反知性主義 (新潮選書)

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  • 新潮社 (2015年2月20日発売)
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"知性にせよ信仰にせよ、旧来の権威と結びついた形態は、すべて批判され打破されねばならない。なぜなら、そうすることでのみ、新しい時代にふさわしい知性や信仰が生まれるからである。その相手は、ヨーロッパであったり、既成教会であったり、大学や神学部や政府であったりする。反知性主義の本質は、このような宗教的使命に裏打ちされた「反権威主義」である。 (p.140)"

 現代日本において反知性主義と言えば、"最近の若者は本を読まなくなったとか、テレビの低俗な娯楽番組で国民の頭脳が毒されているとか、大学はレジャーランド化して単なる就職予備校に成り下がったとか(p.3)"といったネガティブな事例、あるいは社会に蔓延するナショナリズムやポピュリズムを指す言葉となっている。しかし、この用語が生まれたアメリカでは、元々もっとポジティブな意味を与えられていた言葉だった。それは、「反-知性」主義というよりも寧ろ反-「知性主義」と括るべきもので、"知性と権力の固定的な結びつきに対する反感(p.262)"を原動力とする。
"大家のもつ旧来の知や権威への反逆であって、その反逆により新たな知の可能性を拓く力ともなる。反知性主義は、知性の発展にも重要な役割を果たすのである。(p.237)"
そして、アメリカの反知性主義は決して最近になって突然現れたわけではなく、キリスト教を背景としてその社会に深く根差している。本書では、建国以来の「アメリカのキリスト教」史を振り返り、反知性主義という大きな流れがどのように発展していったかを非常に分かりやすく解説している。

 結論を先に言えば、アメリカの反知性主義の根底にあるのは、既成教会に対する反発から生まれた宗教的な平等主義と、真面目な努力には神が必ず祝福を与えてくれるという道徳観念である。
 前者は、入植当時のニューイングランドにおけるピューリタン社会が高度に知性的な社会だったという事実が前提としてある。歴史的に見て、当時のニューイングランドは人口当たりの大学卒業者の割合が異常に高かったという。また、プロテスタント教会は一般信徒にも聖書を読むことを奨励するので、日曜日の礼拝は聖書の内容を牧師が解説する難解なものだった。元々、ピューリタニズムは、教会の純化を求める革新運動として始まった。だが、"旧世界では既存の体制を批判する人びとであったが、新世界ではみずからが体制を建設しこれを担ってゆく側にある。(p.63)" 極端な知性主義は、反動として「信仰復興運動(リバイバル)=宗教心の急速かつヒステリックな高揚が広がっていく現象」を引き起こすことになった。その担い手は巡回説教師であったが、彼らは大学で神学を勉強したわけでもなく、"みずからの信仰的確信だけを頼りに、ある日どこからともなく町にやってきては、人びとを集めて怪しげな説教をして回る(p.83)"のである。当然町の牧師たちは彼らを批判するが、人気は衰えない。彼らの説教が抜群に「面白い」からだ。
"それまで人びとが聞いてきた説教といえば、大学出のインテリ先生が、二時間にわたって滔々と語り続ける難解な教理の陳述である。それに比べて、リバイバリストの説教は、言葉も平明でわかりやすく、大胆な身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語り出す。既成教会の牧師たちがいくら警告を発しても、信徒がどうしてもそちらになびいてしまうのも無理はない(p.83)"
この信仰復興運動は、徹底した平等理念に繋がっていく。つまり、一人ひとりがそれぞれ心に抱いた信仰の確信こそが正しく、インテリ牧師の、学術的に裏付けされているとしても何だか小難しい話より尊重されるべきものだという考えである。
"アメリカ人の心に通奏低音のように流れる反権威志向は、このようなところから養分を得て根を張っている。彼らは自分で聖書を読み、自分でそれを解釈して信仰の確信を得る。その確信は直接神から与えられたのだから、教会の本部や本職の牧師がそれと異なることを教えても、そんな権威を怖れることはない。よく言えば、これが個々人の自尊心を高め、アメリカの民主主義的な精神の基盤を形成することになるのだが、悪くすると、それはまことに独善的で自己中心的な世界観に立て籠もる人びとを作ってしまう。(p.151)"
 後者は、神学的に言えば、神と人間との間に結ばれた契約において、双方がお互いに履行すべき義務を負っている("対等なギブアンドテイクの互恵関係(p.23)")という側面を強調していることになる(このような契約理解は、建国期に活躍したピューリタン指導者ジョン・ウィンステップが語った説教の中に既にその片鱗を垣間見ることができるという)。現状がどんなにどん底であっても、回心して真面目に生きれば神からの祝福を得るという福音のメッセージは、確かに救いである。だが、「努力すれば報われる」という道徳が、「報われたのは自分が努力したからだ、正しかったからだ」(ヴェーバーはこれを「幸福の神義論」と呼んだ)という自己正当化に転換するのは容易だ。特に、時代が進んでリバイバルが産業化・娯楽化していくにつれてこの傾向が顕著になっていく。つまり、宗教と現世的な利益・実利志向のビジネス精神が結びついたのである。リバイバル集会は自己啓発に近いものとなり、"宗教的訓練はビジネスの手段(p.267)"と化す。二十世紀初頭の大衆伝道家ビリー・サンデーに対する筆者の心理分析を、少し長いが引用する。
"つまり彼は、世間的に成功することで、自分が大きく道を踏み外してはいない、ということを実感したいのである。(略)世俗的成功は、それ自体が目標なのではなく、自分の生き方の正しさを計るバロメーターとなった。彼にとって、信仰とはすなわち道徳的な正しさであり、世俗的な成功をもたらすものである。だから、もし自分が世俗的に成功しているならば、それは神の祝福を得ていることの徴なのである。
 彼が長老派教会の牧師として正規に任職されることを求めたのも、ことさらに奢侈でおしゃれな服装を好んだのも、そして臆面もなく集会の人数や献金の多さを誇ったのも、みなこの同じ論理に基づいている。何ともわかりやすい感覚であるが、あまりに直接的で、何かしらもの悲しいところがある。(略)
 癒しがたい空洞を内心に抱えているからこそ、外面ではどこまでも自分を膨らませてゆく。それがこの時代のアメリカの特徴であり、ビリー・サンデーという個性の特徴でもあった。サンデーは、まさに時代の子である。(p.244)"
 サンデー以降の反知性主義は、その大衆的な成功のために「権威化」していくという矛盾に陥り、元来の反権威的性質を次第に失っていくことになる。

 最後に、現代日本の反知性主義について考えたことを書いて終わる。筆者はあとがきで、
"強力な知性主義がなければ、それに対抗する反知性主義も生まれず、逆に強力な反知性主義がなければ、知性主義も錬磨されることがない。(p.272)"
と書いているが、まさにその通りだと思う。日本では思想の伝統化が終ぞ行われることがなかった、と述べたのは丸山眞男である(『日本の思想』)。これを彼は神道の「無限抱擁性」に起因するものだと分析したが、この無限抱擁性のためにキリスト教やマルクス主義のようなその下に概念を整序することを内面的に強制する思想に対しては不寛容であり続けた。ともかく、現代日本に蔓延る反知性主義が、アメリカにあったような創造的な「反権威主義」ではなく、単なる大衆迎合と拝金主義であるとしても怪しむに足りない。例えば、所謂「成功者」の言動を批判する人に対して「お前も成功してからモノを言え」といった物言いがなされるのを時折目にするが、これはまさに上述の「世俗的な成功」=「正しさ」という図式に当てはまるだろう。ただ、そこには宗教的意味合いはまったくなく、金の多寡があるだけだが。「成功者」の言うことに聞くべきものが皆無だとはもちろん思わないけれど、彼らの発言を何でもかんでも有り難がるのは危ういと感じる(きっと、「成功」が全面化した価値観にとっては、実際には「成功」するための手段にはどこまで行っても正解が存在しないが為により一層、「成功者」の示す「正解」が生活のあらゆる場面で正しいのだという、ある種の道徳に至るのではないかと想像する)。

はじめに
プロローグ
第一章 ハーバード大学 反知性主義の前提
極端な知性主義 ピューリタンの生活ぶり
第二章 信仰復興運動 反知性主義の原点
宗教的熱狂の伝統 「神の行商人」 反知性主義の原点
第三章 反知性主義を育む平等の理念
アメリカの不平等 宗教改革左派とセクト主義 宗教勢力と政治勢力の結合
第四章 アメリカ的な自然と知性の融合
釣りと宗教 「理性の詩人」と「森の賢者」
第五章 反知性主義と大衆リバイバリズム
第二次信仰復興運動 反知性主義のヒーロー リバイバルのテクニック
第六章 反知性主義のもう一つのエンジン
巨大産業化するリバイバル 信仰とビジネスの融合 宗教の娯楽化
第七章 「ハーバード主義」をぶっとばせ
反知性主義の完成 知性の平等な国アメリカ アメリカ史を貫く成功の倫理
エピローグ
あとがき

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 3 社会科学
感想投稿日 : 2022年10月31日
読了日 : 2022年10月28日
本棚登録日 : 2022年8月12日

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