岡義武著作集〈第2巻〉明治政治史 II

著者 :
制作 : 篠原 一  三谷 太一郎 
  • 岩波書店
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  • / ISBN・EAN: 9784000917520

感想・レビュー・書評

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  • メモ
    今作もマグダレナ湾事件など多くの新たな発見があった。
    膨大な資料の引用をはじめ、通史として極めて完成度が高い。

    P5
    国会に熱狂する国民

    P6
    超然主義、山県有朋の所信表明演説。
    主権線と利益線
    →国会初年度の予算案は31%が軍事費
    また我が国の利益線の焦点は朝鮮

    国会に先立つ1890年3月に山県有朋が著した「外交政略論」
    →西欧無事の日は即ち彼の各国の遠略を東洋に進むるの時
    →アフガニスタンにことが起こらなければ、必ずや「朝鮮海」に起るだろう
    →外交によって我が利益線を保護しようとする場合不可欠なものは、一つは兵備の充実であり、なお一つは教育により国民の愛国心を育てることである。
    →いまもし主権線を守るだけでなく利益線をも保全し、それにより国の独立を全うしようとするならば、「必ずや将来二十数年を期し寸を積み尺を重ね、以て成績を見るの地に達せさる可らず。而して此二十数年間は即ち吾人嘗胆坐薪の日なり」

    P10 大津事件
    国の独立が脅かされる緊張感が国中に張り詰めた。
    天皇が京都まで慰問、そして神戸で見送り。全国の神社仏閣でロシア皇太子平癒祈願。
    →大審院長児島惟謙による司法権の独立維持

    P25 日清戦争
    東学党の乱に対する朝鮮への出兵
    →当時の内閣、伊藤博文は基本的に外交は慎重。
    この件についても戦争する気はなく、外交により収める考え。
    →陸海軍の主戦派の意見を代表した川上参謀次長は閣議の場で「混成」1個旅団の派兵を提言し、承認。
    →この時、伊藤博文は1個旅団=2、3000人をイメージしていたが、実際には「混成」1個旅団は7、8000人の規模の派兵であり、戦争に導くものであった。
    →当時の外相陸奥宗光は、条約改正問題の行き詰まりもあり、この主戦派の主張に同調。

    P102 1989年5月27日の山縣有朋の書簡
    ヨーロッパ大国は清国内の至る所に利益線を張り、清国の地図は色分けされてしまうことは明らかであり、清国はユダヤ人種のごとく国滅びて人種残るに至ると断定せざる得ない。わが国もこの未来に備えて利益線を出来るだけ拡充する措置をとらねばならないこと無論である。けれども目下のわが国は財政整理、軍備拡張の時期なので、数年間は外国との戦争をひらくことを避けねばならない。それ故、わが国として清国との国交を親しくし、わが利益線の拡充する機会があれば常にそれを逸しないよう注意を怠ってはない。しかし、日清の交際が親密の適度を超え、ヨーロッパ列強に日清結んでヨーロッパにあたるのではないかとの疑惑を抱かせるごときことあれば、終に人種の争を生む。また、たとえわが国の財政、兵力上可能としても、清と提携して東洋の独立をはかろうとするごとき、最も拙策である。

    P175
    1908年、ローズヴェルトの指示により、米海軍の全艦隊はサンフランシスコに集結され、そこから世界周航の訓練に出された。
    →意図は、国民の海軍に対する関心を高め、持論である大海軍論を実現すること、及び海軍力を世界にとりわけ日本に誇示し、日米戦争を防ぐこと、であった。
    同時期に真珠湾に大規模な海軍基地を建設することが決定。
    背景に、カリフォルニア州を中心とした日本人移民の増加による、対日感情の悪化。

    →第一次西園寺内閣は、この意図を知りながら、米海軍に日本にも立ち寄るよう要請。
    →日本海軍とも交歓会を行い、日米双方の国民感情の融和を図った。

    P178
    一方で日本はロシアとの再戦を警戒。
    ロシアも、極東からバルカンに重心をずらすために日本との関係修復を企図。
    →日露は接近
    →1908年
    三国協商(英・仏・露)の各国と日本との協商完成。
    三国同盟(独・墺・ハンガリー)と対立軸へ。

    P191
    1908年
    米大統領はローズヴェルトからタフトへ。
    対日外交政策の転換。
    ローズヴェルトは移民問題を遺憾としながら、日本の利益は満州・朝鮮にあることを意識し、日米関係を荒立てることを控えようとした。
    →日本と戦争を開き、満州で戦うには、イギリスのような海軍とドイツのような陸軍が必要。

    同じ1908年
    第二次桂内閣の外相となった小村寿太郎は、新内閣の外交基本方針を起草し、閣議で承認された。
    その中で小村は、「日露戦争の結果、わが国はアジア大陸に領土をもつ「大陸国」となった。そして、大陸におけるわが「所領」に隣接することになったのは、清露の「二大国」である。この両大国の将来の運命は未だ明らかでないが、しかし「帝国百年の計」を定めるにあたっては将来帝国が「極めて有力なる両大国」に隣接することとなる場合もありうると考え、万一にも遺漏なきようにしなければならない。そこで、わが国としては「此両大国に対抗するべく我民族を東亜方面に集中し、其勢力を擁立、維持する」ことを「不動の方針」とすべきである。
    〜〜
    小村は以上のごとき意見を第二次桂内閣下において議会その他においても述べている。満韓移民集中論と世上で呼ばれた小村の右のごとき意見は、ローズヴェルト大統領の前述のごとき対日方針と微妙に照応するものであった。

    P196
    アメリカにおける日本移民排斥運動
    →日米紳士協定で抑制を図った。
    →しかし、日本人移民の中に「写真結婚」なるやり方が流行し、在米移民と日本国内のものが写真だけで結婚し、アメリカに移住するパターンが増加。
    これにより紳士協定締結後もアメリカへの移民は増え続け、アメリカの対日感情は悪化。

    P223
    この前後=1911辛亥革命〜1912年六国借款団〜1913年米大統領交代(タフト→ウィルソン) においてわが国の外交方針は複雑、微妙であった。すなわち、わが国はアメリカに対する関係においてはロシアに極めて接近し、これと提携、協力する態度をとりながらも、しかも他方ロシアの復讐戦争を依然ふかく警戒しつづけ、ロシアは仮想敵国の第一順位(←明治40年の「日本帝国の国防方針」に明記)に置かれていた。

    P241
    大正2年
    憲政擁護運動(閥族打破、憲政擁護)
    →各地で暴動。第三次桂内閣は53日で瓦解。
    →近衛文麿や戦後の自民党領袖大野伴睦らが政治の世界へ
    →この流れで、桂、西園寺は共に元老に退き、桂園時代は終焉。後継には薩摩出身で、海軍重鎮の山本権兵衛が就任。
    →薩摩出身内閣は明治29〜31の第二次松方正義内閣以来15年ぶり。

    P247
    マグダレナ湾事件
    いまの中国の行動に類する?
    →日本政府の命を受けた日本企業がメキシコ領カリフォルニアのマグダレナ湾に広大な土地を購入し、その土地はやがて海軍基地に使われると噂されて事件。
    →マグダレナ湾はパナマ運河完成の暁には、その水路を扼する極めて重要な地政的意味を持つ場所
    →それだけに米国内では日本の脅威論が高まり、排日運動は一層高揚。
    さらにこうした日本の挑戦的態度を屈辱とし、アメリカは1914年のパナマ運河開通に合わせ、海軍の主力を大西洋から太平洋に移し、日本を強く牽制。
    加えて、アラスカをアメリカ艦隊の給炭地としハワイの真珠湾軍港を拡充。

    P255
    吉野作造のコメント
    民衆が政治意識をもって群衆活動を行うのは、寡頭政治の不透明さを解消し、民衆政治を生むという点ではよい。
    しかし、1905年のポーツマス条約反対の日比谷事件などの騒擾とくらべ、今回(1914年のジーメンス事件等による反山本権兵衛内閣)の運動は、政府反対という理由だけで、煽動されて騒いでいるだけで、集まった人々は「脳中無一物である所の下級層の人」か「無責任の学生」である。
    そしてこれらの者は最も煽動に乗りやすぬ、従って、最も危険な分子である。

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