「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義

著者 :
  • 彩図社 (2018年1月30日発売)
3.88
  • (8)
  • (11)
  • (4)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 125
感想 : 11
5

1263

「リベラル」という病 奇怪すぎる日本型反知性主義
by 岩田温
何故、私はそうした自称「リベラル」を批判するのか。それは、日本でリベラルを自称する人々の奇怪な主張が、自由の尊重や社会的弱者に対する配慮とは無関係でありながら、リベラルの条件のように語られているからである。我が国の「リベラル」という言葉には、極めて特殊な意味合いが込められている。私はこの日本における特殊な「リベラル」を批判しようというので

 全く現実を無視したような奇怪な言説を展開する人々がリベラルを自称することに強い憤りを感じているから、自称「リベラル」を批判するのだ。  日本でリベラルを自称する人たちには、顕著な特徴がある。それは、現実をみつめようとせず、愚かな観念論に固執することだ。極めて反知性主義的な態度だといって

リベラル」は大袈裟な表現で国民を脅す。例えば、集団的自衛権の行使が可能になれば、「徴兵制がやってくる」「戦争がはじまる」という馬鹿馬鹿しい批判があった。だが、現実に集団的自衛権の行使が容認されたが、日本は戦争もしていないし、徴兵制も導入されていない。事実が大切だ。彼らの主張は極端で非現実的な主張であったのである。だが、彼らは自分たちの妄想じみた非難が的外れであったことを反省することは

共産主義が一億人もの人々を殺戮してきたことも決して忘れてはならないだろう。  日本ナチス党などという政党が存在すれば、多くの国民は驚くだろうが、日本では、未だに共産主義社会の実現を夢想する日本共産党が存在し続けて

だが、「リベラル」を自称する人々は共産党に対して極めて友好的で

私自身はテレビを見ると知性が腐食していくと考えているので、ほとんど見ないようにしているのだが、今回、この文章を書くに際して、友人に提供してもらった過去のテレビ番組をじっくりと眺め、驚愕した。こうした番組を客観的で中立的な番組だと思い込んでいては、多くの人は「リベラル」にならざるを得ないだろ

逆に、国家を守る自衛隊の存在が否定されてしまうようなおかしな憲法だからこそ、憲法を改正する必要があると考えている。多くの改憲派も同様に考えているだろ

図書館に籠もり、池上彰氏の膨大な著作群に目を通して、私が思い返したのは、この「鵺」の物語だった。  池上氏の著作の特徴は、一見すると際立った主張が存在せず、全く中立的な立場のような姿勢に終始している点にある。従って、本人の主張がどこにあるのかが判然としない。まるで鵺のように得体が知れないという思いを抱かせるの

熟読すると見えてくる

ところで、池上氏の本を読んでいて気にかかったのが、池上氏がインターネットのユーザーに対してかなり批判的な点で

嘘はつかずに「事実の選択」によって、国民を左に誘導する。それが池上氏の真実に他ならないだろう。奇怪な鵺のような言説は、あくまで中立的であるかのように装うための仮の姿であり、その本性は、視聴者を知らず知らずのうちに左へと牽引するガイド。それが池上彰氏の正体

共産主義思想は、全世界で一億人近くの人々を殺戮した。理想や理念が人を殺すという現実を直視すべきだろ

多くの人々がイデオロギーの犠牲となった。ナショナリズムにせよ、ナチズムにせよ、共産主義にせよ、政治的なイデオロギーは、正義の名の下に人を殺戮する。他者の存在そのものを絶対的な悪と断罪する。我々はイデオロギーから逃れることはできないであろうし、理念を捨て去るべきでもない。だが、それはつねに狂気や凶器となりうるという自覚が伴わなければならないだろ

もちろん、政党の政治理念や個性は複雑で幅が広いものであり、例えば、自民党でも様々な見解をもった政治家が存在し、それが自民党の懐の深さとなって

だが、左翼・護憲派の排除が持ち出されると、それまで小池氏を持ち上げていたマスメディアは、掌を返したように小池批判を展開した。理由は単純だ。マスメディアは改憲勢力を蛇蝎の如く嫌う「リベラル」「ガラパゴス左翼」の牙城だからである。彼らはリベラルを自称するが、リベラリズムとはほとんど無関係だ。彼らの主張は憲法九条が日本の平和を維持してきたという、日本でしか通用しない「信仰」を中核とし、本来のリベラリズムとは異なる特殊日本的な〝退化〟をたどった「ガラパゴス左翼」なので

保守主義とは、一切の改革を排除するような 固陋 な思想ではない。むしろ、改革を歓迎する思想なのだ。だが、改革の進め方は漸進的でなくてはならないと考える思想なのである。何故か。それは人間の理性とは極めて貧弱なものであり、現実は我々の思弁を必ず越えるものであるからだ。従って、全く根本から国家の制度を設計してみようと試みたり、眼前に存在する制度を根底から覆すような革命的な改革には猛烈に反対

我が国では、「憲法九条を守っていれば平和が維持できる」「集団的自衛権の行使容認で徴兵制がやってくる」といった、非現実主義的な「平和主義」を信奉する人々を「リベラル」と呼ぶことが多い。この人々の存在がリベラルだと思われているところに我が国の悲劇があるといっても過言ではない。  実際に、こういう人々の主張は本来、保守の思想に基づいたものでもリベラルの思想に端を発するものでもない。端的にいえば、彼らは保守でもリベラルでもなく愚かなだけである。自国が攻め込まねば他国は攻め込んでこないなどという主張には、何の論理性もない。集団的自衛権を限定的に容認すれば、徴兵制が敷かれるという主張も、あまりに極端

人類の社会は資本主義では終わらず、「共産主義」が到来するというのが、彼らの基本的な世界観なのだ。自由・民主主義社会から共産主義社会への移行を夢見る人々、それが共産党の面々なのだ。この事実を忘れてはなら

一つの理論を狂信する余り、歴史の名の下に数多の人々を殺戮し、あらゆる犯罪を行うこと自体が正義だと居直る。それが共産主義者の正体に他ならない。彼らは純粋であり、正義を追求しようとしているのだろう。だが、彼らが現実世界で行っているのは、殺戮であり、詐欺であり、背信なので

日本の「リベラル」を自称する知識人たちは、共産党に対して極めて融和的な姿勢を示しているが、このこと自体が異常な行為で

その場合、果たして、人間の能力があたかも平等であるかのように、すべての人々に経済的な自由のみを与えたら、どのような結果になるのだろうか。弱肉強食という状況が生まれ、富める者が益々富み、貧しき者が益々貧しくなる状態が永続することになるだろ

何故、右の全体主義、ナチズムを許さないという「リベラル」が左の全体主義である共産主義を奉ずる人々に対して寛容でありうるのだろう

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年7月21日
読了日 : 2022年7月12日
本棚登録日 : 2022年7月12日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする