明智光秀の生涯 (知的生きかた文庫 と 25-1)

著者 :
  • 三笠書房 (2019年11月22日発売)
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感想 : 2
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明智光秀は昔から興味を持っている人物です、いまだになぜ「本能寺の変」を起こしたのか、私の中ではしっくりしていないものがあります。

明智光秀の子孫が書かれた本も面白かったのですが、最近では最新の歴史研究をベースに、多くの歴史書を読みこなし、そしてそこに書かれている真偽を多くの観点から考察したうえでの結果が、今回読んだ本のようにまとめていただけるので、読者としては大変に助かります。つくづく良い時代にいるなと思うこの頃です。

この本に最後の方に、光秀が指揮した全合戦の成績が載っていました、15勝2敗4分だそうです。2敗のうちの1つは、戦死することとなった「山崎の合戦」です。抜群の成績ですが、それでも最後に命取りとなってしまったのは残念です。このような素晴らしい戦績を残した彼の考え方等をこの本で知ることができて良かったです。

以下は気になったポイントです。

・南北朝動乱において土岐氏は足利氏に属して建てた専功により、美濃守護に任命され、守護として国内を統治した。その過程において、土岐一族は国内各地の領主として配置され、その土地の名前を「姓」とすることになった。多治見氏、妻木氏、肥田氏、小里(おり)氏、石谷氏、徳山氏、高井氏等が代表例である、明智氏もそうである。明智という地名は、現在の恵那市と、可児市の二か所にある(p(p18)

・連歌の会は、プレイを楽しみながら蘊蓄を傾け、人間関係を深めるという意味では、アニメ・ゲーム・映画等の特定分野に特化したオタクたちの「オフ会」にたとえると理解しやすい(p27)

・光秀は、手や顔をはじめ全身に火傷を負い、死の恐怖と戦いながら、鉄砲の名手としての技術を習得した、その一方で当時の鉄砲は発射に30秒を要し、雨では使えない、20発以上発射すると暴発の危険が生じるなどの欠点があった、これを光秀は知ったうえで、鉄砲の効果的な使い方を考案していく(p42)

・朝倉義景は、本国越前のみならず、加賀の一部、若狭・後瀬山城主の武田氏、北近江の浅井氏と攻守同盟を結びながら傘下に加え、その合計は禄高100万石以上、総兵力3万人で「北陸の覇者」であった(p43)

・細川幽齋は、御供衆の細川元常の養子となった、御供衆とは将軍の御供をして身辺の護衛をする親衛隊、細川氏・山名氏・畠山氏・一色氏など、有力大名の一族が任じられた(p59)

・公家の家格は、上から順に、摂家・清華家・羽林家・名家・半家の5つに区分される(p73)

・織田家の先祖は越前・丹生軍織田であり、織田剣神社は織田家縁の古社である。かつて朝倉、織田は斯波氏に仕えていたが、朝倉家の方が格上であった、更に信長の織田家は、守護代織田家の分家筋であるので、隆景は信長に頭を下げる相手と見なしていなかった(p77)

・光秀は、秀吉よりも勝家よりも早く、数十万単位の領地の支配を一任された、織田軍団の出世頭であった(p100)

・光秀は、本能寺直前には、近江西部・丹波の支配以外に、単語宮津城主の細川幽斎、大和筒井城主の筒井順慶、摂津大阪城主の池田恒興らを与力大名して、支配領域は120万石にも及んでいた(p122)

・足利義昭は京都から追放されても公的には征夷大将軍であった、なので亡命先の毛利領の鞆で「鞆幕府」を創出して、信長の「安土幕府」と対抗した(p148)

・信長は、畿内一円を安定して統治するため、かつて摂津・和泉・河内を勢力としていた「三好氏」と取り込むべきと判断し、長曾我部元親に占領した三好領の返還、同盟関係の清算、家臣として服属することを強要した(p160)

・本能寺の変が起きていなければ、明智勢は山陽道を西へ進み、6月10日には備中方面に到着していた、秀吉が中国大返しに成功したのは、同じルートを信長が逆に行軍する予定だったため、畿内から備中高松城までの、武器・兵糧・草履などが事前に用意されていた(p205)

・明智光秀が指揮した全合戦の戦績は、15勝2敗4分け、である(p207)

2020年1月11日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2019年12月21日
読了日 : 2020年1月11日
本棚登録日 : 2019年12月8日

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