君たちはどう生きるか (岩波文庫 青 158-1)

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  • 岩波書店 (1982年11月16日発売)
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編集者で、後に岩波書店の雑誌『世界』の初代編集長を務め、また『岩波少年文庫』を創刊することになる吉野源三郎(1899-1981)が、山本有三編纂の『日本少国民文庫』(1935年)の一冊として当時の青少年に向けて執筆した読み物、1937年。

「人は如何に生きるべきか」という生の根本問題を、認識論や社会科学の問題と不可分なものとして結びつけながら、展開していく。初版当時の1930年代は、ヨーロッパではファシズムが台頭し、日本では軍国主義が支配的になり始めた頃である。そうした危機的な時代状況にあって、次代を担う青少年を悪しき時勢から守らねばならぬという思いから、吉野は、人間の知性と個人の誠実とそれによって駆動される歴史の進歩への信頼に基礎を置くヒューマニズムの理想を説いていく。

現代の読者にとって印象深いのは、吉野の語りが決して現代的な(ポストモダン的な?)アイロニーで磨り減った果ての価値相対主義や冷笑主義(或いはその反動としての独断的な即物主義)の調子を帯びることなく、生の理想を率直に積極的=肯定的な仕方で説いている、という点ではないだろうか。「古典」ゆえの歴史的制約というものなのだろうが、それが却って現代における本書の価値を高めているように思う。

しかし、吉野が掲げる理想には、独特の「峻厳さ」があるように思う。そこには「無限の自己陶冶」という当時の教養主義の(あるいはその母体であるドイツ観念論の)理念が見え隠れする。教養主義が掲げる理想が高邁であると同時にどこか自己陶酔的で息苦しく感じられるのも、このロマン的かつマゾヒスティックな理念のせいではないかと思う。現代(日本)人の感性にもこうした傾向と親和的な部分も少なからずあるがゆえに、本書が近年改めて注目されるようになったのだろうが、現代の青年層にはいったいどの程度受け容れられているのだろうか。

なお本書の巻末には、吉野源三郎「作品について」と、丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想――吉野さんの霊にささげる――」の二編が収められている。丸山の文章は、もとは『世界』編集部からの依頼で吉野への追悼文として書かれたものだが、丸山の個人史の回想として興味深いだけでなく、本書の「解説」としても有用である。



認識論の問題について(一)。「自己中心性から、自己相対化を経て、世界の中における自分の位置付けという客観的な自己認識へ」という視点の転換の重要性が、「天動説」から「地動説」へのコペルニクス的転回に準えて説かれる。丸山はここで吉野が述べようとしている真意を以下のように敷衍する。

「もしこの転換が、たんに対象認識の正確さの増大とか、客観性の獲得とかいうだけの意味しか持たないならば、その過程には自分は――つまり主体はなんら関与していないことになります。[略]。「おじさん」の、いや、吉野さんのアプローチはそうではありません。地動説への転換は、もうすんでしまって当り前になった事実ではなくて、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に世の中がまわっているような認識から、文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるのでしょうか。つまり、世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ――その意味でまさしくわたしたちが「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです」(p316-317、丸山)。

ここでは、認識論の問題(世界を如何に認識するか)が倫理の問題(生を如何に生きるべきか)と分かちがたく結びついていることが指摘されており、なるほどと思わせる。



社会科学の問題について(三、四、五、九)。生産関係、階級(生産手段を所有する者と、自分の労働力以外になにも所有しない者)、歴史の進歩における個人の役割、文化の越境性など。『資本論』に出てくる「生産関係」の概念が、コペル君の「人間分子の関係、網目の法則」のおかげで、いきいきとイメージできるようになった。



倫理の問題について(六、七、八)。この個所は本書のなかで最も深い印象を与える。北見君たちへの暴行事件におけるコペル君の振舞いは、多くの読者に幼少期の苦い思い出を想起させるのではないか。「けれども、『君たちは……』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、なんとも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます」(p321、丸山)。ここで言う「精神の弁証法」とは、「人間の苦悩は、その存在自体が、同時に当の苦悩を乗り越える力の存在をも証し立てている」というもの。

「人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基いて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。/僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに――、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに――、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。/自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。[略]。正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流しはしないのだ。/人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、――正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと」(p255-256)。

以下の、叔父さんとお母さんの言葉は、読んでいてはっとさせられる。

「北見君たちに仲直りしてもらいたいッて気持ちは、叔父さんだってわかるよ。でもね、コペル君、いま君はそんなことを考えていちゃいけないんだ。いま君がしなければならないことは、何よりも先に、まず北見君たちに男らしくあやまることだ。済まないと思っている君の気持を、そのまま正直に北見君たちに伝えることだ。その結果がどうなるか、それは、いま考えちゃあいけない。君が素直に自分の過ちを認めれば、北見君たちは機嫌を直して、元通り君と友だちになってくれるかも知れない。あるいは、やっぱり憤慨したまま、君と絶交しつづけるかもしれない。それは、ここでいくら考えて見たってわかりゃしないんだ。しかし、たとえ絶交されたって、君としては文句はいえないんだろう。だから――、だからね、コペル君、ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ」(p224-225)。

「あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かしてくることが出来なかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも、――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。/だから、お母さんは、あの石段のことでは、損をしていないと思うの。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。ひとの親切というものが、しみじみと感じられるようになったのも、やっぱり、それからでした」(p246-247)。



真の経験について(二)。「しかし、それにしても最後の鍵は――コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない」(p53)。



吉野が説くヒューマニズムの理想には、その理想を生きるに値するだけの「強い」主体性が前提とされているように思う。こうした主体の「強さ」を強調するために本書でもしばしば用いられているのが、「男らしく」という修辞だ。吉野は自分が語る理想を女子が生きるという可能性をどこまで想定していたのだろうか。もっとも、吉野は当時の知的階層に属する旧制中学の男子生徒に向けて筆を執ったのであれば、本書はそもそものはじめからジェンダーバイアスの中にあったとも言える。

これこそ歴史的制約というもので、一定の時期より過去に書かれた文章を読むと、たとえその書き手が進歩的な思想の持ち主であっても、かなりの頻度でこうしたジェンダーバイアスに基づく表現に遭遇し、強い違和感を覚えることになる。フェミニズムは、保守反動だけでなく、こうしたリベラル派をも批判の対象としなければならなかったわけで、その歴史的苦闘(現在なお進行中である苦闘)を思うと、フェミニズム運動が切り拓いてきたものの大きさに胸を打たれる。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 人文科学
感想投稿日 : 2021年9月19日
読了日 : 2021年9月19日
本棚登録日 : 2021年9月19日

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