記号論への招待 (岩波新書 黄版 258)

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  • 岩波書店 (1984年3月21日発売)
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池上嘉彦
1934年京都生まれ。東京大学文学部人文科学研究科(英語英文学専攻)修了。フルブライト留学生として、イエール大学で言語学博士号取得。フンボルト財団研究員としてハンブルク大学、Longman Research Scholarとしてロンドン大学で研究。現在、昭和女子大学大学院文学研究科教授、東京大学名誉教授。ミュンヘン、インディアナ、ロンドン、チュービンゲンの各大学、北京日本学研究センターなどで教授経験。Longman英英辞典、英和辞典の編集に校閲者として参与。著書に『意味論』『「する」と「なる」の言語学』(大修館書店)、『記号論への招待』(岩波書店)など。


しかし、いずれにせよ、一つの言語を習得して身につけるということは、その言語圏の文化の価値体系を身につけ、何をどのように捉えるかに関して一つの枠組みを与えられるということである。(その意味で、一つの言語を習得するということは一つの「イデオロギー」を身につけることなのである。)そこで身につけられる価値体系やものの捉え方の枠組みは、決してそこから抜け出せないといった性格のものではない。しかし、われわれがとりわけ日常的なレベルでそれらを「自然」なものとして受け入れている限りにおいて、自らの身につけている言語によって、ある一つの方向づけをされているのではないか。しかも、われわれ自身はそれに必ずしも気づいていないのではないか。もしそうだとすると、この点における言語の働きは、人間という存在にとって「無意識」の働きにもある程度類比できるのではないか。いや、むしろ、「無意識」の方がいろいろな意味でその働きを言語に負っているのではないか。こういった反省にまで進んでいくことになるのである。

「中世の西欧を含め、過去の多くの文明においては、音楽は神の啓示の ことば として崇められた。」(オーラヴ「音楽の記号論へ向けて」一九八一)

「建築は何らかの意味の生産に関わる働きを持っていることから、言語のようなものとして捉えられ、 建築言語 の概念が用いられる。ここでは、多様な記号現象を生み出す建築を、記号体系として把握し、それを 建築言語 と呼ぶ。」(門内輝行「建築における表現行為」一九八二)

読み取られる意味は、別に未来に関係することに限られない。一人の女性の着ている明るい色のドレスに、その女性のはなやいだ気持を読みとったりするのもそうであるし、脱ぎすてられた一足の履物からも、起こったことについていろいろと思いをめぐらすことができる。もちろん、鳥のさえずりに昨晩の自分の成功に対する讃歌を聞きとることもできようし、また捨てられた一枚の下駄に自らの将来を読みとることも可能である。このような場合にはすべて、当事者である人間の判断に基づいて、何かが何かを意味するということ――つまり、「記号現象」――が生じているわけである。

 「迷信」と呼ばれるものも、すぐ分かる通り、ことわざと似た「コード」的な性格を持っている。「四つ葉のクローバーを見つけると幸福になる」とか、「ごはんを食べてすぐ寝ころがると牛になる」、「三人並んで写真を撮ると真ん中の人が死ぬ」などといったたぐいのものである。

 「桃色」は、本来は桃の花のような色合いを「表示義」とした語であるが、そのような色合いを踏まえて性的な連想が「共示義」として生じ、その意味での使用が多くなったために「表示義」で用いても「共示義」の連想が伴うという状況になっている。本来の「表示義」の地位が「共示義」によって脅かされているわけである。外来語の「ピンク」も同じような経過をたどっている。

写真や絵画の場合は、言語に見られたような「線条性」ということは妥当しなくなり、テクストとしての写真なり絵画が全体として一挙に提示されるという形をとる。しかし、実際には、見る人間の視線は写真なり絵画のいくつかの部分をつぎつぎに走査していくわけであり、その際も、例えば人間と木が写っている場合はまず人間の方に視線が向けられるとか、いろいろな色合いがある場合は例えば赤がまず注視されやすいとか、ある程度の傾向があることも知られている。しかし、写真や絵画の場合は、こういった部分の走査のあとで必ず(物理的に可能な大きさである限り)全体として見てみるということが欠かされることはないであろう。このように全体として提示するという写真や絵画に見られる性質は「現示性」と呼ばれ、言語に見られるような「線条性」と対比されることがある。

例えば〈黒猫〉に対して迷信的な畏敬の念が抱かれる文化圏があれば、そこでは〈黒猫〉にだけ適用されるようなことばが多くあっても不思議ではない。  しかし、これはあくまで特別な価値づけによって支えられて初めて成り立つことである。例えば〈黒猫〉ばかりでなく、〈白猫〉、〈虎猫〉、〈三毛猫〉等々について、同じ仕草がすべてそれぞれ別のことばで表わされるなどということは、普通の状況では人間の言語がとりそうもないコード化の方向である。

 「機能」を記号内容と見なすということによって、多くの文化的対象を「記号」として扱うことが可能になる。例えば「建築」が記号論の対象として取りあげられる時は、多くはそのような視点からである。「柱」は屋根や上の床を支えるという「機能」を記号内容とする記号であり、「ドア」は異なる建築内空間(部屋)どうし、または建築内空間と外空間の間の通行を許すという「機能」を記号内容として持つ記号である。まったく異質な文化圏の建築物に接すれば、われわれはそのような建築を構成する対象の「意味」を改めて認識させられる機会を持つであろう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2024年1月31日
読了日 : 2024年1月28日
本棚登録日 : 2024年1月28日

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