流星ひとつ

著者 :
  • 新潮社 (2013年10月11日発売)
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5

出してはならない一冊だった。同時に今こそ出されなければならない一冊だ。ノンフィクション文学の大家が30年前に書き上げてしまっていた彼の集大成である。

藤圭子が引退したのは30年以上前だから、とおの昔に「死んだも同然」の流行歌手だ。死んだはずの彼女は、皮肉な形で二度「生き返った」。最初は、娘の宇多田ヒカルがデビューを果たしあっという間にトップシンガーになってしまった時だ。戦後最大の思想家である吉本隆明が流行作家になってしまった娘にちなんで「ばななパパ」と呼ばれてしまった哀しい現実と相通じているが、娘が並外れた歌唱力で一世を風靡したとき、「彼女の母親は藤圭子という演歌歌手で、さらに祖母は浪花節士」だったみたいに娘の経歴紹介の中で一瞬だけ生き返った。けれども、日本人形のような美貌に似つかわぬ低いドスのきいた声で「新宿の女」や「圭子の夢は夜ひらく」を謳い、昭和世代に忘れられない姿を刻みつけた藤圭子の実相が真摯に語られることは無かった。無責任なゴシップ報道はあったかも知れないが、本人の口から心情が語られたことも、まともな書き手がきちんと後づけた伝記も存在しなかった。演歌ではなく「怨」歌だと揶揄された彼女の生き様を、真に知るものはいなかった。「怨」の仮面に隠された素顔を知らぬまま、私たちは彼女を死んだも同然の存在として忘れ去っていた。

私は沢木さんの作品を30年以上にわたり読み続けている。だが、結局のところ80年に『テロルの決算』の最終ページのエピソードを読み終えた瞬間の全身に鳥肌がたったあの感動を越える作品はなかった。『テロルの決算』の翌々年にかかれた『一瞬の夏』は、前作で沢木さんが確立した「私ルポルタージュ」というべき手法の期待されるべき第二作だった。それまでの客観を装い、無にしようとしても出来ようはずのないおのれを無にして対象を書くというルポの常道を突き破り、自らが積極的に対象に関わっていきその過程を書くという手法は斬新であった。しかし、『一瞬の夏』で、中心人物のボクサーがダウンして敗れた「一瞬」に、書き手の沢木さん自身がリングに飛び乗っているかのように「私」が対象に入り込みすぎている姿に私は落胆した。おそらくは、書き手自身も「私ルポルタージュ」の手法の限界を強く意識したのであろう、本書『流れ星ひとつ』の後記のなかで「当時の私は、日夜、ノンフィクションの『方法』について考えつづけていた」と吐露しているし、その後一作ごとに「方法」の試行錯誤を続けたとも書いている。

30年の間に幾つかの試行作、あるいは錯誤作を読んだ。
『檀』は、小説の体裁をとってはいるものの檀一雄の生涯を彼の未亡人へのインタビューを元に構成したもので、この無頼派作家の生き様がこの一冊をきっかけに私の中のどこかにかっちりと位置づけられた気がする。しかし、もしこれが檀という著名人の人生でなかったら、物語として成立しえただろうか。また、これってルポなの小説なの、こういう方法は「あり」なの。読み手の私同様、書き手の沢木さんも迷っていたのだろう。
『無名』は、市井の文字通り無名の人だった父親の人生を息子の沢木さんが後づけた秀作だ。だが、この一冊が作品として成り立っているのは親父は無名であっても書き手が有名な作家であるからに他ならない。
『凍』は、客観性を装いおのれを殺して書くオーソドックスなルポの手法で書かれていた。それなりに感銘を受けた。だが、沢木耕太郎がこれを書く意義があるのか。当然彼自身がそう思っていたのではなかろうか。
結局、出世作だった35年前の『テロルの決算』を越える作品は、「ない」と断言してしまいたい乱暴な気持ちになってしまう。

後記によると、この『流れ星ひとつ』は『テロルの決算』と『一瞬の夏』との間に書かれている。本来のタイトルは単に『インタビュー』とすべき、問いの台詞と応えの台詞だけで構成するという極めて斬新な手法である。単なる問いと応えの羅列の中で、「怨」という仮面を被ったイメージでだけ捉えられ、スキャンダルにまみれ、数限りない誤解にだけ包まれて世の中から姿を消した一人の女性の実像がありありと、手に取るように伝わる。だからこの一冊が世に出た今藤圭子は見事に生き返ったといえる。
そしてまた、「精神を病んで自殺した昔の有名人」というひとくくりの説明だけで再び葬られようとしている一人の人間の真実を、今こそあえて世に問うた書き手の英断に、私は35年ぶりの鳥肌をたてた。「私」をも対象をも丸裸にし世にさらしてしまうリスクは、私小説同様の限界である。30年以上本作が封印されていた理由もそこにある。

だがこれは間違いなく、この書き手の最高傑作にして、もう二度と書かれることのない「私ルポルタージュ」の金字塔である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 丁寧に書かれた人物記
感想投稿日 : 2013年10月19日
読了日 : 2013年10月19日
本棚登録日 : 2013年10月19日

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