死刑囚・星山を改心させようと情熱を傾ける及川。その思いが通じ、自分の罪を自覚した星山は、償いの日々を送り出します。そのとき、予想だにしなかった事態が…
死刑になるまでの罪を犯すに至るには、他者に対し共感する能力が欠落しているんじゃないか、という及川の考え方はその通りだと思いました。星山が改心した所はちょっとお話的だよなぁ、とは思いましたが。
ただ、星山を改心させようとする及川を見ていると、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でイワン・カラマーゾフが「審問」で述べていた話を思い出しました。
世の中には残酷なことがありふれており、神もへったくれもない、という話の一環で残酷譚を話すイワン。その一つに、幼い頃に羊飼いに拾われ、虐待されながら教育の機会もないまま育った死刑囚の話が出てきます。死刑が決まった途端、彼のもとには宗教家やら慈善家やらが集まり、彼に教育や神の教えを施します。やがて自らの罪を自覚し、深く罪悪感と悔悟の情を抱きながら、死刑執行の日に至ります。宗教家やらは「神の御腕に抱かれて死んでいくが良い」と言い、彼は訳もわからず涙を流しながら死んでいく、という話です。
本作の及川と星山には必ずしも合致しないのですが、それでも「死刑囚に罪の意識を自覚させる」とはどういうことなのか? ということについても考えさせられました。
更生の可能性がないから死刑を宣告されたわけですが、皮肉なことに、死刑宣告という贖罪そのものが期待されない状態に置かれたからこそ、はじめて純粋な贖罪の意識が芽生えることもあるわけです。その逆説によって生まれた贖罪の気持ちに意味があるとしたら、「死刑に意味は無い」とする死刑反対派の言うことには疑問を抱かざるをえない、ということになります。が、一方で、更生の可能性が生まれた以上、死刑宣告を支える大きな理由の一つがなくなったわけで、そうなるとこの時点で死刑執行についてもう一度その必要性を検討し直さなければならないことになります。
だけど、贖罪の気持ちが生まれたら死刑執行を再検討するということを制度化すると、今度は死刑回避の狙いが頭をちらつき、純粋な贖罪の意識形成の契機が失われることにもなりかねないわけで…もう読み進めるとどんどん悩みが大きくなっていきますorz
そして、遂に渡瀬満に死刑が宣告され、渡瀬が拘置所にやってきます。
- 感想投稿日 : 2012年11月22日
- 読了日 : 2012年11月22日
- 本棚登録日 : 2012年11月22日
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