蚊がいる (ダ・ヴィンチブックス)

著者 :
  • KADOKAWA/メディアファクトリー (2013年9月13日発売)
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感想 : 139

「歌人のセンサーが反応する瞬間(とき)」

整った美しい世界がある一方で、自分の力ではどうにもならずただもがくしかないいくつもの現実がある。例えば夜中に耳元でその羽音を響かせる蚊―インパクトのあるタイトルに象徴される歌人・穂村弘さんがその悩ましい現実を綴る。

 「にょっ記」を手にして以来、そのゆるさに一目惚れして読み続けている穂村さんだが、本書においても「蚊がいる」ってタイトルのネーミングにまずはやられた。装丁もいいです。ソレっぽくて。「蚊がいる」「かゆいところがわからない」「マナー考」「納豆とブラジャー」の4章からなる短文集で、痛々しいまでの内向的な自意識をお馴染みのユルさに包んで、めがねの奥から目の前の事象をじっとみつめる穂村さんはここにも健在だ。

 穂村節とも言える文体で語られる、普通の人はそんなこと思ってもみないだろうなということや「そうくるか?!」という物事の解釈に読む度に度肝を抜かれるのだが、ときおり展開されるその哲学的な世界観に共感の目眩を覚えることもしばしば。

 例えば「運命と体」という文章の中で、目の前にいる人と電車や飛行機で別れたとき、今の今まで手で触れられるところにいた人が、電車の発車とともに自分から次第に離れていったり、何時間後かには機上の人となって空の彼方に消えていくことがとても不思議なことに思えるというのだ。

 穂村さんは、そこに一つの身体には一つの運命があるのであって頭ではわかっていてもそれが自分の中では腑に落ちないのだという。地図上を動く光の点を見るように、自分と縁のあった人、自分が知っている全ての人の運命を「散らばった光の点としてばらばらと動く様が見てみたい」というのだ。

 この感覚ってなんかわかるんだよね。世界は全ての人に共通で一つのように思えるけれど、実はそれはものすごい錯覚であって、この世に30億人の人間がいるとしたら、今この瞬間には各人の知覚している30億通りの世界が存在するってことなんだと思う。

 行ったことも無い場所の会った事も無い人に対してはなんとなくそれはわかるけど、家族や恋人、友人など明らかにその時間の、もっといえば運命の何分の一かを共有しているはずの人にも「この人には自分とは全く違う、この人だけが見ている世界が存在する」って認識はしずらいと思う。

 そういうことに想いを馳せる穂村さんだから「別の顔」という文章の中では、電車の中でカップルの男性が先に電車を降りて別れた後の女性の様子をじっと窺っていて、彼女の表情がカップルの片割れから個人に戻っていくのを見つめたりしている。穂村さんはその「移り変わりが劇的なものに思える」というのだ。

 この章では一人の人間は数え切れないほどの別の顔を持っているということが語られている。しかし電車を降りた男性には決して見ることができない彼女の表情の移り変わりを見たとき、そこにも穂村さんは運命を共有していたカップルが物理的に離れた瞬間に浮かびあがった現実、「一つの身体に一つの運命」ということを視覚的に感じたのではないだろうか。

 歌ってきっとそういうことを感じた瞬間に出来るのではないかなあ。残念ながらここで歌が出来たとは穂村さんは書いていないけど。ピピッと。歌人のセンサーが反応する音を聞いた気がする。 

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: エッセイ
感想投稿日 : 2015年1月18日
読了日 : 2015年1月18日
本棚登録日 : 2015年1月18日

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