幸運な文明―日本は生き残る

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  • PHP研究所 (2007年2月1日発売)
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この本はアメリカを中心としたシェールガス革命が本格的に始まる前の 2007年の著作で、第1章は今となっては違和感を感じる部分もありますが、全体としては、日本の土地や気候の特徴が、日本文明を外的から守ってきたと主張しています。

特に印象的だったのは、明治維新を経て首都を東京に置いた理由が、江戸時代の参勤交代制度にあったというポイントでした。その根拠として、全国の藩の領主がすべて江戸の言葉を話したからというのは目から鱗でした。

また、欧州とは異なって日本には都市を守るための塀はなかったとされていますが、その代わりに江戸には、高輪・四谷・板橋に「大木戸」があった(p213)という事実も私にとっては新しいものでした。

竹村氏の本は地理や歴史の好きな私にとっては面白いものです、更なる続編を読んでいきたいと思いました。

以下は気になったポイントです。

・滅んだ文明の原因ははっきりしている、安全を失ったか、食糧を失ったか、エネルギーを失ったかである、このうちどれか一つでも欠けたら文明は衰退する(p22、60)

・日本列島には、薄い太陽エネルギーを集める装置があった、それは「山」である。山が集める薄い太陽エネルギーは「雨」である(p38)

・冬に水をはる田んぼの理由は、シベリアから飛来する白鳥やマガンの生息地にするため、鳥たちの糞によりリンをまかなうことができる(p43)

・メキシコの恨みは、1845年のテキサス米国併合、アラモ砦の戦いから米墨戦争まで、カリフォルニア等、国土の半分を奪われた(p67)

・一人当たりの摂取カロリーを変えずに、現在の生産量が維持できれば、100年後には、主食・野菜・果実の自給率は100%となるが、畜産物・魚介類は自給率は100年後でも46%、現在は27%(p76-78)

・ハリケーンによりニューオーリンズが沈んだのは、ポンチャートレーン湖とミシシッピ川が繋がっていたから堤防の決壊により海水が流れ込んだため(p83)

・桓武天皇は夷を恐れて、二大武装集団を生んだ、一つは東北の夷を征伐する武士集団、もう一つは京を見張り防御する親衛隊の比叡山の僧兵であった(p106)

・牛馬に去勢を施さない日本人の文化性が、1000年のクルマ文明の空白と道路の未整備の原因となった(p110)

・大阪に緑の空間の少ないのは、大阪は庶民の町であったから、土地が細かく分割された(p143)

・江戸時代、江戸は利根川を江戸湾から銚子へ追いやった、明治時代になり、東京は命の水源である溜池を、都心から山奥へ追いやった、これにより日本人は人を思いやる心を失った(p156)

・浅草は新しい人工的な埋立地ではなく、関東の大湿地帯の中で1000年以上の歴史をもつ、中洲状の小高い丘であった(p160)

・日本堤と、墨田堤・荒川堤・熊谷堤で囲む一帯で、隅田川を溢れさせて江戸に洪水を到達させないようにした、この地域が遊水地(p165)

・日本堤に遊郭を配置し、墨田堤に桜並木と料亭街を配置し、様々な催事を仕掛けた幕府のソフトウェアは見事に成功した(p169)

・書籍、言葉、絵画、芝居、服装、流行とあらゆる情報が江戸から発信されるシステムがあった、それが参勤交代であった(p196)

・本来明治政府の首都は京都になるべきであった、大政奉還の儀式は京都の二条城で行われたので(p197)

・1871年、廃藩置県で混乱無く藩は廃止された、諸大名のアイデンティティが東京なので(p198)

・徳川幕府の許可、積極的な同意がなければ、赤穂浪士の47士がまとまって泉岳寺に埋葬されることはありえない(p218)

2014年3月23日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2014年3月23日
読了日 : 2014年3月23日
本棚登録日 : 2014年2月23日

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