水俣を伝えたジャーナリストたち

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000248846

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  • ジャーナリズムは組織ではなく個である。
    メディアは個人の集まり。
    公正中立とは何か。原田正純によれば、加害者側の方が圧倒的に強いから、被害者側のずっと立たなければ中立にはならない。
    上村家では、長女の智子を宝子と呼んだ。智子が胎内で水銀を吸い取ってくれたおかげで、母親の症状は軽く済んでいるし、その後に産まれた6人の妹弟たちは、病とともに生まれた姉に手がかかるからと、自分たちのことは自分たちでやるように育った。他人を思いやる心も6人の子どもたちは持っているからだ。
    1959年12月、チッソは水俣工場に排水浄化装置であるサイクレーターを設置、患者家庭互助会は、その月の30日にチッソとの間で見舞金契約を結ぶ。こうして原因や責任の所在も曖昧なまま、水俣病問題の収束がはかられた。ところがサイクレーターには、水銀を除去する機能はなかった。見舞金契約の調印時には、チッソが自らの実験により、工場排水を投与したネコが水俣病を投与発症したことを確認しながら公表せず、将来、工場排水が水俣病の原因とわかっても新たな補償の要求はしないという条項まで付けていた。そのネコの秘密実験はネコ400号実験と呼ばれている。研究班を率いていたのは、水俣病公式確認のきっかけとなる患者の発生を地元保健所に届け出たチッソ水俣工場付属病院の細川院長。細川院長は廃液実験の継続を主張したが、工場幹部に潰された。細川院長は実験結果を公表すべきだと訴えたが、チッソ水俣支社長はそのような研究報告は見たことも聞いたこともないと嘯く。
    水俣病の被害者は小さくなって暮らし、加害者が威張り腐って水俣を支配している。中に立った熊本県、上に立った国は何もしてこなかった。
    チッソに水俣病を作らせながら利潤を貪ってきた影の資本家たちは、日本興業銀行や生命保険会社、農林中央金庫などである。
    緒方正人は、熊本県議会公害対策特別委員会の一部の委員が、認定申請者の中には補償金目当てのニセ患者がたくさんいるなどと発言したことに抗議し、謝罪を求めた際の混乱で逮捕されるが、それが運動を続けていく腹を固めるきっかけになったという。緒方はしかし、1985年に申請を取り下げる。患者の間には認定と補償でよしとする空気があり、例えば補償のことでチッソの職員が訪ねてくると、患者の方がありがとうございましたと言わんばかりの対応をしてしまい、チッソの方も手慣れたもので、いえいえどういたしましてという。そんな保険金の支払いみたいになっている面もある。もう加害者と被害者が相対している姿ではない。当時の細川護煕知事に対して、あなたの認定行為そのものが私にとって何ら意味をなしませんと通告している。緒方は自分自身がチッソ内部の人間だったら工場排水を止めることができただろうかと考えてきたが、できたと言える根拠がどうしても見つからなかったと告白している。チッソが大きなシェアを持つ液晶画面を使ったテレビやパソコンなど、親の仇の工場が作ったものに囲まれ、自分もチッソ的な文明社会の中にどっぷりと浸ってしまっていることに気づいた。そこで私もまたチッソの一人であったと思い至ったのである。
    2009年には未認定患者救済のための特措法が成立するが、根本解決にはなっていない。特措法では、2012年7月末までの期限内に申請を受け付け、被害者と認められれば医療費、療養手当、一時金が支給されるが、認定申請や訴訟の取り下げが条件となる。また、チッソを患者に対する補償などを行う親会社と、営利事業を行う子会社に分社化し、補償が終われば親会社は消滅、つまり原因企業がなくなる道筋ができた。熊本県債の発行で行政がチッソの経営を支えるなど、被害者救済の前に加害者救済を先行させて来た水俣病補償の歴史が繰り返された。恐るべきことに、水俣病は被害の広がりの全体を一度も調べたことがない。
    原田は、有機水銀は人体にどのような影響をもたらすのか、水俣病とはどういう病気なのかについて、被害者の症状を基に構築されるべきなのに、水俣病の場合は始めに基準ありきから始まったので、問題が複雑化していると指摘。それは補償のための基準だからである。
    水俣病を取材、支援した人間の中には、取材するまで水俣病をほとんど知らなかった者も多い。村上雅通は水俣中心部で生まれ育ち、暮らしながらも、水俣病とは無縁の生活を送っていた。授業で取り上げられることもないし、家族や友人と話題にすることもなかった。同じ水俣市内でありながら、患者が多発していた漁業地区の茂道などは、市街地の住民にとっては一生に一度も行かない場所だった。

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著者プロフィール

1962年、岩手県生まれ。86年に上智大学文学部英文学科を卒業、共同通信社に入社。水戸、釧路、札幌編集部を経て、国際局海外部、編集局国際情報室で勤務。おもな取材テーマはアイヌ民族、死刑制度、帝銀事件、永山則夫事件、「慰安婦」、LGBTQ、水俣病など。90年代半ば以降は英文記事で発信してきた。94〜95年、米コロンビア大学ジャーナリズム・スクール研究員(モービル・フェロー)として、マイノリティ・グループの子どもの教育現場を取材した。著書に『水俣を伝えたジャーナリストたち』(岩波書店)がある。

「2023年 『もの言う技術者たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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