社会 (思考のフロンティア)

著者 :
  • 岩波書店 (2006年10月26日発売)
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本書は、私たちがよく知っている価値中立的な「社会 society」とは異なる、理念を伴った「社会的なもの the social」の概念がどのような意味を担ってきたか、そしてそれがどのように忘却されてきたかの系譜を掘り起こし、批判的検討を加えた上で現代に再生させることを目的とした著作となっています。

まず、第Ⅰ部では、「社会的なもの」が忘却されてきた系譜が掘り起こされ、それを実現するための「社会民主主義」の在り方はどのようなものであるべきかが問い直されていきます。
特に後者の論点に関しては、20c初頭のドイツで活動していたV・ベンヤミンとR・ルクセンブルクが参照され、詳細に論じられます。著者は最終的に、議会制を基軸としつつ議会外の大衆運動にも開かれた「議会制を超える議会制」の構想が、「社会的なもの」を実現するための手段として適当であると結論付けています。

続いて第Ⅱ部では、J-J・ルソーを紐解くことで「社会的なもの」の起源が手繰り寄せられ、18世紀の英・仏・独の文献を詳細に検討することで、それに続く「社会科学social science」の系譜が明らかにされていきます。
第1章のルソー読解において、まず著者は『人間不平等起源論』の「civilな社会」と『社会契約論』の「socialな社会」の差異を詳細に検討していきます。続いて、自然状態での不平等を社会契約によって平等化するルソーの狙いを明らかにし、彼にとっての自由(=比較の排除)との関連を示唆することで、その危険性と限界を指摘していきます。そして最後に、自由と平等のために「同一性」を要求するルソーに対峙する形で、「差異」を承認する「社会的なもの」の再生を模索しなければならないとして本章を締めくくっています。


以上のような内容の本書ですが、分析が緻密かつ論理的であり、その描き方に躍動感があるため、ある種の高揚感をもって読み進められます。また、その分析に用いられる諸々の理論は、諸々の事象を捉える手法として援用可能であり、大変参考になりました。

例えば、第Ⅰ部では、現代において「社会的なもの」が忘却されてきた背景を、著者はフロイトの精神分析とルーマンのシステム論を用いて説明します。
フロイトによれば、「忘却」とは「否定そのものの否定」によって生じるものとされ、これが本書では、「社会的なもの」の政治的な忘却が社会主義を否定しなければならない現実から逃避する社会主義者たち自身によって生み出されたものであるといった説明に用いられます。
一方、社会学者は価値中立的な「二次元の観察」を行うことで、貧窮民を観察し「社会的なもの」の必要性を説くような「一次元の観察」を必然的に「不可視化=忘却」してしまうといったルーマンの分析が、ここでは社会学による「社会的なもの」の忘却の文脈で援用されています。

個人的には、著者の主張そのものに賛同するというよりは、このような分析手法の多様性に関心を持って読み進めました。実際、ベンヤミンやルーマンに関心を持つことができたのは本書がきっかけです。とにかく熱意を持って書かれた著作ですので、読んだ後必ず何か得られるものがあるように思います。おすすめです。

「目まいのしそうな他人の近さから抜け出て、自分とは異なる生を肯定し、同時に他人と同じではない、いや同じになれない自分を肯定すること。それを不可能にするような同情を打ち殺さない限り、社会的なものは自己と他者の双方に対して、死を要求し続けることになるのである。(p136)」

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 政治理論・思想・社会学
感想投稿日 : 2012年8月11日
読了日 : 2012年8月11日
本棚登録日 : 2012年8月11日

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