歴史を哲学する (双書 哲学塾)

著者 :
  • 岩波書店 (2007年9月5日発売)
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以下引用

「史」とは祝祷のための器を「神に捧げて奉る形式の祭儀で、史祭をいう」とあり、さらに「史がのち史官、記録を司るものの意となるのは、もと史祭における祝詞などを保存し、その先例旧行によって伝統を保持し、記録するというその職掌を通じて、のちには文書・記録そのものを保管するものとなったのであろう」(字源による)

中国最初の体系的歴史書である「史記」を書いた司馬遷が、そのような「史官」、つまり記録係の役職にあった

歴史的出来事は、歴史記述に先行します。ある出来事が生起したからこそ、われわれはそれを後から記述することができるわけです

歴史記述は目の前で起こっている知覚可能な出来事をリアルタイムで「記述」したり、「描写」したりすることとは、その性格を根本的に異なる

歴史記述は、証拠や証言をもとにして歴史的出来事を、「復元」する作業にほかなりません

歴史的出来事の存在は、歴史記述を離れては確認することができません

歴史的出来事の存在論的先行性を端的に示しているのは、過去に起こった事柄の「痕跡」にほかなりません。具体的には、遺跡、遺物、文書、証言など歴史学で「史料」と呼ばれているのがそれに当たります。もちろん、これらの史料は過去の出来事の「痕跡」であって、歴史の出来事そのものではありません。

歴史解釈とは、われわれが直面している現実的諸困難に対する応答である。

歴史は如何なる意味をも持たないとはいえ、われわれは歴史に意味を与えることができる

歴史の意味もわれわれに委ねられている

歴史的対象は、それらが想起される限りにおいてのみ、真の存在を示すのである

文化の世界をもつために、我々はたえず歴史的想起によってこれを征服しなおさねばならない。しかし想起はただ再生の行為だけを意味するのではない。それは新しい知的総合ー構成的行為ーである

根深い誤解がある。それは。想起を過去に起こった出来事の再現や、模写と考える誤解です

昨日デパートで彼と会った、という想起命題の意味の中に昨日という日やデパートや彼の過去が実在しているのである。誤解を招く恐れがたっぷりあるが、過去とは言語的に制作されたものである

記憶は収蔵庫であり、想起はそこからの蔵出し

歴史家が歴史記述に用いる多様な資料、すなわち文書、発掘品、建造物、記念碑、絵画、伝承といったものはすべて、「外部化された記憶」とみなすことができる。むろん、外部化された記憶は、そのままでは「歴史的事実」とはなりえません。それは想起される必要があります。歴史的過去において、体験的過去の「想起」に相当する営みが「物語り行為」にほかなりません。つまり、記憶の収蔵庫に収められた史料は、物語り行為によって想起され、「歴史的事実」とすて現実化されるのです。比喩的に言えば、外部化された歴史はポテンシャルエネルギーであり、「物語り行為」はそれを運動エネルギーに変換する装置

過去の実在は、歴史的過去を体験的過去に結び合わせ、それを知覚的現在に時間的に接続する「物語り」のネットワークの中でのみ試行的に構成される

ベンヤミン/有名な人々の記憶よりも、無名の人々の記憶に敬意をはらうほうが難しい。歴史の構築は無名の人々の記憶に捧げられる

歴史は言うまでもなく過去の出来事を叙述するものです。しかし過去の出来事を精密に描き出そうとするなら、それは骨董品をめでる愛好家と同じ。歴史家が、記憶に値する出来事を選択するとき、そこには過去への眼差しとともに、未来への期待の地平が潜在的にではあれ働いています。

ありうるべきミライノ生活形式を構想する力こそは、歴史的記憶のもっている潜在力とでもいうべき

歴史的身体

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感想投稿日 : 2016年11月23日
本棚登録日 : 2016年11月23日

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