神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)

  • 河出書房新社 (2009年4月3日発売)
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地獄篇・煉獄篇を経て終局たる天国篇(Paradiso)へ。

ダンテは遂に、至高天にて、"天上の薔薇"とも呼ばれる光の中心に「いっさいの望みの究極(はて)」である神を観るに到る。

「ただそれだけが真実な、崇高な光輝の/光線の奥へ、さらに深く、はいっていった」 「その光の深みには/宇宙に散らばったもろもろのものが/愛によって一巻の書にまとめられているのが見えた」(以上、第三十三歌)

全三篇、粘着的なまでに体系的な、宗教という強迫観念の大伽藍を見せつけられた。



ダンテ自身が冒頭で述べているように、天国篇は地獄篇・煉獄篇に比して難解であり退屈でもある。神的宇宙と云う肉体的現実界とは隔絶された観念体系を、神学的な抽象語で以て綴らねばならぬのだから、尤もではある。それに、善を語るには小理屈を練らねばならぬが、悪にはそれ自体の生々しさがありそれだけでも興味を惹くものだ。

神の絶対性を中心に据えてしまえば、そこから無尽蔵のレトリック・贅言冗語を導出し、如何ようにも言葉を踊らせることができる。「神意」だの「至上善」だの「愛の光」だのと定義不明瞭・定義不可能な語を持ち出されては、叙述や対話の論理的連関は曖昧模糊となること不可避だが、その曖昧さを伴ったまま、神学体系は至高の天上へ向けて何処までも恣意的に語り上げられていく――その「厳格さ」だけは決して放棄されることなく。神の裁きや地獄の罰の如何もこのように恣意的に導出されてしまうなら、これはもはや専制だ。こうして宗教的権威は世俗に於いて権力をもつことになる。権力者と云うのは、言葉を支配し同時に言葉を支配の手段にするものだが、宗教的権力こそが人類史に現れた最初の"言葉の創造=支配者"ではないか。

なお、"永遠の女性"であったはずのベアトリーチェは、最後までキリスト教の教説をひたすら復唱するだけの「自動人形」(正宗白鳥)に過ぎない。



第二十二歌の訳註で紹介されている、クローチェ(1866-1952)によるダンテ評が興味深い。

「世界からの逃避、神への絶対的帰依、禁欲主義、などは、ダンテの精神にとって異質なものであったから、『天国篇』の中にこうしたものは見あたらない。ダンテは世界から逃避しようとしない。彼は世界に教訓を垂れ、世界を矯正し、世界を改革しようとして、天上の至福に言及する。・・・。天と地という二つの世界が公然たる対照裡に示された時でさえ、神的なるものが人間的なるものにうち克ち、それを徹底的に放逐してしまった、とはどう見てもいえないのである」(『ダンテの詩』)

確かにダンテは至高天に於いてもなお俗世の政治家や聖職者をしつこく非難し続けており、天上に在りながらも現世に於ける政治的事業のことが心から離れているようには思えない。

宗教に神秘的な忘我の契機を求める者は、アリストテレス-トマス・アクィナス的な目的論的世界に於いてもいたであろう。しかし、ヴェーバーの『中間考察』にあるように、断片化された自我がその全体性を回復しようとして非合理的な対象との合一を求めようとするのは、資本主義と官僚制に覆われニヒリズムに到るもなお留まることのない機械論的世界、則ち近代の人間に特有の傾向なのだろう。



最後に警句を一つ。

「見当のつかぬ事柄については早急に是非を論ぜず、/疲れた人のように歩みを遅らせるのがいいだろう。/・・・/細かい判断もなしに肯定否定を行う者は/愚か者の中でも下の下たる者だ」(第十三歌)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: イタリア文学
感想投稿日 : 2012年8月21日
読了日 : 2012年8月21日
本棚登録日 : 2012年8月21日

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