- Amazon.co.jp ・本 (302ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003900024
作品紹介・あらすじ
「本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的での権力行使だけである」。大衆の画一的な世論やエリートの専制によって個人が圧殺される事態を憂慮したJ・S・ミル(一八〇六―一八七三)は、自由に対する干渉を限界づける原理を提示した。自由について考える際の最重要文献の明快な翻訳。
感想・レビュー・書評
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大学の授業にて、offendとharmの違いを知ったことを思い出しました。
offend:相手の気分を害する
harm:相手を身体的に傷つける
harmは、いくら自由とはいえ許されない、とのことでした。同感です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ミルの自由論を読んだのは学生時代以来。現代語訳になったためか、歳をとったためか、それほど突っかかることなく読み終えた。
他者に危害を加えない限りは自由である、というミルの根本原則など現代にも通用する点は多い。やや個人の判断力に信頼を置きすぎな印象はあるが、全体として納得感のある内容だった。宗教との関わり方は歴史的な背景が分かれば違和感もない。自由に重きを置く考え方には大いに共感した。
この本のもうひとつよかった点はあとがき。ミルのベンサムとの距離感がわかる。さらに、安易に現代にも通用するととらえて満足してしまうことへの警鐘ととれる表現がある。読んでよかった。
ミルに限らずあらゆる主張には個々の歴史的な背景はあるわけであり、それに対しては敬意を表さねばならない。自分に都合のよい解釈をして満足する、他者に説明してしまうことには慎重であらねばならない。よい戒めとなった。 -
すべての人は他人の自由を侵害しない限り、望むことを何でもする自由がある。国家は他人による自由の侵害から各人を守り、共同体を外国の侵略から守る役割のみをもち、それ以上の権力行使は認められない。ハーバート・スペンサーSpencer『Social Statics』1850
自由とは人間の独創性と多様性が最大限に発揮できること。価値観の画一化は個性の発展を妨げる。個性が発展しないと社会全体にもマイナス。異なる意見を十分に自由に比較でもしない限り、意見の一致は望ましいものではない。全人類が同一の意見をもっていて、ただ一人が反対の意見を持っている場合でも、その一人を沈黙させるのは不当。一人の権力者が全人類を沈黙させるのが不当であるのと同じ。沈黙させた封じ込めた意見のほうが正しいかもしれない。「自分こそ正しい」という考えは馬鹿げていて根拠がなく、あらゆる進歩の過程で最も頑固な障害となる。▼他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の邪魔をしない限りにおいて、私たちは自分の幸福を追求する自由を持つ。幸福は人それぞれ異なる。他人に自分の幸福を強いるよりも、互いに相手の幸福に口出ししない方が得るところが大きい。相手が愚かなことをしているとき、やめたほうがいいよ、と保護者のように干渉するのもダメ。相手を自分の型にはめようとすべきでない。▼権力を行使する人民と権力を行使される人民は同じとは限らない。人民の意志とは多数者の意志であり、それは他の一部を抑圧するかもしれない。多数者による専制。個性を封殺し、多数者の考えに従うことを強要する。社会の画一化の圧力から個人を守るべき。改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。なぜなら、それは改革を欲しない民衆にそれを強制するかもしれないから。▼政治に参加することで人々は公共について学ぶ。政治参加は教育効果がある。できるだけ多くの人が政治参加を通じて公共を学ぶべきなので、参政権を女性にも拡大すべき。ジョン・スチュアート・ミルMill『自由論』1859
多数者である労働者の利益が、金持ちの利益を犠牲にする形で統治に反映されるのはよくない。多数者(労働者たち)による専制は避けたい。▼階級間の利益の根強い対立は克服が難しい。一方、意見の対立は優秀な資質をもつ少数の知的な人が理性的に対話すれば合意できる。▼支持者の数に比例して、少数派の党も代表される仕組みにする。労働者の多い選挙区で労働者が支持する候補者ばかりが勝つのを防ぐ。多数者(労働者たち)だけでなく、少数者(富裕層)も選ばれやすくする。▼教育ある有権者には2票以上の投票権を与える。知識や知性に優れた人の影響力が高くなり、無教育な労働者が自分たちの利益を追求しにくくなる。なお、生活保護者や文字の読めない者に選挙権を与えるべきでない。▼個人の自由を守るための政治体制。国民全体の利益を十分に考慮できる政治体制が仮に存在しても、それは望ましいものではない。過保護になりすぎ、個人の自治能力を減退させ、個人の自由を制限してしまう。ジョン・スチュアート・ミルMill『代議制論』1861
他人から干渉されることなく、自分のしたいことをする。こうした消極的な自由をまずは保障すべき。一方、自分は自分の主人であり、他人に支配されるのではなく自分で自分を統治する、という積極的な自由もある。自ら主体的に決定する自由。自律としての自由。しかし、こうした積極的な自由は社会全体が目指すべき理想・「何に価値があるか」の強制が入り込みかねない。単一の価値を達成することが、自己の統治「真の自由」である(cf.ルソー一般意志)と主張し始める。権力の決定への服従を強制する。積極的な自由は多数者による専制・全体主義への隷属につながる。人間の価値は多様であり、単一の価値に昇華できない。だから、他人に干渉・強制されずに行為できる自由(消極的な自由)こそ、まず保障されるべき。アイザイア・バーリンBerlin『自由論』1969 ※ラトビア出身。OX。 -
アバタロー氏
1859年出版
自由についての政治学に関する哲学的随筆
功利主義を社会と国家に適用した
《著者》
1806年生まれイギリス哲学者
英才教育を受け、ベンサムの後継者、ラッセルの名付け親
《内容》
○キーワード 質的功利主義
公正さの原理が欠落していると、従来提唱者のベンサムの功利主義をミルが新しい考え方に改良した
功利主義の定番フレーズ「特徴は最大多数の最大幸福」
社会の中で生きる1人1人の利益や幸福を数字にして、全部足した時の合計が大きくなればなるほど、それによって社会全体の幸福度を上げてより良い世界を目指して生きましょうという考え方
紀元前から考え方はあり、体系化したのは18 世紀に活躍したベンサム、その弟子がミルの父だった
1章 序論
社会的自由の線引きをしたい
(意見、感想、目的追及、団結)
強制や罰を与えるのはだめだ
2章 思想と言論の自由について
少数意見が正しい場合もある
間違った意見の中にも真理の一部分がある
議論しなくなるはだめだ
3章 幸福の一要素としての個性について
行動していく自由も必要ではないか
個性を伸ばすことが人間の成長
それが個人の成長につながり、社会の発展に繋がると考えた
他人に委ねてはだめ、自分自身で選択する -
本書の主題は社会の中での「自由」について。つまりは、社会が個人の行動を規制することができる状況において、何が個人の自由の領域であるか。言い換えると、社会は、個人の不可侵の領域として、どんなことをしてはいけないか。また、そのためにどんなことを推奨すべきかということを論じた本。
1859年初版。
その原理は、ある個人が、他者に危害を加えた場合やその危険が明白にある場合以外は、その個人の行為に関して何も強制してはならない、というもの。
この原理とどのようにつながるのか理解が浅いが、
言論の自由についても強く語っていた。言論を擁護する理論は、真理は批判を打ち負かすことでより確実になるし、偽の真理であれば批判によってより真に近づく機会を得れる。言論を封じることは現状を無批判に受容することで、人類の発達への危害である。まあこんな感じ。
その文脈で、無批判の受容は無気力に繋がり、それもまた悪だとする。自分で選ぶことに重要性があり、選択を通じてこそ活力が生まれる。これはミルが考える自由人像の一つかもしれない。
とはいえ、時代背景含むコンテクストへの理解は浅いし、疑問も多い(何が疑問かも怪しい)ため、全部的外れな見解かもしれない… -
「最近、ミルの『自由論』の翻訳でよいものが出た」と聞いたので、読んでみました。
1850年代に書かれた本ではありますが、現代でも十分に通用する内容だと思いますし、リベラリズムやネオ・リベラリズム、リバタリアニズムを考える上でも参考になると思います。
個人的には、ミルの『自由論』は、進化論との相性がいいな、と思いました。
生物がこれほど多様なのは、遺伝子(DNA)がガチガチに固定されているわけではなく、変化をする余地(自由度)があるため。
もちろん、遺伝子(DNA)の自由度のために淘汰されていった生物もいますが、生物全体を見ると、そのときどきの環境に応じて、より生き残りやすい形質が残ることになり、しかも、様々な形質が残ることになり、結果として、現在のように、多様でレジリエンスのある生物圏が形成されたわけです。
人間社会と生物圏を、単純に対比させてよいものなのか、自分にはよくわかりませんが、それでも、生物圏を見ていると、ミルの『自由論』には、一定の説得力があるように思います。 -
19世紀英国の思想家であるミルの代表作になります。本書は題名の通り「自由」について論じている本ですが、冒頭にも書かれているように、各人の市民的、社会的自由はどのように定義されるのか、を論じています。端的にいってしまえば、最終章に書かれている2つの格率が結論になります。第1に「個人は彼の行為が彼自身以外の何びとの利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない」こと、第2に「他人の利益を害する行為については、個人は責任があり、また、社会が、その防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする場合には、個人はそのいずれかに服さなければならない」ということです。そしてそれを説明するために、本書では思想及び言論の自由について、幸福の諸要素の一つとしての個性について、さらに個人を支配する社会の権威の限界について述べられています。
本書を読んで感じたのは、特に宗教と政府による強制への反発(あるいは警告)でしょうか。そもそも本書は訳注に書かれていているように、「自由」と「強制」の境界線を議論している本で、干渉と不干渉の境界線の議論ではありません。つまりミルからすれば、たとえば宗教団体がある人(信者ではない人)に対して「これこれこういうことはしない方が良いよ」という忠告を与えること、つまり干渉すること自体は道徳的に全く問題がないけれども、自分の宗教で禁止されていることを信者以外にも「強制」することは極めて問題があるということになります。その禁止したいと思っている行為自体が格率1に抵触していないことが条件です。本書は訳注もとても充実しており、自由とはなにか、ということを考えるに当たってとても勉強になりました。 -
内容の割に大変読みやすく、名著だと思った。
あくまで合理主義の観点から考えているとはしつつ、ベンサムのような機械的な考え方ではなく、個人にフォーカスした人間的な考え方をしている点が受け入れやすかった。危害原理に対しては、パターナリズムや道徳の観点から反論も考えられると思うが、現代の自由論の基礎をなす考え方の一つだと思う。
多様性について支持する考えがこの時代からあったことにとても驚いた。 -
2020年の訳なのでかなりよみやすい。津村のよみなおし世界文学のおすすめ本の1冊で、文学書ではないが読みやすい。実例はキリスト教に関する者も多いがそれ以外のものもある。実例があるところはわかりやすい。常識の範囲で論を追っていけるので理解しやすいと思われる。