グノ-シス「妬み」の政治学

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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000226196

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  • 「妬み」というキーワードでグノーシス主義を論じる意欲的な一冊。主に西方グノーシス主義(東方のマニ教ではなく、シリア・エジプト型)に重点を置きながら、その創造神話を個人の深層心理の物語として読み替える。この方法論としてタイセンの「歴史的宗教心理学」を採用している。それは「人間が自分の宗教的体験と行動に結びつける主観的な意味の内容と成立のプロセスとを解明する」(p.42)ものであり、それにより聖典に記された体験と行動を理解しようとする。こうして、現代の科学的な目から見れば荒唐無稽に思われてしまうその創造神話を、なるべく我々に理解可能なものとして引き受けようとする。

    妬みという感情はグノーシス主義のみならず、ユダヤ教やキリスト教の神話の中でも大きな役割を果たしている。例えば『出エジプト記』にはイスラエルに自らを崇拝するように命じ、他の神々を崇拝することを嫉妬する神の姿が記されている。また失楽園の物語にも嫉妬のモチーフが見られる(p.117-119)。グノーシス主義の神話はそうしたユダヤ・キリスト教の流れも受けているため、こうしたモチーフが入っている。だがそれにもまして、グノーシス主義では妬みが中核をなしている。例えば地上の創造神たるヤルダバオートは光の世界の精神を吹きこまれた人間に嫉妬し、その光の力を分散させようとする(p.34-36)。だからグノーシス主義者たちの自己理解では、自分たちは「世から妬まれている者たち」(p.122-127)であり、人間の由来に妬みは深く関わる。

    創造神話において妬みに生来深く関わる人間という像を、妬みは人間心理に深く根ざすものだと捉え直す。それがグノーシス主義で特に有効なのは、グノーシス主義の言う最高神、至高神が人間そのものだからだ(p.147)。(西方)グノーシス主義では至高神は人間であり、人間を超越したものは存在しない。これは旧約聖書を受け継ぐ一神教の伝統に対するラディカルな離反である。

    「グノーシス主義にとっては、人間を超える超越はまったく不在なのである。[...]確かに、地上の現実の人間は造物神が部下たちとともに創造したアダムに始まる。しかし、そのアダムを創造するに際して、彼らがモデルとしたのは至高神が自ら啓示した「外見」なのである。したがって、至高神は原型アダム自身の原型、いわば「原型の原型」に相当するわけである。人間は被造物、神は創造主としてその人間を無限に超越するーーこれが旧約聖書以来の一神教的創造信仰の根本である。グノーシス主義は絶対的な人間至上主義なのであり、伝統的な創造信仰に対する根源的な拒絶なのである。複雑怪奇なグノーシス神話を読解するためには、この点にくれぐれも注意が必要である。」(p.151f)

    グノーシス主義の神話はしたがって、妬みを根本的にはらんだ人間存在を示している。それと同時に、肉体の死による現世界からの解放は、妬みからの解放を意味することになる。すなわち、光の世界へと回帰するこの神話はそれ自体、妬みからの解放の道筋を示す。神話の世界記述と個人の深層心理がパラレルであると読むなら、神話は個人の深層心理における妬みからの解放の方向を示す。「グノーシス主義者にとっては、それぞれの教派の救済神話を読む行為そのものが、妬みを自己の内面において統合的に克服するための最も具体的で重要な処方箋であったに違いない」(p.159)のであって、つまりグノーシス主義の神話は行為遂行的言説ということになる。

    一方、東方グノーシス主義のマニ教はゾロアスター教の影響下にあり、最初から二元論を取っている。そのため、妬みは生まれるものではなく最初から存在するものであり、神話において主要な構成要素にならない。妬みを軸にした深層心理的展開はマニ教では行われない(p.223f)。

    ところでこの本が分かりにくいところは、二種類の「妬み」を扱うことだろう。自分と何らかの共通点を持つ他人を比較し、他人のもつ優位性を自分が持っていないことへの焦燥感としての妬みは、本書ではプルタルコス型妬みと呼ばれている。それと区別して、フィロン型妬みというものが論じられている。著者は、バビロン捕囚を境としてユダヤ教が拝一神教(Henotheism)から唯一神教(Monotheism)に展開すると論じている(p.10f)。拝一神教における神は、他の宗教集団が崇拝する他の神を妬む。だが唯一神教ではもはやこのプルタルコス型妬みの意味で妬むところの「他の神」が存在しない。「もし他に神がいないのであれば、彼が妬むというのは一体誰だというのか」(『ヨハネのアポクリュフォン』§41)。それでも言われている妬みはフィロン型妬みである。これは自分の持っているものを他人に分与することに耐えられない思いのこと、つまり吝嗇、物惜しみ、ケチといった感情だ。唯一神教で神がもつ妬みとは、その神性を他に分与したくない思い、自らのみが神であるという思いである。

    フィロン型と言われるが実際にはプラトン型である。つまりユダヤとは別の、ギリシャに由来する概念だろうか。プラトンの創造神話である『ティマイオス』には神には妬みが無いため、その善なる存在を他者に分与してこの世界が創造されたという話がある。アリストテレスにも同様の議論がある。フィロンはこうしたギリシャの伝統における妬みの概念を引き継いでいる(p.23-27, 173-177)。グノーシス主義の神話においても、至高神は妬みが無いからこそ、存在を他に分与し自らを表すのだという論点が現れる(p.50-64)。

    だがフィロン型妬みは妬みなのだろうか?自分の日本語感覚ではこれは妬みとは言わず、吝嗇や物惜しみと言う。妬みには他者の視点がどうしても欠かせない。フィロン型妬みを疑いなく妬みとして、プルタルコス型妬みと並行して扱っていく姿勢にはどうも疑問を感じる。原語ではプルタルコス型もフィロン型も同じ単語で論じられているのだろうが、日本語の文章でこれらを等し並に妬みとして扱うことはできないのではないか。

    最後に「政治学」について言えば、人間が妬みを持つということが政治において中心的事柄である。というのも、分配的正義や匡正的正義を適えるために公平な分配を行うのが政治の一つの意義であるが、これは不平等な状況において人間がプルタルコス型妬みを持つからである。またフィロン型妬みゆえに、政治という独立した活動が必要とされるだろう。また、神が創造した世界をさらにより善いものへと導いていなかればならない、というキリスト教型の公共哲学は、フィロン型妬みなき神という観念に根ざしている(p.175f)。

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著者プロフィール

1945年生まれ。静岡県出身。東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻博士課程修了。1979年ミュンヘン大学にてDr. theol. 取得。東京女子大学助教授、東京大学教授を経て、現在東京大学名誉教授。2010-14年自由学園最高学部長。著書に『イエスという経験』(岩波書店、のち岩波現代文庫)、『グノーシスの神話』(岩波書店、のち講談社学術文庫)、『聖書の読み方』(岩波新書)など、訳書にハンス・ヨナス『グノーシスと古代末期の精神』(全2巻、ぷねうま舎)、エイレナイオス『異端反駁』(全5巻のうちⅠ、Ⅱ、Ⅴ巻、教文館)、『ナグ・ハマディ文書』(全4巻、共訳、岩波書店)などがある。

「2019年 『終末論の系譜』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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