世紀転換期ウィーンを代表する作家シュニッツラー(1862-1931)後期の小説三篇。文化史家の言葉を借りれば、彼は、世紀末ウィーンという滅びゆく時代精神とその爛熟した文化の相貌を小説と戯曲の中に結晶化させて後世に残したと云われている。
「死んだガブリエル」(1906年作)
憂愁を帯びた夜の空気、登場する男女の関係に静かに走る緊迫感、洗練された筋立て、結末の苦み。巧みな短編。
「夢小説」(1926年作)
とある告白から萌した妻への嫉妬から、ウィーンの夜の官能に誘われるまま夢と現実のあわいを往き来する男の、夢とも現実ともつかない物語。ブルジョア社会の現実が割り当てる世俗の自己像を仮装の下に隠し、〈ほんもの〉の自我の重苦しさはその輪郭を曖昧にしながら夢幻の街を漂う。"どこへ帰りたいとも思わない。どこへ行くよりも、このまま進む所に憧れている。・・・。行くところまで行ってみよう。死んでもいいから――"フリドリンが云うように、そこには喜劇的な虚構の趣がある。なぜならそれは決して成就し得ない戯れだから。
「闇への逃走」(1931年作)
自分は嘗て妻や恋人を殺してしまったのではないか、兄が自分を狂人だと思い込んで殺しにやって来るのではないか、という強迫観念に憑かれて、遂に狂気の闇の向こう側へ墜ちてしまう男の物語。「自分は狂人ではないか」と無際限に自己確証を得ようとせずにはおれない理性の内に予めその闇を湛えている狂気の深淵。人間は理性から解放されることは在りえない、そして理性には影のように狂気がつきまとう。以下の引用では、理性の際限無き自己確証という狂気の様態を、息苦しいほど美しく描写している。"・・・、どこまでも、あてもなく、無我夢中でつきすすんだ――永遠に明けることのない蒼い夜が耳元で音をたてていた。この道なら、もう何千度となくこうして駆け抜けたことがあると彼は思った。そしてこれからも何千度となく、耳いっぱいに音を立てる蒼い夜めがけて、永劫にわたり走りつづけなければならない――"
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シュニッツラーと同時代のウィーンでは、フロイトが精神分析を創始しつつあった。
"どれほど澄んだ心の中にも危険な渦を巻き起こしかねない、ひそかに奥に隠された、予期しない願望といったこと。心の中のひそかな秘密の領域であって、憧れをはっきり感じることは稀ながら、いつか夢の中で運命の風にあおられて行き着くこともある。"
"「それにどんな夢も――」ほっと吐息をついてフリドリンが言った。「決してただの夢ではない」"(以上「夢小説」)
"高地だと町にいるときよりもたくさんの夢をみる。しかも風変わりな夢をみる。さらにべつの特徴があって、人なり事物なりがそのまま現れることはなく、何かまるでかけ離れたもの、あるいは実在のものではなくて、どちらかというと概念めいたものを借りて現れる。"(「闇への逃走」)
医者でもあったシュニッツラーが、フロイトと同じ時期にかつ同じ街で、「人間の深層が夢を通じて表れる」という着想を得たという事実は、当時のウィーンが生きていた時代精神を考える上で、大変興味深く思われる。
訳は、日本語の文章としてほぼ違和感なく、かつ本作品の雰囲気に相応しい。名訳。
- 感想投稿日 : 2011年12月26日
- 読了日 : 2011年12月25日
- 本棚登録日 : 2011年12月26日
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