史実を歩く (文春文庫 よ 1-46)

著者 :
  • 文藝春秋 (2008年7月10日発売)
4.09
  • (14)
  • (19)
  • (10)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 138
感想 : 18
5

 表紙の一枚の写真。
 そのためだけに買った。533円だった。
 新書版を貪るように読んだのは十四年まえ。文春新書における通し番号は「003」、『史実を歩く』は、文藝春秋が創始した新書の最初の3冊の一角だった。以来、吉村作品は30タイトル前後は読んだであろう、新書版『史実を歩くは』何度も読んで擦り切れている。だがまた、書店の棚で立てて飾られた文庫版の表紙写真に今日、まず目が留り、足が止まった。いつの間に文庫になってたんだろう。
 それにしても感心させられるのは、この一枚を選んだ編集者の見識である。
 三年前、「史実を」ではなくて「吉村昭の足跡を」歩いてみたくて訪ねた長崎は坂道の街であった。そして、芥川賞を何度も獲りそこね、妻である津村節子に先を越され、純文学作家として崖っぷちに立たされた一人の男として、吉村昭が歩いた坂道を私も歩いた。
 深夜、出島近くのホテルを抜け出した私は「浪の平」という海岸を訪ね夜明けを待った。そこは、吉村があるインタビューに答えて、自身が『戦艦武蔵』の執筆を決意したのはそこでだった、と告白した場所である。
 「吉村なら書くだろう」といった編集長の発言を伝える編集者の言葉を吉村は頭の中で反芻していた。とうとう芥川賞を獲ることができなかった。あろうことか妻に先を越されてしまった。純文学作家として食い詰め状態の吉村なら、絶対引き受けるハズだという意味に思えた。吉村が一人やけ酒に酔いながら下った暗い坂道を、同じように下る私にも悔しい思いが込みあげる。だが、すり鉢型の長崎の街は、どの坂をくだってもお約束の通り港に出る。そして、やはり対岸には長崎造船所の威容が目に入る。
 昼間取材に訪れた造船所を対岸に眺めながら、吉村は一人座って夜を明かす。小雨が降り始めた明け方、天主堂の鐘の音が湾内にこだまする。インタビューで語られたのはそこまでだ。
 小雨は降ってはいなかったものの、同じく夜通し暗い造船所を見つめたあげくに、同じ鐘を耳にし、あああれは大浦天主堂の方角じゃないかと悟った私は、あの鐘が鳴った瞬間こそが、記録文学の金字塔『戦艦武蔵』誕生のときであったのだ、と確信した。
 
 作家を奮起させるためには、時には追いつめ、時には叱咤することもある編集者という役回りは、裏方ではありながら文学には欠くことができぬ存在であろう。
 吉村昭のほかにも長崎に親しみ長崎を描いた作家は多い。遠藤周作もその一人。先日遠藤周作展で見た編集者の手帳は鳥肌ものだった。
 「『日向の匂い』では売れそうにないので、タイトルを『沈黙』にかえるように先生に進言」と記されていた。
 その編集者の提案を入れ『沈黙』と題された長編は思惑どおり大ヒットし遠藤の代表作となる。だが、陽の光のように、惨めな転向者(転びばてれん)の背中をも温かく慈愛でつつむ神のイメージを込めた「日向のにおい」が、厳しく転向者を拒絶する冷たい神として全く正反対のイメ-ジに誤解されることとなってしまう。遠藤は生涯その誤解に苦しむ。

 今は亡き須賀敦子は珠玉のエッセイを数編だけ残した。たった八年の作家生活だった。その須賀敦子が最後に書きたかったが未完成に終わったのは『アルザスの曲がりくねった道』と仮題される小説であったといわれる。「といわれる」と伝聞調で書くしかないし、親交のあった作家たちも、たとえば堀江敏幸でさえ、「それは小説であっただろう」とか推測調でしか語ることができない。なにしろ作品は未完で、当人は亡くなられている。
 季刊『考える人』の2009年冬号が須賀敦子特集号であったのでアマゾンで手に入れた。新潮社の鈴木という編集者に宛てた須賀敦子の自筆の手紙が見開きで載っているのを見て目を瞠った。
 初めての小説作品を書く不安を鈴木が気遣ったことへのお礼であろうか、「まだまぼろしの『アルザスのまがりくねった道』の出発点が深まったような、それに有力な理解者が出現したことのよろこびがふつふつと湧くきもちでした」と須賀は書いている。「私にとってのはじめての虚構」とも書かれている。
 仮題は仮ではなく「小説だろう」も「だろう」ではない。その編集者あての手紙には「明快な動かぬ証拠」が示されている。
 編集者恐るべしである。

 『史実を歩く』文庫版の表紙をもういちど見る。
 頭も眉も黒々と明らかにまだ若い吉村昭が坂を上っている。説明はないが長崎の坂道なのは明らかだ。吉村の後ろ、坂を下ったさきには港と対岸の造船所が見える。
 吉村昭が史実を歩きはじめた原点が、この一枚の中にある。
 この一枚を選んだ、名も知らぬ編集者に感謝する。
 あなたは全てをわかっている。
 ありがとう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 吉村昭 著作
感想投稿日 : 2011年7月24日
読了日 : 2011年7月24日
本棚登録日 : 2011年7月24日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする