- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000222129
作品紹介・あらすじ
数々のヒットを飛ばした大正・昭和期の大メロディメーカー、中山晋平(一八八七‐一九五二)。「ゴンドラの唄」「シャボン玉」「証城寺の狸噺子」「あの町この町」「東京行進曲」「東京音頭」「船頭小唄」…。これらがすべて彼の曲だと聞けば、その幅広い才能に、改めて驚いてしまう。しかしその大作曲家も、かつては進路に煩悶する文学青年だった。では、彼はいつ、いかなるきっかけで、音楽の道を志したのか。晋平と同じ信州生まれの著者が、可能な限りの資料を博捜し、その等身大の姿に迫った。
感想・レビュー・書評
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童謡、流行歌の黎明の作曲家なんだなあ。
最後に紹介されているジャズピアニスト山下洋輔の言葉が興味深い。映画「ララ、歌は流れる -中山晋平物語」中のコメント。
山下はジャズの演奏に昔からなじんでいた者を取り入れたいと考え、メロディーを探していたところ「兎のダンス」と「砂山」が浮かんで取り入れたところ実にいい。「とにかくいい。自分に合うんです」といい、「あの町この街」「アメフリ」「シャボン玉」など、やりたい曲は全部晋平の曲だという。そこには「もろ日本音階だけの音楽」より別の何かが含まれているといった意味のことを述べている。そして「中山晋平の曲はそれを素材にするといくらでも自分を託していける大きな存在なんです。・・中山晋平さんというのはいくら掘り起こしても尽きない何かが埋め込まれているような気がします」
「砂山」1976発売 山下洋輔 39分 「砂山」「あの町この町」「兎のダンス」の3曲 1979年9月1日には日比谷野外音楽堂でコンサートもしている(山下洋輔トリオ 山下洋輔p 坂田明as 小山彰太ds)
著者:和田登 信州大教育学部卒。小学校教諭の傍ら児童文学書を書き継ぐ。
2007年(平成19)4月7日~2009年(平成21)7月18日、「信濃毎日新聞」に連載された「唄の旅人 中山晋平「(全114回)を再構成し、加除・修正を加えたもの。
2010.2.17第一刷 岩波書店 図書館詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた」
「しょっ しょっ しょうじょうじ 証城寺の庭は つんつん月夜だ 皆んな出てこいこい来い」
「命ぉ~ち 短かぁ~し 恋せよ乙女」
全てが中山晋平の作曲による名曲である。
朗らかで明るいようでいて同時に哀愁を帯び、昭和を生きた日本人の一人残らずが口ずさみ胸に刻んだメロディーである。そうまで言っても言い過ぎではない。昭和の日本人ばかりじゃない、本書が一昨日週刊ブックレビューで紹介されたとき、三人の書評ゲストのうち二人は、芥川賞作家の楊逸と東大教授のロバート・キャンベルという中国人と米国人であったが、二人とも作曲者が誰であるかは知らないものの、「しゃぼん玉とんだぁ」などのメロディーはかねてから知っていて、キャンベル氏に至っては「証城寺」の英語翻訳版のレコードを幼いころ聞いたという。
中山晋平について、どの程度知っているかを三つの段階に分類してみる。
作曲家としての彼のことについては全く知識がない。だが知らぬうちに彼の名曲の数々を記憶し口ずさむことができている。これを第一段階とするならば、この一冊を読むまで私もこの段階であったし、日本語以外を母国語とする在日文化人もこの段階であった。我々のほとんどはこの段階だと断定してよいと思う。
次に、彼が大正昭和を代表する大ヒットメーカーであることを正しく知っているのが、第二段階とする。限られた専門家や愛好家のみがこの段階である。
今日本に居住する日本語を解する人類の総個体数から、第一、第二段階に属する個体数を引き算すると、答えは「1人」である。極端な表現だが、著者が発掘してただ一人突き止めた事実は、本書が世に出るまで誰にも知られず埋もれていた。こういうのが、根気よく取材され丁寧に書かれたノンフィクションの醍醐味である。
著者が初めて突き止めた、第三段階というべき中山晋平の真実はコウです。とは当然のことながらここでは書きません。これから読む人へのイントロダクションとして、最低限の二つのエピソードだけを紹介するに留めておきます。
若き中山晋平は、音楽の道を志し信州から上京した。自伝にも明記され専門家も信じていたこの辺りの事情は全て「嘘」だった。
その頃の中山は音楽ではなく文学で身を立てることを夢見る文学少年であった。それは著者の単なる推測ではなく、確たる証拠が現存した。
田山花袋の名作『布団』のヒロインとしてあまりにも有名な岡田美知子との文通の記録がその証拠であった。中山も岡田も偽名や筆名しか名乗らず、書き手の正体は不明のまま埋もれていた書簡を、著者が見出したところから、この知られざる中山晋平の素顔の物語は始まる。
知識のないWeb世代の若者は、「田山花袋」、「布団」で検索しウィキペディアなどで読んでみることだ。そうすれば、独特な私小説という手法を主流とする日本近代文学が、田山花袋の『布団』から始まったこと、助平爺たる花袋が、美貌の弟子岡田美知子の愛用した布団に頭を突っ込んで残り香りを嗅いだ、自分の変態行為の告白から、日本の近代文学というのは始まったことを知ることができる。
それを踏まえると、岡田と晋平の文通を証する書簡が、世紀の発見といいたくなるぐらいのものであることが理解でき、知的興奮で震えることであろう。
もうひとつだけ。一番最後のエピソードを。
これも、知識の無い者は「黒沢明」「生きる」「ゴンドラの唄」をあらかじめググッておく必要がある。
昭和27年12月2日。ある恩人の記念碑の除幕式に出席した帰り、晋平は恵比寿の映画館で黒沢明の『生きる』を観た。著者はそれを突き止め、事実だけを淡々と記す。
『生きる』のラストシーンは、世界のクロサワ映画を代表する名シーンである。
自らが癌で余命いくばくもないことを知り、人生がしみじみ虚しく感じられてならない公務員を稀代の名優志村喬が演じる。
夜の公園でひとりブランコに乗る志村。
志村がぼそりと口ずさむ。
「イノーチ ミィジィカーシー 恋せよ乙女」
晋平は、自らの作品を恵比寿の小さな映画館の客席で聞いた。40年前に駆け出しの頃作った自作が、こうして口ずさまれている。志村の顔が異様なアップになる歴史的名作の名演を眺めながら、晋平の思いはいったい如何なるものであったのだろうか。それは読者が自らの知性を総動員して思いめぐらすしかない。
著者は、その日、晋平が『生きる』を観た事実を淡々と伝えるだけである。
そして翌12月3日。晋平は病に倒れ、27日後に息を引き取る。これも淡々と事実のみが記されている。
この事実を前にして、震えを覚えないものは自らの不明を恥ずべきである。 -
2010.03.14 朝日新聞で紹介されました。