情報学的転回: IT社会のゆくえ

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  • 春秋社 (2005年12月1日発売)
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・概要
 本書の要点は主に第一章と第四章に述べられている。
現代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。人生の克服は、自分のエゴイズムを超えた高次の存在を自覚することによって果たされる。だから、現代社会には聖性が必要である。この場合、聖性は人間にとって無上の価値を持つ。価値とは情報のことである。そのため、ITは聖性と関係があるといえる。その関係は世俗化ということである。なぜなら、ITとはシニフィアン(記号表現)を扱う技術であり、普遍宗教は聖書というテクスト(記号の集積)を持つからである。現存する普遍宗教はユダヤ=キリスト教を除いて、古代インド哲学であるヴェーダーンタ哲学のみである。前者は生物を外側から認識し、後者は内側から認識する。そのため、ヨーガの精神によって人間を解放することができる。(第一章)
 情報には三種ある。生命情報、社会情報、機械情報の三つである。生命情報とは広義の情報。これは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用そのもののことである。社会情報は、狭義の情報であるが、これは一般的語法における情報に等しい。つまり、社会情報とは社会的に通用する、意味を持った情報のこと。これは言語や画像イメージなど、人間による抽出化によって表現される。機械情報とは、最狭義の情報で、記号表現のこと、すなわち、言語である。
人間が生命情報から社会情報を抽出化する際に、余剰が生まれる。例えば、周囲に対する恐怖や不可解の念から、一種の神話、物語が作られ、形而上学が設定される。ここに聖性が登場し、死に対する恐怖から宗教が生まれる。宗教的聖性は社会的環境において発生する。ある人が感得した霊妙な感覚というものは、他人に承認されることで確かな存在になる。そのコミュニケーションを通して聖典が編まれる。以上のような過程を持つため、生命的な次元の存在である情報を社会的次元から扱うことができる。
しかし、コミュニケーションを行う人間相互の心のなかは互いに交換することができない決定的な溝がある。その人間の心を生成するものはオートポイエーシスである。オートポイエーシスとは、生成システムの一つで、有機構成論において人間と機械を異なったものとする根拠であり、また、自己創出系と呼ばれる、生物はただ盲目的に生きているものであるとする思想である。このオートポイエーシスの思想は、神が一切を創造したとするユダヤ=キリスト教思想と対立する。生物を内側から眺めるという視点にオートポイエーシスの真骨頂がある。(第四章)
 つまり西垣の主張していることは、現代社会を構成するユダヤ=キリスト教的普遍主義を相対化し、人間を解放するべきということ。また、その鍵となる概念が古代インド哲学やオートポイエーシスに共通する、生命を「内側から見る」ことである。

・「内側から見る」こと
ところで、内側から見るとは具体的にはどういうことか。内側の対概念として措定されているのは、外側、すなわちユダヤ=キリスト教思想に代表されるロボット化である。ならば、内側から見るということはあくまで人間を人間として認識するというだけのことだろうか。本書238頁には次のような記述がある。

生命体が世界をそれぞれのやり方で認識する。それらの重なりとして宇宙が存在す
る。このまなざしを通して、あらゆるところに満ちあふれている生命的なダイナミズ
ム、生命流というものが浮かびあがるわけです。これが生物を内側から眺めるという
ことなのです。

 このように西垣の言う「内側からの認識」とは、単なる非機械化という消極的な認識ではなく、あらゆる生命(人間のみならず、動植物も含まれる)の根源性を包摂した積極的な認識なのである。すなわち、西垣は近代的人間中心主義に対し批判的なのである。
 では、なぜ西垣は人間以外の生命を尊重するべきと主張するのか。それにはオートポイエーシスの発想が関係している。河本英夫は「オートポイエーシス」(『現代思想フォーカス88』木田元編、新書館、2001年)において、オートポイエーシスの条件について述べた後で、その性質について次のように述べている。

これらの条件によってイメージされているシステムは、比喩的にいえば渦のような
動きがつくりだされ、それが継続して行くうちに生じた要素によって、特定のかたち
をとると言うのに近い。そうすると動きの側から現実の形態の形成を導くという点で
は、自己組織化と同じである。
さらにオートポイエーシスでは、動きをつうじて作り出された要素が、再度動きそ
のものを活性化させ、動きを継続していく。動きを継続しながら、要素によって張り
出された位相空間にシステムが実現するのである。
システムは、作動を継続することで連続的にみずからの閉域を形成する。これはた
だ閉じているシステムではない。むしろ伝統的な開放性と閉鎖性の区別が消滅する。
ここが特殊な閉鎖性の発生場面である。またそれぞれのシステムは作動を継続するこ
とで、みずからの空間に実現する以上、このシステム論は多元論となる。さらに各シ
ステムはそれじたいで作動するだけであるから、みずからの基盤や目的を他のシステ
ムによって保証されることはなく、その意味で一切の階層性(ヒエラルヒー)が消滅
するのである。

 これを西垣の言葉に即して言えば、一切の生命はただ漠然と生きようとしているのであり、その結果として様々な形態を示しているに過ぎない。そのため、他のシステム(例えば一神教的神)によって特定の種族の優越性は認められないのである、ということになる。そのため、西垣は近代的人間中心主義に反対しているのである。

・問題点
 とはいえ、オートポイエーシス理論によって一見正当性をもつような論理が示されたように見えるが、これはあくまでも倫理的根拠が示されたに過ぎない。西垣は倫理的根拠に基づいて、生命を生命として肯定する手法、いわゆる「内側から認識する」方法を選択しているに過ぎない。つまり、私がいいたいのは、自然を活用してはいけないということの論理的根拠が欠けている、ということである。特定の種族がその他の種族に優越する根拠はないにしても、特定の種族がその他の種族に対して優越することを制約する根拠もまたないのである。極めて簡略化してしまえば、自然や動物を守るべきというのはあくまで西垣の趣味でしかないということである。
 なぜ私がこのような理不尽にも残酷にも取られかねない思想を支持するのかと言えば、それは人間中心主義もオートポイエーシス理論によって形成される西垣の自然愛護精神も、その機能という点についてはどちらも同じだからである。例えば、ヒューマニズムも自然愛護派も己の信じるところに従って、他者にその信条を要求するだろう。それは当人の信念の強度に比例して、要求度は高まり、ついには強制に至る。宗教的にいえば、折伏する必然性に行きつくのだ。中身は異なっても活動は異ならないのである。
 本質的な問題点は機械化でもユダヤ=キリスト教的普遍思想にあるのでもない。問題はただ、現実という圧倒的実在の前に自己という他者が存在することなのだ。換言すれば、異なる二つの存在が同時に同様の位相にあることと言ってもいい。日常的な状況を例にとれば、恋人同士の恋愛観の相違や、学校の校則と生徒、或いは雨という天候と出掛けたいという願望というような瑣末な事例まで、これらは皆、「他者」として摩擦を生じている。

・解決策
 それでは、このような状況をいかにして解決するのか。まず私が検討したいことは、芥川になることであり、太宰になることであり、三島になること――すなわち自殺について――である。鶴見済『完全自殺マニュアル』(太田出版、1993年)のあとがきにはこう書かれている。

「強く生きろ」なんてことが平然と言われている世の中は、閉塞してて息苦しい。息
苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、「イザとなったら死んじゃえば
いい」っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通し
を良くして、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。

 この言葉には、ある種の聖性が感じられないだろうか。より真面目な(鶴見も十分真面目だが)論理を引こう。

事故とか病気とかによる偶発的な死は、自殺に比べれば、受け入れ易い。だがそれ
は意味を持つことがなく、それだけに一層痛ましく感じられる。意味を担うというこ
と、それは〈意志的な死〉だけのよく為しうることだ。たとえその意味をわれわれが
すぐに理解できない場合があるとしても、というのも、その動機が錯乱し混乱してい
る自殺も多くあるからだが、その場合でも、われわれはそこに何らかの意味を予感し、
どんなに見分けにくいものであっても、そこに意味が欠けているはずはないと考える。
そして、注意深く耳を傾けてゆけば、やがてその自殺がその思いを叫んでいる声が聞
こえるようになることを、われわれは知っている。
(モーリス・パンゲ『自死の日本史』竹内信夫訳、講談社、2011年)

 ここにおいて、パンゲは自殺を「運命への愛」として肯定的に捉えている。つまり、現状への抵抗であり、未来への呼びかけという意味を自殺に与えているのだ。しかし、この考えでは自分という個人は救われるかもしれないが、世界全体は何も変えることができないし、問題を延長しているだけ、という指摘もなされるかもしれない。そのうえ、この考えも一つの立場を取っているのであり、他者に対しての配慮が欠けているので、結局、従来と問題は変わらないのである。自殺も根本的な解決にはならない。そこで、私が注目するのは以下の言葉である。

この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物
質的現象で(あり得るので)ある。実体がないといっても、それは物質的現象を離れ
てはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのでは
ない。(このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないこと
である。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。これと同じように、
感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。(中略)(さとりもな
ければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもな
い。こうして、ついに老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいた
るのである。
(『般若心経・金剛般若経』中村元・紀野一義訳注、岩波文庫、1960年)

 ここで述べられていることは、「空」の思想である。つまり、生や死を認識する我々の思想の無効宣言である。生も死もないのだから、幸福も不幸も元来、存在しないものなのである、ということだ。
 仏教思想はヴェーダーンタ哲学の系脈に属する思想であるが、ヴェーダーンタ哲学を止揚することで誕生した思想であるとも言える。そのため、西垣の依拠するヨーガのような現世肯定の思想において解決不可能な問題に対しても、我々自身の存在性を否定する空の思想によって解決が可能になるのである。厳密に言えば、問題も何も元からなかったことがわかるのだ。
この空の思想に依拠して現実を生きていけば良い。それはどのような生活になるか。それはただあるがままの生を肯定することになる。なぜなら、そこには生も死もないからである。何も望むところもなく、何も得るところもなく、あるいは何も失うところもなく、何も悲しむこともない世界である。そこでは「私」も消える。「他者」も消える。彼我の区別も消える。ゆえに記号内容が消え、記号表現も消える。記号表現が消滅すれば、もはや情報学の活動領域は存在しない。私はここにこそ、本当の内側があるのだと思う。内も外も消える領域こそが、我々が普段認識しているこの現実世界の外側(あちら側)ということになろう。本来あるべき場所を内側と呼ぶのなら、まさにその世界はこの理性の外側にある。理性とはすなわち、言語である。言語とはすなわち情報(機械情報)である。西垣は「機械情報の側から生命情報を見直そうという視点が出現しつつある」と述べているが(『情報学的転回』226頁)、情報の立場に立ち続けるのなら、全く同じ問題に回帰し続けるだけなのである。情報学が情報学自身の外側を認めなければ根本問題は常に隠蔽され続けてしまう。情報学的転回という言葉に著者が託した記号内容を真に果たすためには、もはや一切の名状を必要としない、いわば「無」の情報に依拠しなければならないのである。


・補遺
 以下に、本稿製作以前に書いた本書の各章概要を付す。
●梗概
 現代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、聖性を失った人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。けれども、我々日本人は完全なユダヤ=キリスト教徒になってはいけない。
 現代社会の問題とは何か。それは相対的ニヒリズムである。例えば、ユダヤ=キリスト教的普遍思想を世俗化したコンピューターに始まるIT文明は我々をロボット化する機能を持つ。ユダヤ=キリスト教的普遍思想は生命を外側から眺める認識方法を選択する。では逆に生物を内側から眺める手法を取るものは何か。それはオートポイエーシスである。

●各章要約
・第一章 人間がロボットになる
現代社会はユダヤ=キリスト教を中心としたエゴイズムの社会であり、人々は半ばロボット化し生きる意味を喪失している。人生の克服は、自分のエゴイズムを超えた高次の存在を自覚することによって果たされる。だから、現代社会には聖性が必要である。この場合、聖性は人間にとって無上の価値を持つ。価値とは情報のことである。そのため、ITは聖性と関係があるといえる。その関係は世俗化ということである。なぜなら、ITとはシニフィアン(記号表現)を扱う技術であり、普遍宗教は聖書というテクスト(記号の集積)を持つからである。現存する普遍宗教はユダヤ=キリスト教を除いて、古代インド哲学であるヴェーダーンタ哲学のみである。前者は生物を外側から認識し、後者は内側から認識する。そのため、ヨーガの精神によって人間を解放することができる。

・第二章 IT文明の本質とは何か
 ユダヤ的知性は土着性を奪われることによって生じた。土着性を喪失したことによって、時間空間を限定しない普遍的な論理に基づく思想や生活技術を考案する必要が生まれた。その普遍思想とは、神の言葉を唯一の論理として、あらゆるものの価値を論理的体系的に規定する思想である。これを世俗化し、メカニズムを応用したものがコンピューターである。つまり、IT文明の本質とは、ユダヤ的普遍思想なのである。

・第三章 情報学が文と理をむすぶ
 現在の日本社会には、文系と理系の区別を排した経済的実利のみを目的としない批判的知が必要である。文理の溝を埋めるためには、非効率的でも基礎的原理的に検討すること、すなわち、知そのものを根底から考えることから始めなくてはならない。この状況が生まれた原因は、明治期にある。明治社会は西洋知の輸入によって従来の神仏儒からユダヤ=キリスト教的価値観に転換したのだが、その表層部分のみを移植し本質を等閑視したために、聖性を喪失した。聖性を持たない科学的合理主義には限界がある。それがニヒリズムの源流となる。ITが我々の生活に作用し、ロボット化する可能性があるので、これに対する自覚として批判的知を修得する必要がある。
【備考】
 著者の主張は、聖性を持たない日本社会の合理主義には限界があるためニヒリズムに陥るということだが、ニヒリズムは世界的な問題であり、著者の言うユダヤ=キリスト教文明圏においても同様である。この場合、ニヒリズムにも種類があると考えるべきか、あるいは、著者の主張に誤謬が含まれるのか。
 また、著者は動物を含めた自然全体を愛護すべきと主張するが、その論理的根拠は何か。
 また、著者は相対主義的ニヒリズムを克服するために、人間は他の動物と異なるという人間中心主義の放棄を推奨しているが、人間の絶対性を相対化してしまうと、かえってニヒリズムを強化しないか。むしろ、他の生物を食するという権利を失い、人間が存続できなくなるのではないか。それとも、著者は人間が他の生物を食し、他の生物も人間を食するという相互消費の形態を主張するのか。

・第四章 情報とは生命的なものだ
 情報には三種ある。生命情報、社会情報、機械情報の三つである。生命情報とは広義の情報。これは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用そのもののことである。社会情報は、狭義の情報であるが、これは一般的語法における情報に等しい。つまり、社会情報とは社会的に通用する、意味を持った情報のこと。これは言語や画像イメージなど、人間による抽出化によって表現される。機械情報とは、最狭義の情報で、記号表現のこと、すなわち、言語である。
人間が生命情報から社会情報を抽出化する際に、余剰が生まれる。例えば、周囲に対する恐怖や不可解の念から、一種の神話、物語が作られ、形而上学が設定される。ここに聖性が登場し、死に対する恐怖から宗教が生まれる。宗教的聖性は社会的環境において発生する。ある人が感得した霊妙な感覚というものは、他人に承認されることで確かな存在になる。そのコミュニケーションを通して聖典が編まれる。以上のような過程を持つため、生命的な次元の存在である情報を社会的次元から扱うことができる。
しかし、コミュニケーションを行う人間相互の心のなかは互いに交換することができない決定的な溝がある。その人間の心を生成するものはオートポイエーシスである。オートポイエーシスとは、生成システムの一つで、有機構成論において人間と機械を異なったものとする根拠であり、また、自己創出系と呼ばれる、生物はただ盲目的に生きているものであるとする思想である。このオートポイエーシスの思想は、神が一切を創造したとするユダヤ=キリスト教思想と対立する。生物を内側から眺めるという視点にオートポイエーシスの真骨頂がある。

・第五章 宗教とメディアから二十世紀をふりかえる
(略)

・第六章 IT文明に新たな聖性は出現するか
 ITや情報というものの見方に根本的な欠陥があるのではないか。とくに日本では。
 IT文明の中にただすべき点があれば、それをアメリカにも伝えるべきだ。
 現在、生命情報、社会情報、機械情報の三種類の間に新たな関係が生じてきている。それは機械情報の側から生命情報を見直そうとする視点である。
 ユダヤ=キリスト教は生命を外側から見ている。古代インド哲学は逆に生命を内側から見ている。生命システムを内側から眺めるのがオートポイエーシスの発想(生物を自生したものと捉えること)。
 我々は完全なユダヤ=キリスト教徒になってはいけない。








参考文献
河本英夫「オートポイエーシス」『現代思想フォーカス88』木田元編、新書館、2001年
鶴見済『完全自殺マニュアル』太田出版、1993年
中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』岩波文庫、1960年
モーリス・パンゲ『自死の日本史』竹内信夫訳、講談社、2011年

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感想投稿日 : 2011年11月29日
本棚登録日 : 2011年11月29日

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