- Amazon.co.jp ・本 (249ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004131335
作品紹介・あらすじ
名門に生まれ若くして声望をになった近衛文麿は、日中戦争下、困難の度を加える内外情勢に対処すべく、世の期待を集めて三たび首相の座についた。しかし、その内閣は、終始軍部に操縦され翻弄されてなすすべもなく、日本は戦争と破局への道をつき進むことになった。自らを「運命の児」と称したこの悲劇的政治家の思想と行動を描く。
感想・レビュー・書評
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岡義武が70歳にして刊行した岩波新書。「運命の子」を自称した近衛文麿にふさわしく、『近代日本の政治家』や『山県有朋』以上に淡々とした叙述で、それがかえって、破局へと向かいつつある恐ろしさを醸し出す。近衛=ポピュリストという近年の評価に連なる指摘も、所々でなされていた。
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近衛文麿は,昭和十二年以来困難を加える内外情勢に対処すべく三度首相の座についた.が,その内閣は終始軍部に操縦・翻弄され,日本は戦争と破局への道を歩むことになった.本書は,敗戦後に服毒自殺によって戦犯裁判を拒んだこの政治家の性格・思想,その果した役割を明らかにしつつ,政治責任とは何かについての貴重な示唆を与える。
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軍部内には戦争を革新実現のための手段にしようとしているものがいる。戦争の勝敗は問題でないばかりか、むしろ敗戦こそ望ましいと考えている「赤の人々」、故意に戦争を拡大し、故意に戦争を誘発する行動をとることがあったとしても、怪しむに足りない。中心人物は池田純久であると思われる。
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岩波新書 岡義武 近衛文麿
近衛文麿の人生を「運命」を キーワードとして まとめた伝記。近衛文麿の言葉から考えると「運命は 周りの人々によって 決まる 悲しい現実」ということになる
5章「破局への途」は、太平洋戦争直前の日米交渉の破局に至る経緯が細かく書かれている。独ソ戦争により目的を失った三国同盟を清算していれば....戦争回避まで あともう少しだった
松岡外相に 三国同盟+ソ連 以外の構想はあったのだろうか?陸軍は 戦争の主導権をとれると思っていたのだろうか? 日米諒解案は 公式文書なのだろうか?
「戦争は領土と資源の国家間の不平等から生まれ、平和は 経済と移民の自由から生まれる」とする近衛文麿の思想は 興味深いが、平和より 左翼革命や共産主義により国体が失われることを恐れているのは 意外だった。敗戦しても 天皇制さえ 維持されれば 日本は復活すると思っていたのか?
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尾崎秀実ほつみ(1901-1944)。共産主義者。朝日新聞社記者。ソ連のスパイ。ソ連(リヒャルト・ゾルゲ)から「日本を中国との戦争に向かわせろ」と指令を受ける。右翼や愛国主義者の仮面をかぶり、軍部に接近して対中強硬論を煽り、近衛文麿の秘書(内閣嘱託)として中枢部に潜り込む。支那事変(1937)を起こすことに成功。ソ連の思惑通り、日中戦争が泥沼化すると、今度は英米との対立へと日本を誘導。日中戦争が泥沼しているのは蒋介石を英米が背後で援助しているからだ。中国との戦争を終わらせるためには英米と戦うしかない。日米戦争を起すことに成功。スパイ行為が発覚し、逮捕・死刑。
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近衛、マッカーサーへの発言。以下。軍閥と極端な国家主義者が日本を破局に陥れた。しかし、皇室を中心とする封建的勢力と財閥は、アメリカが誤解しているように軍閥と結託してきたのではなく、むしろ軍閥に対するブレーキの役割を荷ってきた。封建的勢力の何人もが暗殺の対象になったことからも明らかである。満州事変以来、軍閥・国家主義者が急進的な国内革新を叫ぶようになったが、彼らの背後には左翼分子がいた。左翼分子は軍閥を利用して、日本を戦争に駆り立て、日本を破局に陥れた。今もし、封建的勢力や財閥などの既成勢力を一挙に除去するならば、日本はきわめて容易に赤化(共産化)するだろう。それを防ぎ、日本を民主国家にするためには、軍閥勢力を除去する一方で、封建的勢力・財閥を残し、漸次的な方法で民主主義を育成しなければならない。これは私が封建的勢力の出身だから、その弁護のために言っているのではない。pp.216-217
戦争に伴う昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言(りゅうげん)蜚語(ひご、根拠のない話)と是等一切の所謂(いわゆる)輿論なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時はじめて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。p.233
※戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ、戦争が終われば戦争犯罪人だと指弾される。p.228
※近衛家累代の墓所、京都、紫野むらさきの、大徳寺。 -
壮年期は軍部、特に皇道派と親しい。
第一次内閣(1937年6月~1939年1月)で日中事変が勃発、ゆくゆくはそれが太平洋戦争の端緒となったとして、責任を負うことになる。
また、この第一次内閣での大赦論などからも分かるように、世間の常識とは異なる考えに時おり強く惹かれるところがある。人間の好みについても、そうした傾向があることが、本書で触れられている。
第二次内閣(1940年7月~1941年7月)では周囲の反対を押し退けて外相に松岡洋右を起用。基本国策要綱を発表し、大東亜共栄圏の樹立を掲げた。また、ついで日独伊三国同盟を結んだ(1940年9月)。そして、挙国政治体制を目指して「大政翼賛会」を組織した。しかし、当初の目的と異なる、ただの精神運動に成り下がった。また、その内部にマルクス的なものもナチ的なものも混在した国体明徴運動となった。
そんな中、1941年4月に松岡外相は日ソ中立条約の調印に成功。近衛は一方ならず喜んだ。
一方で近衛が目指していたアメリカとの交渉は松岡の反対により、前に進まず、事態は悪化した。
松岡の任命責任を取って総辞職後組織した、第三次内閣(1941年7月~10月)では、成立直後に南部仏印進駐を認めてしまい、日米交渉の可能性を大きく狭めてしまった。そして、これに伴う石油禁輸措置が軍部(特に日米開戦に消極的だった海軍)の焦りを増長させ、開戦に向かわせた責任は大きい。一方で、暗礁に乗り上げた日米交渉を、非常手段に訴えてでも何とか実現したいと、近衛が努力したことも事実である。
こうした、一連の、(少なくとも本人の思いとしては)自らの意に反する出来事の結果により、日本が全面戦争に向かったことは、本人の戦争責任意識の弱さに繋がっている。
この点をどの立場から見るかにより、近衛への評価は分かれるであろう。
ここでは、私見が固まっていないので、述べることが出来ないが、そうしたことを考えさせられる点で、非常に読みごたえのある本であった。 -
岡義武さんによる近衛文麿論です。引用されることの多い本なので、基礎知識を得るために役立ちます。以下引用の近衛さんインタビューが彼の抱えていた問題を表していると思います。「僕は運命の子だ。僕の周囲に今まで去来した数々のいろいろな分子、右といはず左といはずいろいろな人々が僕を取り巻いたことが、否、取り巻かれていたことが、今日の僕の運命を決定したのだ。これは僕の責任でもあり、悲しい現実であるのだ」毎日新聞S.20.12.17 伊東治正記者書名記事
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ゼミのために読んだ本、もっともスタンダードな近衛文麿の概説本。