「古書の慟哭が聞こえる」
古書鑑定家のハンナ・ヒースは国連の依頼により、中世のスペインで作られたユダヤ教の希少本サラエボ・ハガターの調査修復に当ることになる。古書に残された微かな痕跡をたよりに、ここに明かされるその奇跡の来歴とは…。
みごとな小説世界です。ハンナとハガターの出会いからその修復調査の経過が彼女自身の出自や高名な外科医である母との確執を絡めながら書かれていきます。彼女の調査によって見つけられた、蝶の羽、見事な細工の銀の留め金、ワインの染み、海の塩に白い毛と、それらの痕跡一つ一つに畳まれた物語が順を追うごとに100年、200年と遡って挿み込まれ語られてゆきます。
それらは本来ならば、ハンナはもちろん今を生きる人間には決して知り得ない物語です。その見事なまでの想像力で明らかになったのは、遥か昔から連綿と続いてきたユダヤ教徒の迫害と受難の歴史でした。ハンナが雲を掴む思いで求めている物語を、読者はまさに今目の前で繰り広げられるドラマとして知ることができるわけで、これはもはや神の観点といえるでしょう。
ですが同時にこうして形にして見せられたことによって、人は歴史というものの真実を知ることができないのだと逆に思い知ることにもなるのです。
一冊の書物でありながら、奇跡としか言いようの無い物語を秘めて今に伝えられたサラエボ・ハガターが、いつの間にかもの言えぬ一個の人格に思えていました。キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教が混沌として同居するヨーロッパを舞台に、彼、あるいは彼女は、自分を巡って繰り広げられた無数の物語をきっと語りたかったに違いありません。この世に存在してから今日まで生きながらえてきた、その語るべき物語を決して語ることができない。本書に貫かれているのは、そんな古書の慟哭なのです。
- 感想投稿日 : 2012年6月21日
- 読了日 : 2012年6月20日
- 本棚登録日 : 2012年6月21日
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