古代の都: なぜ都は動いたのか (シリーズ古代史をひらく)

制作 : 吉村 武彦  吉川 真司  川尻 秋生 
  • 岩波書店
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本棚登録 : 59
感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000284967

作品紹介・あらすじ

飛鳥の地に始まり,難波宮を経て,日本の「古都」として今も親しまれる平城京(奈良),そして平安京(京都)へ.古代国家の中心たる「都」は,推古朝から何度も所在場所を変えた.それはなぜだったのか.近年のめざましい発掘成果や,出土文字資料・文献史料を駆使し,都の実態や移り変わりを丁寧に追う.

感想・レビュー・書評

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  • この夏、旅行で関西に行って平城宮跡にも訪れたんですが、下調べをしている中で疑問に感じたのは、「なんで都って、飛鳥⇒奈良⇒京都と、北上していくの?」というコトでした。
    これを今年の大人の自由研究(笑 のテーマとして、本著を探して読んでみたんですが、話はそう単純なものではないようで…。

    最初思っていたのは、社長が変わるたんびに組織再編がされるのと同じようなモンかなぁ(笑)と。事実、古墳時代は天皇の代ごとに宮を移す「歴代遷宮」の現象がみられたとか。遥か昔に、天皇の権力を示すために遷都、的なコトも習ったような…。
    本著を読んでみると、そもそも「飛鳥⇒奈良⇒京都」という単純な話ではなく、難波宮とか近江宮とか、ちゃんと日本史覚えられてなかったな…と思いつつ、飛鳥や奈良に戻ったりもしており、一概に言える話ではないなと思いました。
    そんな中でも、個人的に感じたのは「東国」を重視する姿勢です。「征夷」が行われていたご時世で、琵琶湖へのアクセスが良い京都の長岡京/平安京というのは納得感があります。(地盤が弱い飛鳥の藤原京、大河がなく衛生上問題があった奈良の平城京、というのはありつつ…)
    ちなみに、684年に天武天皇が「都にふさわしい場所を調査する」と使者を派遣したのは、畿内と信濃!東国支配の要として副都を置く考えだったとか。

    本著、一般向けの本だと思うんですが、個人的には結構難しくて苦労しました。そもそも意味がわからない記述があり、「寺院に『500戸を施入し』ってどういう意味?」とか、「勅願寺」とか…(まぁ今はググればわかりますが)。

    巻末の座談会、学者さん達が楽しそうに議論している姿がなかなか印象的でした(軽いお仕事見学的な感覚も味わえて○)。同時に、まだ昔の都城研究でわかっていないコトも多いんだなと思いました。
    知らなかったコトが当たり前のように書かれていて、新鮮な感覚を味わえました。たまにはこういう本に手を伸ばしてみるのも良いですね。

  •  奈良と言えば平城京、京都に移って平安京と、「都」といえば何となく知っていると思っていたが実のところはそうでなかったことを、本書を読んで実感した。

     本書は、飛鳥時代の小墾田宮、難波宮、藤原京について、次いで奈良時代の平城京について、さらに長岡京・平安京について、それぞれの都宮がどのような構想・考え方の下に、どのような造営過程で、そして実際にでき上がった形がどのようなものであったかを、文献史学及び考古学の最新の知見に基づき解き明かすことを目指している。

     発掘調査による遺構や当該都宮が立地する地理的状況等を踏まえ、そこから当該都宮の設計構想を判断していくことになるから、合理的な推測か否かはともかく、結論が一義的に導かれる訳ではない。その辺り、収録の座談会記録を読むと、「違うと思う」など結構率直な物言いで意見を言っておられるが(それはそれで読者としては面白い)、そこに論点があるのかということが分かってありがたいし、その辺りを中心に各論考を改めて読むと、理解がより深まると思う。


     特に勉強になった点をいくつか。
    〇「北闕型」都城~北端に宮を置く都の形式
     ・難波長柄豊碕宮(孝徳天皇時代)は「北闕型」を指向したのかどうか?
    〇藤原京(持統天皇時代)は、その中央に藤原宮が位置することが特徴
     ・『周礼』の考え方を参照したのか
     ・中国南朝の建康城 or 新羅王京からの影響
    〇平城京(元明天皇時代)
     ・「条坊制」と呼ばれる方形地割による土地区画
     ・平城宮内の空間構成の特徴
       ①二つの中枢区画(「小中華」の「皇帝」たる天皇が君臨する空間と、「倭国」の「大王」たる天皇が伝統的権威によりながら支配する空間とが並立)
       ②東張り出し部の存在
     ・羅城門ー朱雀大路ー朱雀門ー大極殿という南北の中心軸
              ↓
         朱雀門ー西大門ー東大寺大仏殿
    〇恭仁京・紫香楽宮(聖武天皇時代)の意義
     ・東国重視、複都制?
    〇長岡京(桓武天皇時代)はわずか10年で放棄された
      ・怨霊畏怖説、自然災害説、地形的問題 等
    〇平安京 


     実際に平城宮跡など歩いてみて、在りし日の威容を想像してみたいなぁ。

  • 推古女帝期の小墾田宮、舒明天皇期の飛鳥岡本宮、皇極女帝飛鳥板蓋宮、天智天皇の飛鳥浄御原宮、
    持統女帝の藤原宮遷都、元明女帝期の平城京遷都、
    聖武天皇期の恭仁宮、難波宮、紫香楽宮、
    桓武天皇期の長岡宮、平安宮遷都。
    桓武天皇の平安宮遷都の理由が、今回ようやくすっきり納得できた。
    大変な人生を歩んだ桓武天皇が、以前より好きになったかも。
    天皇の系統、渡来人、北闕型の謎、中国北朝と南朝の影響の時代差。
    発掘と文献による研究で解明されたわけではないが、
    古代の都が遷都する意味には、地勢だけではなく、
    天皇と時の権力者の権威くらべが反映されている。
    都城と寺院の関係、五重塔といった高層建築物の意味も、
    興味深い。

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