世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史

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  • KADOKAWA (2018年2月16日発売)
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読み終わったのは今から1ヶ月ほど前になりますが、ネットでこの本を見つけました。タイトルや帯によれば、日本史を世界史と繋げて学ぶことができる本です。今まで多くの歴史本を読んできましたが、いずれも専門家の先生が書かれたものが多く、本の内容事態は最近の研究成果などが入っていて以前学んだものとは異なることもあり、新たな気づきを得ることも多くてそれはそれとして楽しんでいます。

しかしながら、最近は、日本である事件が起きている時、周りの国では何が起きていたのか、時間は同一に流れているので、日本史と世界史を同時に学ぶことは面白いのではないかと思うようになりました。私が高校時代に歴史を勉強したときは、世界史が2年生、日本史が3年生で、大学入試ではそれらを選択しなかったこともあり、お互いの関連性を深く理解しないまま、今に至っています。この本に出会えて良かったと思います。

以下は気になったポイントです。

・我々は何者か、という根本的な問いに答えるためには、日本史を世界史(人類史)の一部として位置づけ、祖先が世界とどう関わってきたのか、ということを理解する必要がある(p4)

・奇妙なことに、髪の毛の細胞、内臓、筋肉の細胞も全く同じDNAを持っている。人体を構成している60兆個の細胞がすべて同じDNAのコピーを持っている、どの細胞も全身の設計図をもともと有しているが、実際に細胞を作るときには、特定のパーツだけが発現するようになっている(p24)

・DNA分析により、現生人類がネアンデルタール人から進化したのか、別系統なのかという論争も終了した、我々現生人類とネアンデルタール人は別系統であるのに対して、白人(コーカサイド)黒人、アジア人(モンゴロイド)などの人種の違いは些細なものであった。現生人類の共通祖先は、7万年前以降にアフリカを出てアジアとヨーロッパに広がり、環境に応じてそれぞれ進化したことが分かってきた、ネアンデルタール人が絶滅するまでの最後の1年間は、現生人類とネアンデルタール人は共存し、混血も行われた(p25)

・Y染色体の方は父親から息子へ受け継がれるので、これを遡っていけば、父方の祖先がどこからきたのかがわかる(p28)母親から子に受け継がれるDNAは、ミトコンドリアDNAである(p29)

・縄文人の祖先は、従来言われてきた東南アジアから島伝いにやってきたのではなく、氷河時代に地続きだったシベリア方面からやってきた(p31)縄文系人が山地に住み、平地の弥生人と共存していた(p37)

・纏向遺跡を見下ろす大神神社は、大和国で最も格式の高い「一の宮」である、拝殿のみで本殿がない。三輪山そのものを御神体として祀っているから(p50)

・神話上は神武天皇が最初の天皇とされているのに対して、崇神天皇は実在した最初の天皇ともいわれ、崩御の年は西暦258(あるいは318)と推定されている(p50)

・日本最古の神社として知られる奈良県の石上神宮は、十種神宝を御神体として祀り、物部氏の武器庫として使われていた(p57)

・黄河流域では、モンゴル系の匈奴・羯(けつ)・鮮卑、チベット系の氐(てい)・姜(きょう)の五族の戦いを制した、鮮卑族が漢人と混血して、北魏を建国する。後の、随・唐帝国を立てたのは、この混血民族である(p77)

・武烈天皇が後継者を指名せずに没した後、26代継体天皇(おおどのの大王)が迎えられた、現皇室の直接の先祖である(p95)三輪王朝(崇神)→河内王朝(応神)→越前王朝(継体)の三王朝交代説を早稲田大学水野教授が唱えた(p96)越前の若狭湾はリアス式海岸で良港に恵まれる、ここから上陸すると、琵琶湖・淀川を経て大阪湾に至る(p98)

・白村江の戦い、当時のヤマトの人口500万人、唐の人口は5000万人、百済復興のために半島に送られたのは5万人、人口の1%である。今の日本でいえば120万人の海外派遣をするような大戦争である。唐・新羅連合軍の侵攻に備えるために、中大兄皇子は、大阪湾に面した難波宮と飛鳥へ、さらに琵琶湖岸の大津宮に移転した(p115)

・壬申の乱で勝利を収め大津宮を攻略して大友皇子(天智天皇の遺児、親唐派)を自害に追い込んだ大海人皇子が天武天皇として即位、唐とは絶縁して新羅との関係を修復した、その後、天武・持統・文武の三代30年間、遣唐使は中止される。唐の支配を脱したヤマトの大王が「天皇」という称号、「日本」という国号を正式に採用したのがこの天武天皇の時から(p116)聖徳太子の遣隋使が高句麗遠征を控えた随の容体に「天子」の称号を認めさせたように、文武天皇の遣唐使は、渤海問題を抱える武后政権に「日本」の国号を認めさせた(p124)

・朱全忠に始まる5つの節度使校長を五代といい、地方には10の藩鎮が独立政権を維持したので、合わせて五代十国という(p147)唐の貴族制度が完全に廃止され、代わって、士大夫と呼ばれる科挙官僚が政権を担うようになった(p147)

・皇族貴族は基本的に一夫多妻制で、嫡子(正妻の子)が家督を継ぎ、他の息子たちは分家する、皇族の場合は皇統を継げない王子たちに「氏」を与えて臣下として独立採算させる、桓武天皇達が皇子等に「平」の氏を与えたのが「桓武平氏」清和天皇が「源」を与えたのが「清和源氏」である(p158)関東では源経基が勢力拡大してその子孫に源頼朝が現れる、桓武平氏は関東から伊勢国に移して海賊勢力を手なずけた、この子孫に平清盛が現れた(p164)

・常陸国(茨城)上総国(千葉中央)上野国(群馬県)の関東3カ国は、新王(皇子)が「守」に任命される親王任国である、現地には赴任せずに代理人を「介」に任命して現地に派遣する(p159)

・アフリカにおいて白人が黒人狩をしたのではなく、ぺニン王国(ナイジェリア)アシャンティ王国(ガーナ)など黒人国家が積極的に奴隷狩りを行い、白人商人に売りつけて巨利を得た、多くはアメリカ大陸へ輸出され、大農園で酷使された(p251)

・ポルトガル商人と結ぶキリシタン大名が日本人奴隷を輸出していたこと、イエズス会がスペイン王国に日本派兵を要請したことは、無視されてきた、日本におけるキリシタン研究をリードしてきたのは、ラテン語の読めるカトリック系の大学の研究者であったから。(p264)

・秀吉の行ったバテレン追放令とは、1)キリシタン入信は個人の自由、2)キリシタン大名は領民・家臣に改宗を強制してはならない、3)大名の入信は許可制、4)中国・南蛮・朝鮮へ日本人を売ることを禁止、5)牛馬を食べることを禁止(p267)

・当時はオランダが世界貿易の50%を握る経済大国であり弱小国家だったイギリスはオランダを恐れて東南アジアから撤退しインド貿易に専念する、この影響で平戸のイギリス商館も閉鎖されオランダが対日貿易を独占する(p314)

2023年3月19日読了
2023年4月15日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2023年4月15日
読了日 : 2023年4月15日
本棚登録日 : 2023年3月19日

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