フランス文学者である澁澤龍彦(1928-1987)の広くエロティシズムにまつわるエッセイ集、1985年。
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本書を購入した当時は、下世話な内容を知的に粉飾して読もうという魂胆であったのだと思う。にもかかわらず、これまで何度も本棚から取り出しては、そのたびに途中で投げ出していた。冒頭「少女コレクション序説」の内容がいくらなんでも男性中心主義に過ぎて、読むに堪えなかったからだ。しかしいま改めて読めば、ここには男による女性蔑視が典型的に現れているのがよくわかる。
「コレクションに対する情熱とは、いわば物体[オブジェ]に対する嗜好であろう」(p11)。
「なにも私たちが剥製師の真似をして、少女の体内に綿をつめ、眼窩にガラスの目玉をはめこまなくても、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体[オブジェ]であるという点を強調したかったのである」(p11)。
「小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的コミュニケーションは、当節の流行言葉でいうならば、私たちの欲望をしらけさせるものでしかないのだ。[略]、女の主体性を女の存在そのものの中に封じこめ、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが青白く活発に燃えあがるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナにスト的傾向を証明するものにほかなるまい。そしてそのような男の性欲の本質的な傾向にもっとも都合よく応えるのが、そもそも少女という存在だったのである。なぜかと申せば、前にも述べたとおり、少女は一般に社会的にも性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在をシンボライズしているからだ」(p12-13)。
女から一切の人格や主体性を剥ぎ取り男の観念の標本箱に少女のまま永遠に閉じ込めておこうとする暴力的な欲望は、まさにミソジニーそのものであるし、さらにそうした欲望を、自分の人格や主体性が無化されてしまうかもしれないという恐怖など微塵も感じないでいられる特権的な位置から、やれ文学だの芸術だのと衒学的な御託を並べながら仲間内の読者や文学者連に語るとき、それは男性性からくる自己の欲望をホモソーシャルな関係性の中で正当化しようとしているようにも見える。とすると、エロティシズムについて広範に語っていながら男性同性愛についてほとんど触れられていないのは、彼のホモフォビアを逆照しているということか。
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本書をなかなか読む気になれなかったもうひとつの理由は、澁澤は自分が妊娠させた妻に複数回中絶を要求しついに妻は子を産めない身体になってしまった、という逸話をどこかで聞いたからだ。本書収録の「インセスト、わがユートピア」の冒頭で自分が子どもを作らない理由を述べているが、自分の観念的な遊戯に他者の身体を巻き込むなと言いたい。
澁澤には女性読者もいたと思われるが、どのように彼の文章を読んでいるのだろうか。主体性を奪われる女の側に同一化して読むのか。主体性を奪う作者の側に同一化して読むのか。或いは作者に現れている男のセクシュアリティに半ば呆れ半ば憐れみながら読むのか。
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「君が何であるか、いま判ったよ。君はぼくの自己愛なのだ!」(p97)。
- 感想投稿日 : 2020年6月28日
- 読了日 : 2020年6月28日
- 本棚登録日 : 2020年6月28日
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