用の勅許を無効とした。これに対して大徳寺元住持の沢庵宗彭は大徳寺の僧をまとめ、抗弁書を幕府に提出した。

奉行衆は利休を陥れるために秀吉に働きかけたが、秀吉は奉行衆の傀儡ではなかった。利休切腹を決めたのは秀吉であった。秀吉は利休の謝罪があれば良いと考えていたが、利休は謝罪をするつもりはなかった。そのような顔色をうかがって忖度する関係性にウンザリしていた。山上宗二と同じである。管理されることに嫌気がさしていた。秀吉は個人の管理されない自由、支配されない自由を理解しなかった。秀吉は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」であった。

昭和の発想は人間関係のトラブルに対して当人同士がもっと腹を割って話せば良いのではないかと無責任なことを言う傾向がある。しかし、相手との人間関係にウンザリしている向きには苦痛であり、負担でしかない。一方の犠牲によって相手を喜ばせることを強要するだけである。昭和の対面コミュニケーション至上主義は弊害でしかない。

二〇二二年のロシアのウクライナ侵攻ではプーチン大統領がおかしくなったという見解が指摘される。米国のマルコ・ルビオ上院議員はTwitterに「プーチン氏は明らかに何かおかしい」と指摘した。これは日本人には豊臣秀吉の晩年と重なるだろう。これに対してプーチンは平常運転との反論がある。プーチンはチェチェンでもシリアでも残虐なことをしていた。これも秀吉の絶頂期の小田原平定での山上宗二を残酷に処刑したことと重なる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 小説
感想投稿日 : 2022年3月19日
読了日 : 2022年3月19日
本棚登録日 : 2022年3月19日

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