読書論 (岩波新書)

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  • Amazon.co.jp ・本 (185ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784004150879

感想・レビュー・書評

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  • 読書をするにあたり知っておくと良い心構え。

    多読から始める。
    それは量質転換する。

    時間には限りがあり、本は無限大ゆえにいかに読まないかが重要となってくる。
    古典的名著を読む。

    それは、目先の損得や有用でなく、
    長い目で見て効いてくるような選書をすることだ。


    読書には、
    読む進めることでわかることがある。
    読み通すということも一つの読書の手法である。


    読書会などによって読みっぱなしで終わるのでなく、それについて語り、または書くことで脳髄に刻み込まれる。
    また、話すことを前提に読むことでより一層自身の記憶に残る。


    読書会をし始めてから、
    いかに自分の読みが浅かったか、自分の理解が浅かったか、理解していることとそれを伝えることの間に乖離があるのかがよくわかった。
    そして、その問題意識を持って読書をすることで読書の質が高まっているのは個人的体験からしても間違いない。

  • 昭和初期を代表するリベラリストであり、慶應義塾大学の学長を務めた小泉信三の読書論。
    「すぐに役に立つ本はすぐに役に立たなくなる本である」は至極名言。

    碩学の彼だから見えてくる世界は読むものをハッとさせてくれる。ほかにもショーペンハウアーの読書論と並走したり距離を置いたり、難しい漢字を書くことを戒めたり、示唆に富んでいた。後は、英語とドイツ語に堪能な小泉信三だから見えてくる世界はある。自動翻訳、生成AIで外国語学習は不要との意見はあるが、否。外国語を知ることは原著にあたり、そのニュアンスを正確につかむためにも必要なのだ。

    理想の書斎はクスッと笑いながら読んだ。

  • 読書論。などと名乗ると堅苦しいのですが、何のことはない、読書の悦びについて、一冊丸ごと語る本であります。今から63年前の初版とは思へないほど、本好きの思考回路は変つてゐないことが分かり、微苦笑を禁じえない、と言つたところでせうか。

    第一章「何を読むべきか」、第二章「如何に読むべきか」は余計なお世話ですと片付けることも出来ますが、多読の勧めは理にかなつてゐる。本を選ぶ際の選球眼は、ある程度読書量がないと養へないと勘考するものです。

    第三章「語学力について」、第四章「飜訳について」では、読書にも外国語の知識が必要となることを説いてゐます。もつとも、昔の岩波文庫赤帯の翻訳は、酷い誤訳だらけだつたと聞いてゐますが。

    第五章「書き入れ及び読書覚え書き」。読んだ本を自らの血肉とするにはどうすれば良いか、のヒントが書かれてゐます。文豪たちの書き入れは(特に夏目漱石)実に愉快ですね。

    第六章「読書と観察」、第七章「読書と思索」では、受動的に本を読むだけでふむふむと納得するだけでは、結局他人の思考を自分の頭でなぞるだけであるといふ危険性に言及してゐるのだ。

    第八章「文章論」。ある程度読書人としてのレヴェルが上ると、文章論は避けられないさうです。さうなのか? 

    第九章「書斎及び蔵書」。昔も今も変らない、読書家の永遠の悩みであるとともに、愉しさであります。理想を語るのはタダですから。

    第十章「読書の記憶」は、著者小泉信三氏の読書自叙伝となつてゐます。あくまでも小泉氏の読書遍歴なので、一般人が参考にするやうなものではなく、一種の読み物と申せませう。

    先ほども述べたやうに、読書好きの興味は、昔も今も変らないやうです。本書がいまだに流通してゐるのは、そんな事情もあるのではないでせうか。そして一生に読める本の量を類推して絶望し、選択眼が向上する。
    ま、たまには外れを引いて、くだらぬ本と付き合ふのも愛嬌かな、とも思ひますがね。

    ぢやあ、こんなところでご無礼します。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-136.html

  • 836

    小泉信三
    [生]1888.5.4. 東京
    [没]1966.5.11. 東京
    経済学者。慶應義塾塾長小泉信吉の長男として生まれ,慶應幼稚舎,普通部を経て,1910年慶應義塾政治科を卒業。 1912年ヨーロッパに留学し,ドイツではウェルナー・ゾンバルト,イギリスではアルフレッド・マーシャルに師事し,経済学,社会学を学ぶ。 1916年帰国後母校の教授となり,リカード研究や河上肇,櫛田民蔵らとの価値論争を通じ反マルキシズムの理論家として知られるようになる。 1933年 45歳で慶應義塾塾長に就任,翌 1934年『リカアドオ研究』で経済学博士号を得る。第2次世界大戦後の 1947年塾長を辞任し,1949年以降東宮御教育常時参与となる。 1959年文化勲章受章。著書は『近世社会思想史大要』 (1926) ,『マルクス死後 50年』 (1933) ,『共産主義批判の常識』 (1949) など。死後『小泉信三全集』 (28巻,1968~72) が刊行された。


    書籍を離れて読書を論じている 閑 に、先ず書籍に向って突進せよということが差し当り親切な忠告である。「ファウスト」の一句「始めに 業(実行)ありき」がここでも大切であると思う。美術や音楽の鑑賞も同様であろう。絵画彫刻の名作を数多く見、名曲を数多く聴けば、目と耳とはおのずからにして肥える。方面は全くちがうけれども、弓術や馬術の稽古で、矢数を射、鞍数を乗るということを重んずるが、充分理由のあることだと思う。この点から見て、ともかくも一応或る程度多く読むということは必要であり、得策であると言えるであろう。

     すべて文芸と学問とを問わず、それぞれの分野において、いくつかの流行浮沈を超越する標準的著作が認められてあるものである。私の指していうのはそれである。心がけてこういう著作を読めということは余りにあたりまえな、無用の忠告のようであるが、実はそうでない。人は意外に古典的名著を読まないのである。かつて経済学史家ジェームス・ボナーがその「マルサスとその仕事」の中で、アダム・スミスの「国富論」とマルサスの「人口論」とを対照して、「国富論」は誰れもが読まずに褒め、「人口論」は誰れもが読まずに悪るくいうと言ったことがある。しかし実はこれが多くの古典の運命である。例を同じく経済学に取れば、昨今一部でよく「マルクスかケインズか」という標語と共に論評が行われているが、これを論評するものの中には、マルクスの「資本論」もケインズの「雇傭、利子及び貨幣の一般理論」もそれぞれその実物については読んでいないものが意外にあるのではないかと思われる。

     何故このように人は古典を読まないのであるか。人が意外に名著を知らないということもあろう。しかし一には、古典的名著が人に或る畏怖の念を懐かせ、圧迫を感じさせるからではなかろうかと、私はひそかに思うのである。古典として世に許されている名著は、みな何らかの意味において独創的である。そうしてこの独創はいずれも著者の強い個性から発する。その強い個性を持った著者は、往々読者を顧慮しない。これがしばしば読者に取りつき憎い厳しさを感じさせ、人に名著を憚らしめるゆえんではなかろうか。

     ついでに記すと、グレイは外相在任中、イングランドの北境に近い故郷の本邸の書斎には、常に三つの本を用意しておいたと書いている。一つは過去の時代の大なる事件と大なる思想を取り扱う、何時の世にも読まれる大著の一つ、例えばギボンの「ローマ帝国衰亡史」、二は幾世代相継いで承認せられた古い小説(彼れの手紙によれば例えばサッカレー)、三は真面目な、或いは軽い近代書である。そうして彼れは週末、国務の暇を得ては帰宅して、それを読んだ。

    森鷗外は一種の自伝たる「ヰタ・セクスアリス」の中に、はやくから読書家であった少年時代の自分を描いている。

     これは多分事実のままを書いたものであろう。果たして然らば、十五歳の鷗外は、読書について、すでに一見識を抱いていたのである。斯くいうことは敢て「貞丈雑記」を良書だというのでもなく、また後年みずから「あそび」と称した鷗外の好事癖(dilettantism)の一面に賛成するのでもない。ただ私は彼れと共に、読書の有用無用を、いわば今日蒔いて明日刈れるというような、卑近の実利によって判断すべきものではないことを言うのである。人類の文化の偉大なる産物は、この卑近なる意味においては無用なる読書、また無用なる思索の中から生れたのであることを忘るべきでない。

    すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ、と応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立した。すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなるとは至言である。同様の意味において、すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というものは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められて来たのである。

     無論小冊子にも価値高きものはある。私にすぐ 憶 い起こされるのは「共産党宣言」と「学問のすゝめ」である。前者についてドイツの学者ゾムバルトは「予は既に幾百回之を読んだ。而かも 猶 ほ再び之を手にすれば、毎回新たに之に 惹き着けられる」といった。後者についても、必ず同じことを言うものがあるであろう。場合によっては率先してみずからそれを言うかも知れない。にも拘らず私は年少の読書家が、一つ物に嚙じり付いてこれを読み通すことをせず、ともすれば、移り気に目新しい小冊子類を読み散らすことに対しては、警告を発したい。敢て量の大小のみに拘泥して、大は小に勝るというのではないが、持続的、系統的に物を読み、物を考える力と習性とを 傷 う 惧 れのあることは、用心して避けることが賢こい。また、単に快不快という点からいっても、数十日かかって大冊の大著を──しかも相当難解の大著を──読みおえた歓びは、真に 譬えるべきものもない。気息奄々 として登攀に悩み、漸くにして高山の山頂を極めて四方を望む快感はややそれに似たとも言えるが、恐らく遥かに及ばないことが多いであろう。例えばゲーテの「ファウスト」の第一第二両部を読んで、遂に最後の一節 一切の無常なるものは ただ影像たるに過ぎず。 曾て及ばざりし所のもの、 ここには既に行はれたり。 名状すべからざる所のもの、 ここには既に遂げられたり。 永遠に女性なるもの、 我等を引きて往かしむ。(鷗外訳による)

     エブラハム・リンカンについてこんな話が伝えられている。リンカンは或るときその友人の推薦した或る人物を閣僚に採用しなかった。そうして、その顔が好きでないからといった。それは酷ではないか、彼れは顔には責任がないと、その友がいったら、彼れは答えて、イヤそうでない、四十歳以上の人間は自分の顔に責任がある、といったということである。この言葉は面白い。一芸一能の士、或いは何かの事業を成し遂げた人の容貌には、何か凡庸でない気品と風格がおのずからにして備わるものであることは、多数の例証の吾々に示すところである。読書家もまた然り。本を読んで物を考えた人と、全く読書しないものとは、明かに顔がちがう。或る人は、読書家が精神を集注して細字を視ることが、その目に特殊の光りを生ぜしめ、これが読書家の顔を造ると言ったが、或いはそうかも知れない。しかしひとり眼光には限らない。偉大なる作家思想家の大著を潜心熟読することは、人を別人たらしめる。それが人の顔にも現われることは当然であろう。

    けれどもこの例外について長く語るのは本意ではない。例外はどこまでも例外で、私の特に言いたいと思うのは、大抵の本はくり返して読めば解るもの、また意外によく解るものだと 謂うにある。要するに、本を恐れずに読むこと、難解の箇処に出逢っても、それに辟易しないで読み進むことを、私はすすめたいのである。進んで先きを読んでいる中に、前に難解と思った語句や章節の意味が自然に会得されることは、非常にしばしばあるものである。要するに書籍を征服するとか、或いは我が物にするとかいうことは、結局ドシドシ読み進むことによって達せられる。もちろん解らない箇処に出逢えば、すぐ飛ばして先きを読むというような、横着なやり方で、名著や大著が自分のものになる筈はないが、しかしまた、あまり局部の字句に拘泥して、それに屈託していると、気分が 饐えてしまって、解るものも解らなくなってしまう。本はどこまでもこれを尊敬して、丁寧に読むべきものであるが、同時に屈託に陥らぬよう心がけることが肝要である。一般に名著はその全巻を読みおえないと真意を摑むことができないものである。全巻を読みおえるには、ともかくも読み進まなければならぬ。殊に時代を劃した名著は、天才的な著者によって書かれたものが多く、天才的な著者は多く、教科書的に首尾体裁の整ったものを書かないのが常であるから、章節段落を逐うて、順序よく説明を進めない場合が随分多い。順序正しく書かれたものなら、Aの次ぎにB、Bの次ぎにCと、順を逐うて読まなければ理解できない筈であるが、その順序が必ずしも厳密でないとすると、或る一章が解らなければ、必ずその以後の章は解らないというわけのものではない。ものによっては随分後の章を読むに及んで、濶然として前の諸章の意味を悟るというようなこともあるのである。

    斯く難解の章節に屈託するな、というと共に、特にすすめたいのは難解と平易とを問わず、同じ本を再読三読することである。実際相当の大著を、ただ一度読過したばかりで理解しようとするのは無理である。難解の章句が一読過では解せられないという外に、一回の読了ではどうしても書籍の部分に囚われて、それと全体の関係が分らない。二度或いは三度読んで見て、始めて著者の思想の全体、その全体における個々章節の意義または重要性というものが把握される。読書百遍義おのずから通ずといい、西洋でRepetitio est mater studiorum(繰り返しは学問の母)という格言は、難解の章句も反覆熟読すれば分るといわんとしたものであろうが、それと共に、一の書籍の思想を一の全体として、個々の部分を全体に対する適当の比例において受け取るため、再読三読はぜひとも必要である。やはりショーペンハウアーがそれを言っている。

     庭苑を見る場合、殊に曲折の多い日本の名苑を見る場合、私はしばしば読書を想起する。私は先年ブルーノ・タウトの「日本美の再発見」に教えられて、京都に往き、桂離宮及び修学院を拝観したのを始め、いくつかの有名な庭苑をみたが、始めて足を踏み入れたときは、心の用意が足らず、一木一石毎に目を奪われるから、庭の構造全体というもの、その全体の上においてこれらの木石の占めるべき位置、したがって造庭者の意図は、これを理解し鑑賞することなくして終ることが多い。それは二度三度、しかも続けて二度三度歩みを運ぶことによって、始めてなるほどと胸に落ちる。音楽の名曲を聴く場合も同様であることは、既に誰れか言っていることと思う。殊に複雑な構造を持つ交響曲の如きは、始めてただ一回それを聴いて、直ちにその美しさ或いは大さの全体を解し、味わうというごときことは到底あり得ない。名曲は反覆して聴くべきものであり、それによって始めてその真価を知り、或いはいよいよその真価を知ることが出来る。そうしてまた、斯く反覆して聴くに堪えるか否かということが、その真価の最も確実なテストとなる。真実偉大なる作品が、これをくり返して聴けば聴く度ごとに新しい何ものかを人に与えるのと反対に、初めて聴いて、ちょっと気が利いて面白いような新作が、二度三度とレコードを聴く中に、忽ち退屈極まるものとなってくることは真に 覿面 で、寧ろ恐ろしいといってもよい位である。

    書籍もまた同様で、再三反覆して読むことにより、人は始めてよく著者の真意を会し、また再読三読することによってその真価を判ずることが出来る。  さらにやや時を隔てて同じ本を読み、そこに自分の成長を認めるのも愉快なことである。少年が柱に印して身長を測り、自分で自分の成長を知るように、時を隔てて同じ本を読んで見ることは、自分で精神的身長の増大を知るゆえんである。始めて読んだときに全く理解し得なかったことを今度新たに理解すること、かつて漫然読み過ごした箇処に深い重要の意味の潜んでいたのを見出すこと、或いはまた反対に、昔感心して読み、傍線などを引いた章節が空疎な美辞麗句に過ぎなかったのを 覚ること、また同じ傍線によって、幼稚であった筈の昨日の吾れに意外に正しい眼識があったのを知ることなどは、誠に無上の楽事と称すべきものであり、世の読書人たるものは、いずれもこれについて無数の語るべき話題を持っているであろう。

    語学力を養うには、自分の経験からいうと、二つの方法の併用が肝要であると思う。一つは一字一句丹念に辞書を引き、文法書を開き、或いは先輩に尋ねつつ進むこと。今一つは辞書や文法書などはそっち 除けにドシドシ読んで、全体もしくは大体の意味を摑むことがこれである。 譬えば水泳がやはりそれである。善き泳者となるには正しい泳法を学ばなければならぬ。しかし同時に、水に飛び込んで相当多く泳いで見なければならぬ。長時間水の中で水と格闘している中に、自然に水に 順 って水に 克つ秘法を体得し、知識として学んだ泳法がそこで始めて活きてくる。読書もまたこれに類するところがあり、辞書により文法書によって厳密に章句の意味を解釈すると共に、他方一字一句の意味は構わず、相当に多く読むということが、やはり実力を養う上に肝要である。語学者必ずしも最良の読書家ではない。真に書籍を解せんがためには辞書と文法の知識以上に更に或る物を得なければならず、それは読むことそれ自身によってのみ得られる。また多少文法的知識は不確かであっても、くり返し読むことによって本は意外によく解るものである。理性ある人間の書いたものを、理性ある人間が読むのであるから、これは解るのが当然かも知れない。文明の断絶した古代の楔形文字や象形文字すら学者は解読する。いわんや現代語をや、と言うべきであろう。

     私が「事始」の記事を引用したのは、難解の書も読めばこの通り読めるといいたいためである。もちろん「解体新書」訳述の如きは異常中の異常の例であるが、本というものが読んでいる中に意外に分ってくるものであることを教えるものとして、この有名な話は吾々後人を励ますのである。玄白も始めそれに対して茫然としてのみあった「ターフル・アナトミア」が、読み続けている中にだんだんに解し得て、やがて面白くて堪らなくなったその次第を、次ぎのように書いている。  「過ぎこしかたを顧るに、未だ『新書』業に至らざるの前に、斯の如く勉励すること両三年も過ぎしに、漸々其事体も弁ずるやうになるに随ひ、次第に蔗を 噉 ふが如くにて、其甘味に喰ひつき、これにて千古の誤も解け、其筋たしかに弁へ得し事に至るの楽しく、会集の期日は、前日より夜の明るを待兼、児女子の祭り見に行くの心地せり。」  これまた読書人の心に留むべきところであろう。

     読者として他人から受動的に受け入れたものを、今度は逆に自分のものとして外に出してみるが第一であると思う。別言すれば、読んで頭に入れたものを、今度は自分の口から人に話してみるか、或いは自分の筆で書き留めてみるのである。元来読んだものについて疑義を 質し合い、論じ合うということは、読書家にとって何より楽しく、この点からいって読書会というものの価値は極めて大きい。早い話が、前記「蘭学事始」に記された「解体新書」の訳述でも、前野、杉田、中川らがそれぞれ孤立して、仲間が一つに寄り合わなかったら、恐らく成し遂げることはできなかったであろう。しかし、ひとり質問し合い議論し合う外に、読んだことを話して人に聴かせることは、我が知識と理解とを確保するため最も有効の方法であろう。もし話して聞かせる相手がなければ、何か書いてみるがよいと思う。読んだものの要旨を書き留めてみようとすると、自分の読み方が不充分で、要旨をしっかり摑んでいなかったことを、しばしば痛切に感ずることがある。また、それについて語り、または書くことを心に置いて読むことが、書物をしっかり読ませる要訣である。

     いつも漱石と並べられる鷗外はこの点どうしたか。鷗外も同様に書き入れをしたかどうか、聞いていないが、彼れはよく読むとすぐその本の梗概を書いた。私は別の処で(「読書雑記」第九章)名著の梗概というものは、鷗外制作中の重要なる一品類を成すと書いたことがある。それに属する最も有名なものはエドアルト・ハルトマンの「美の哲学」を約説した「審美綱領」であるが、この外にも彼れは「人種哲学梗概」「黄禍論梗概」を書き、マキャヴェリの「人主策」(君主論)梗概を作り、「ユリウス・バアブの戯曲論」等々々を書いた外に、読むに随って書き留めた無数の戯曲の小梗概が鷗外全集に収められている。今その一々を点検すれば、作者の国籍は英、仏、独、墺、露、瑞、丁などヨーロッパ文明国の全範囲に及び、その傾向は写実的、ロマン的、象徴的等々一切の近代諸流派を網羅しており、鷗外の渉猟のいかに博く、その要領の摑み方のいかに熟練せるかを感歎せしめないものはない。ここに戯曲梗概の見本一、二を示したいが、原作の弘く日本に流布しているものが割合に少ない。已むなくば、喜歌劇「チョコレート・ソルジャア」の原本、バーナード・ショー作「武器と人」か。それはこう書かれている。

     読書の場合もまた同じ。心して求めることによって小恍惚の体験を我が物とし、更に進んでそれを豊かにすることができると同じように、吾々は読書玩味して会心の箇処にアンダラインを引くことによって読書の楽しみを加え、そうしてアンダラインを引くような心構えを以て読むことによって、更によくアンダラインすべき章句を見出すことができる。ヴァイニング夫人は「小恍惚」を 索 めてこれを得たその都度、これをノートに書き留めることによって、更にこの蒐集を多くすることができると教えているが、読書のこともまた然りといえるであろう。

     読書は大切であるが、それと共に自分の目で見、自分の頭で考える観察思考の力を養うことが更に大切であるというのである。読書は独り書中記載の事実を学ばせるばかりでなく、当然観察思考の力そのものも、また読書によって養われなければならぬ筈である。ただその場合警戒を要するのは、間断なく読書に耽り、書籍にばかり 倚頼 する余り、ただ偏えに書中の記載を信じて、自分の目で見たものは重んぜず、本に書いてあることのみを信用して、だんだん自分の目で物を見ることが 億劫 になり、知識をただ書籍にのみ求め、或いは自分で考えずに、著者に代って考えて貰うことの易きに就く習性が、とかく養われ勝ちであることこれである。これは一つは人の性質であるが、また習性の力も大きい。読書人たるものの警戒を要するはここであると思う。

     読書と共に観察思考の力を養わなければならぬと私がいうのは、つまりは鷗外の言う「名を知つて物を知らぬ片羽」にならぬように用心せよというに帰するであろう。読書の良習慣を持たないものが、読書家に対し、書籍に囚われるなと忠告するのは僭越である。書籍によって名のみを知ることは、たしかに完全な知識ではないが、しかし名を知るは物を知る重要の一歩である。ただ吾々の省みてみずから戒めなければならないのは、その名を知るだけに甘んじて、進んで自分の目で見ようとはせず、みずから物を見る代りに、その色その匂いその形状を、ただ書中の記載のままに受け取って、それで満足する一種の怠惰性、或いは自分が自分の目で見たものは信じないで、本に書いてあることそのままの方を尊重する無見識に陥ることのないことこれである。読書の良習慣はしばしば読書家の悪癖と相隣りする。よく読書するものに往々自ら見、自ら考えるに怠惰なものが少なくないのは惜しむべきことである。要するに、前記の例について言えば、物を見たら必ず書籍によってその名を学べ、書籍によって名を知ったら必ず物そのものを見よ、というのが、私の読書家に告げたいところである。

     そこで実物の観察ということであるが、日本の多くの学者、殊に社会科学者の場合、しばしば読書に比して観察の練習が足りないと思う。そうして前に記したように、 動 もすると書中の記載を重んじて、直接自分の目で見たものを軽視し、また従って自分の目で見ることに勉めない嫌いのあるものが多い。仮りにすべての学者がそうなったとしたら、人々はただ書中の記載に拠って記述し、立論するだけで、結局どこでも直接人間生活の現実には触れず、記述は書籍から書籍へと循環して、そうして終るという結果にならぬとも言われない。それは譬えば、画家が実物を見ないで写真によって或る人の肖像を描き、第二第三第四等々の画家が、第一第二第三等々の肖像によって次ぎ次ぎに肖像を描くというにも類する始末になるであろう。

    また同じ道を同じ距離だけ旅行しても、物を見て来る人と見て来ない人、多くの物を正確に見て来る人とそうでない人とがある。

    世界の経済学界にケムブリッジ大学を重からしめた、アルフレッド・マーシャルは、卓越した抽象理論家であったと共に、また極めて訓練せられた実物観察者であった。彼れはその学者としての修業時代、ただ書斎にばかり引込んではおらず、出て工場を視て廻って、やがては工員の仕事の種類に応じ、それに要する能力、熟練及び骨折りの程度を察してその賃銀を言い当て、週給にして二シリングとは外れないまでになったということである。

     観察力の不足ということは私のしばしば自分で感じていたことであるが、殊に十余年前(一九三六年)二、三カ月アメリカを旅行し、帰って旅行記(「アメリカ紀行」岩波書店刊)を書いて見て、それを痛感した。観察の当否精粗ということもあるが、第一観察の乏しいこと、即ち目を明けてアメリカを歩るき廻っていながら、自分がろくに物を観ていないということを知って、ひどく失望した。

     観察力の非凡という点で特に言いたいのは福沢諭吉である。福沢の「西洋事情」は厳密な意味での紀行文ではないが、彼れが文久年中徳川幕府の遣欧使節に随行してヨーロッパに渡航したときの見聞手記と、それを補う読書とに基づいて書かれたものであるから、 寛 かに解すれば、やはり一種の見聞記ということが出来る。福沢はこのとき、文久元年十二月(一八六一年)に江戸を立って、翌二年十二月に帰国したのであるから正味一年の旅行であるが、これだけの期間に、今まで夢にも知らぬ西洋文明国の文物を視て、それを正しく綿密に理解して紹介したその直感力と推理力とは、驚歎すべきものがある。

    これが全然書籍によらず、ことごとく活きた現実を直接に見て書かれたものである事実は、特筆すべきであると思う。この現実に対する潑刺たる興味と、それを観察活写する手腕とは福沢独特のものである。もとより福沢は読書を好み、またそれを怠らなかったが、しかし彼れの有名な著述のために参考した洋書は、あまり大したものではなく、通俗卑近の教科書類が多かった。彼れがミルの「功利主義」を精読した事実は前に委しく紹介した通りであるし、また明治八年に出した有名な「文明論之概略」が、バックルの英国文明史、ギゾーの文明史に負うところがあったことも顕著である。しかしこれ以外に福沢は、あまり劃世的の大著と称すべきものに拠って書くということをしていない。彼れは経済学を、イギリスの通俗書たるチェムバー教育叢書中の「経済学」及び米人ウェイランドの「経済学要義」によって始めて学び、また同じウェイランドの「倫理学要義」によって西洋倫理学を知った。福沢の有名な「学問のすゝめ」にはこのウェイランドの倫理学に拠って書かれた部分があり、また名を挙げてこれを引用している箇処もある。しかしチェムバーの出版物はもとより、ウェイランドも、畢竟よく読まれた教科書というに過ぎず、決して学術の歴史に伝えられるというような独創的の産物ではない。しかもかかる通俗書類に拠って、なお且つあのような生命の溢るる名著が書かれたということは、これは吾々として考えなければならぬところである。読まれた書籍そのものよりも、読んだ福沢の読み方というものを考えなければならぬ。本書の始めから、私は何を読むべきかということを様々に論じて来たが、ここに至って、何を読むべきかと共に、或いはそれよりも一層、如何に読むべきかの問題が大切であることを思わざるを得ない。…

    以上観察のことについて述べたが、思考についても同様である。吾々は読書によって思考を促され、また導かれる。全く読書しない思想家というものは考えられないのである。ただ、戒むべきは読書の間に、往々読書の易きに就いてみずから思考するの責任と煩労とを厭う習性も養われぬとは言い難いことこれである。人力車夫は車の梶棒を握らないと走れないという話がある。読書家にはどうかするとこれに類するものがあって、書籍に向わないと頭の働かぬらしく見えるものがある。それは未だしも、甚だしきに至っては、全然書籍に頼り切って、自分で考える代りに、著者に代って考えて貰うというものも無いとは言われない。

     人は読書によって思索を刺戟される。しかし読書そのものは本来受動的の行為であって、その場合、他人の思想を受け容れるということが主とならねばならぬ。最もよき読書の態度は、心を虚しゅうして著者の言うところを聴くということにあるであろう。しかし著者の言うところを受動的に受け容れるというに止まるなら、AはA、十のものは十たるに終って、それ以上に出ることはない。ひとり著者の働きかけに対する反応として、能動的なる思索の起るを俟って、始めて読書は読者自身のものである、新しい実を結ぶ。読書が読書だけに終るなら、そこに何らの発展は起らない。右の受動の一面のみがあって能動の一面を欠くものは、畢竟物識りたるを以て終るであろう。世の学窮といい、pedantといわれるものは、多くはそれである。読書をこととし、それにのみ耽る間に、何時か読書の安易なるに慣れて、自分で物を考えなくなってしまう危険に対し、人はよくよくみずから戒めなければならぬ。ショーペンハウアーが警めて、終始乗馬するものが遂に歩行を忘れるごとく、絶えず読書のみするものはみずから思考する能力を失う、といったことは、心に留むべき忠言である。私は何時も年少の友人に向って読書をすすめるものであるが、それと同時に、読書の後に、もしくは読書と読書との間に、必ず読んだことについて考える習性を養うことの最も肝要なるを切言したいのである。

    然し植物学は科学である。鳥は科学ぢやない、然し動物学は科学である。文学は固より科学ぢやない、しかし文学の批評又は歴史は科学である。少くとも一部分は科学的にやらなければなら

     しかし「其文を恐るゝ勿れ、其人を恐るゝ勿れ」という福沢の注意は、今日において決して無用でない。さほどにもないことにむずかしく 厳しい言葉を使うものは、今の世にも乏しくないのである。マルクシストの間に、いわゆる資本主義の必然的崩壊ということについて、しきりに矛盾とか弁証法とかいう言葉が用いられ、それが真実必要の用語であるかのように思われていることも、その顕著なる一例である。

     ドイツの大学はドイツ語も教えないといってマルクスが罵ったということで憶い出したが、ドイツの学術書というものは、英米仏のそれに比して読み憎い。過去の経歴において私は多くドイツ書を読んだ時代があり、ドイツの学問を今も尊敬して 渝 らない。それでいながらドイツ書を読んで或る重苦しさ、ギゴチなさを感ずることはしばしばであった。もっと平明に簡潔に、また洒脱には書けないものかと思うことがしばしばであった。その弊は、幾分彼の「ファウスト」中のワグナー的に、何事も正確に周到に、間違なく漏れなく書こうとして、却って読者の疲労を招き、印象の不鮮明を来たすところにあるのではなかろうか。しかもその弊はひとりドイツ学者のものではなく、吾々自身において常に反省しなければならぬところである。

     本を読めば、当然それについて考えたくなる。またぜひ考えなければならぬ。そういうとき、私は程よき一定の距離を往き来して歩るきながら考えるのが好きである。歩るいている中に思想が纏まり、また或いは読んだことから先きへ、或いは横へ、思想が奔馳する。そうしてそれは決して無駄でないばかりでなく、極めて必要である。もしそういう場合、書斎の扉の外に、十五、六メートルばかりの天井の高い柱廊でもあって、それを往き来することができれば、それこそ申分ないが、こうなると、話がだんだん理想から、実現し難い幻想(ファンタジイ)になって行く。

     書評雑誌として私のなが年購読したのは、ロンドン・タイムスの週刊文芸附録(リテラリー・サップレメント)であった。無論戦前のことで現在の状況は知らないが、開戦までは殆ど続けて読み、それを読んで註文した洋書では、一度も選択を悔いたことがない。戦争前丸善は毎年暮近くなると、翌年購読する外国雑誌の予約はないかと、申込書の書式を添えて註文をききに来るのが例であった。私が西洋留学から帰ったのは一九一六年であったが、それから対米英開戦の一九四一年まで二十五年の間に、必要と趣味の変化もあり、ドイツ政情の変動による廃刊などのこともあり、年々予約を申込む雑誌の種類も変っていった。ひとりこの間にあって、タイムスの文芸附録だけは、在外中から帰朝後にわたって約三十年少しの中断もなく見続けたから、私はこの書評誌のためには随分節操ある読者だったわけである。

     私は七歳のとき父を喪い、姉妹と共に母の膝下に成長した。母は紀州藩徳川家の侍医の娘で、当時のことだから正規の教育は受けなかったが、漢籍を少しばかり読み、あとは父からの耳学問と、父の師の福沢諭吉の著書などを見ていたらしく、もちろん文字があったなどとはいえないが、割合物を知っている方であった。十八のとき、当時イギリス帰りの新知識であった、同藩の父の許に嫁し、故郷和歌山を去って、誰れも知り人のない横浜に来て住んだ。その頃横浜正金銀行創立のことに奔走していた父が出勤すると、その留守中、物干場に登っては故郷の空を望み、 去 レ 国 三巴 遠  登 レ 楼 万里 春 と、祖父に教えられた唐詩の句を口にくり返すのが毎日であったと、後になってもよく吾々に話してきかせたものである。母はこの程度の読書家であった。また、父とそうして福沢の感化であろう、物の考え方は合理的で、占いとかまじないとか、日柄方角とかいうことに対しては全然無頓着であり、人がそんなことに拘泥しているのを見ると、大の男が何ということだろうというような批評をした。船の船長だったら、十三日の金曜日に構わず出帆するという方であったろう。私は幾分この影響を受けていると思う。後に鏡花を読んだ時代にも「高野聖」などは好きになれなかったのも或いはそのためかも知れない。

     けれども今回顧して小学中学時代に何を読み、何によって影響を受けたかと考えてみると格別思い出して人に語るようなことは何もない。小学校では水上滝太郎(阿部章蔵)と同級であった。水上の父阿部泰蔵はやはり私の父とほぼ同じ頃入塾した福沢の門下生であり、その子供の吾々は当然慶応義塾の幼稚舎(小学校)に入らなければ可笑しい筈であるが、どういう次第か、二人とも芝三田台町の御田小学校へ入れられた。高等小学のとき、吾々の級の担当者に勤王家タイプの先生があり、その影響であろう、私は十二、三の頃太平記を愛読し、また維新の志士の事蹟に興味を以て雑書を読んだ。勤王家に同情するから自然佐幕家は悪者の役に廻る。その頃(明治三十四年)福沢の「瘠我慢の説」が時事新報に発表された。これは武士道瘠我慢の主義から明治維新の際における幕臣勝安芳、榎本武揚の二人の進退を攻撃したものである。福沢は幕臣たるこの両人が、前日の敵であった薩長藩閥の明治政府に仕え、得々として顕要の地位に就いていることを責めたものであるが、特に勝に向っては、薩長官軍に対し敢て一戦を試みることもなく、ひたすら和を講じて江戸城を明け渡したことも、武士の風上に置けない所業であると批評したものである。福沢が説く、必敗を期してなお戦う孤忠の精神は、すこぶる太平記の主義に適っていたが、佐幕悪者論からいえば、江戸城明渡を非難することは腑に落ちない。十三、四の子供に、福沢が「瘠我慢の説」一篇を草した複雑な心事や動機が諒察できないのは当然であるが、当時時事新報に連載されたこの文を拾い読みして、何のことかわけが分らず、既に慶応義塾の大学部に学んでいた従兄にきいてみても、やはり分らなかったことを覚えている。

     もちろんこんなことは後になって考えたのであるが、御田小学校から進んで入った慶応義塾の中学(普通部)は、自由な気持ちのよい学校であった。その頃の学制は今と全くちがうから、説明しても今の読者には感じは薄いであろう。とにかく小学校から変則的に慶応普通部二年級に編入されて出席してみると、先きに御田小学校を出て往った水上滝太郎がちょうどその級にいて、またここで一緒になった。この学校の著しい特色は塾内においては上下尊卑の差別が皆無で、福沢に対する以外、全然敬語というものが遣われないことであった。福沢以外誰れも先生と呼ばれるものがない、誰れもみな──さんである。また世間の学校で見るように、上級生が下級生に幅を利かすということが全くない。中学生が大学の上級生のことを平気で──君が、といって話をする。私は知名の先輩を君づけで呼ぶ趣味を持たないが、慶応の普通部在学当時の上級生だけは、年上の人々を、今でも極く自然に何々君と呼びたくなる。福沢の死後塾生の気風も次第に変化したから一様には云えないが、世間一般を見渡して、さて自分の学校を顧みると、慶応に学んだものには、相手の上下に差別をつけ、下の者に威張るという風が割合少ないのではないかと思う、もしこの所見通りであるなら、それは一の美風と称してよいと思う。

     学校の気風はこの通りであるが、中学時代の慶応では、規定の学課には私にとりどれが面白いというものは一つもなく、学問に対する興味は全く知らなかった。教師の教え方もよかったとは言われなかったろうが、またあながち教師の罪にばかりすることはできない。学問に対する興味は、人によっては随分晩く目覚めるものである。私の場合はそうであった。ここに引き合いに出すのは僭越であるが、「福翁自伝」によれば、福沢諭吉も学問に対する興味を覚えたのが晩く、十四、五になって始めて本気で本を読みだしたと語っている。子供のときの教育について貧しい下級士族の家では世話の仕手もない。奨励するものは一人もない。「殊に誰だつて本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌ひと云ふこともなからう。天下の子供みな嫌だらう。私は甚だ嫌ひであつたから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。」ところが十四、五になってみると、近所の者はみな本を読んでいるのに、自分独り読まないというのは外聞が悪るいと思ったのであろう、漸く本当に読む気になって塾へ通い始めた、ということである。

    多くの学者は殆ど型のごとく、幼にして読書を好むと伝えられている。殊に三歳にしてギリシア語を覚え、八歳にしてラテン語、十三歳にして経済学を学んだというジョン・ステュアート・ミルの如きは、福沢とは甚だしい対照をなすものである。しかしミルも福沢も、それぞれ共に思想界の偉人たることに変りはない。小少にしてはやく学問の悦楽を知り得たものは無論幸福であるが、晩学の人必ずしも不幸ではない。福沢諭吉の学歴はその人々を励ます好適例であろう。序でに記せば、近世経済学の或る意味での始祖と見られ、…

    漱石のことは、これもあまりにたびたび書いたからここには略す。他でも書いた通り、私は全く偶然の機会から「吾輩は猫である」が「ホトトギス」に出たその第一回から読んだ。そうしてまた続けて「倫敦塔」「薤露行」「幻影の盾」を読んで驚いた。これらの後に挙げた作品を、今の私は必ずしも漱石の最高のものとは思わない。けれども、これらのものが発表せられた明治三十八、九年当時の文壇において、漱石の出現、その学殖と詞藻と空想力とは驚歎すべきことであった。鷗外や漱石の場合、彼らの文芸作品を、彼らが学者であるからとて買い冠ぶるのは愚かなことであるが、彼らの学殖そのものが、いずれの標準から見ても、実際大したものであった事実は争うべくもない。漱石は三田とは全く無縁であったが、私は随分長い間の 渝 らぬ読者として今日に及んでいる。

    朝食を終ると、吾々は歩るいて博物館に往き、あの広い円形の読書室で午まで読む。午に下宿に帰り、また出かける。そうして閉館の時までいて帰るのが日課のようになっていた。夜はまた食事をすますと、やはり歩るいても遠くないクインス・ホールのプロムネード・コンサートによく出かけた。ここの指揮者は有名なサー・ヘンリー・ウッドで、毎日曜の午後にはきまって管絃楽の演奏があったが、夏になると毎晩啓蒙的なプログラムでプロムネード・コンサートというものを催すのが例となっていた。プロムネードは訳せば散歩であるが、その名称の由来は、多分土間の椅子全部を取り払って、入場者にそこで佇立したまま聴かせたからであろう。その代り入場料は一シリング(当時の相場で日本の五十銭)という民衆的のものであった。元来サー・ヘンリー・ウッドはドイツ音楽尊重者ときいていたが、戦時のことであるから、さすがのイギリスでも独墺は遠慮して、フランス、イタリヤ、ロシヤの名曲を選び、ときどき英国人の新作曲をその間に挾むというのがプログラムの常であった。私は元来和洋ともに音楽が好きで、大正元年に日本を出る前も、当時まだ少なかった演奏会を聴いて歩るいたものであったが、このプロムネード・コンサートは、好きでばかり通ったわけでなく、いくらかは勉強という気持ちで聴きに行ったというのが事実である。当時まだ二十七歳の世間見ずであった私は、昼は大英博物館で西洋の名著を読み、夜はクインス・ホールで西洋の名曲を聴くということがいささか得意で、自分が大層高い生活でもしている気になり、気位だけはロンドンのブルジョワどもを眼下に見下していた。

    私は一九一三年秋から一四年八月半までベルリンにいた。ベルリン滞在中、読書に関する記憶として、特に楽しく憶い出されるものはない。ベルリン滞在中私は始終あくせくしていたように思う。第一にドイツ語学力の不足を感じ、あれもこれも読まなければならないものばかりなのに少しも捗どらないという気持ちの圧迫を常に感じていたように思い起こされる。ドイツ語のStreberという字は、直訳すれば努力者であるが、賤しむべきものとして、悪るい意味につかわれている。それは栄達とか成功とかを目当てにしてよくつとめるもの、今の言葉でいえば出世主義者に当るであろう。我が好むところに従い、己れの分に安んずるものの反対である。私はベルリン在学中無論出世主義者ではなかったけれども、好きな本を読んで楽しむという境地からは遠い気分で読書したように思う。

    大正五年春、西洋留学から帰って以後は教授の仕事に追われがちであったが、一度健康を害して講義を一年半ばかり休んだことがある。病気が楽しい筈はないけれども、読書ということだけからいえば、この一年半は私に役に立った。私は呼吸器を害したのであったが、呼吸器病の療養と読書とについては医者の意見は一致していないものか。或る者は読んではいかんといい、或る者は差支ないという。私の信頼していた医師は後者に属し、 啻に私の読書を禁じなかったばかりでなく、読書好きの病人は退屈せず、家で静かにしているからかえって始末がいいといった。それをよいことにして、私はたびたび使いに大きな風呂敷を持たせて東京に出し──その時は鎌倉に住んでいた──慶応図書館から色々のものを借り出してこさせては読んだ。モーパッサンなどもこのとき随分読んだ。モーパッサンは私のいた頃のイギリスの物堅い家庭では禁書に近くとり扱われていたが、彼れの短篇中には存外美しい可憐な話もあることをこのとき知った。しかしこの病中に読んだ、私にとって第一の本は「戦争と平和」であった。

    それ以来そうたびたびくり返しては読んでいないが、私の読んだ傑作について語る場合、先ず私の口に出るのは「戦争と平和」である。始めて読んだのは大正七年のことであるが、私の歴史を見、社会を見る目は、これによって一段階進歩したと自分では感じている。恐らく他に同様のことを感じている人々もあることと思う。「戦争と平和」が書かれて以来、作家にして世の治乱を描くものは、みな何らかの意味でそれに学んでいると言えるのではないか。後に有名な「風と共に去りぬ」を読んだときにも私はそれを感じた。私は作者マーガレット・ミッチェルの文学修業について何も聞いていないが、この大作を構想するに際して彼女の念頭を往来するものが「戦争と平和」であったと想像することは、多分見当ちがいではあるまいと思う。(と書いたあとで訳者大久保康雄の解説を見たら、ミッチェルも「戦争と平和」の影響を受けたことが明記してあった。)

     「風と共に去りぬ」といえば、これはアメリカ人の書いたもので私が読んだ最初の大作であった。この作が出たのは一九三六年の春であったが、たまたまその秋、私は慶応義塾から派遣されて、アメリカ各地を旅行した。

    序でながら、この旅行は私の目をアメリカに向って開かせた。それまで私はアメリカの出版物、いなアメリカそのものに対して甚だ冷淡であった。三十余年前西洋留学からの帰途、私はアメリカを経由したが、それこそほんとの素通りで、ニューヨークに十日余りいて、メトロポリタン・オペラハウスに通勤した以外、ワシントンもボストンもシカゴも見ずにシアトルに直行して、船に乗ってしまった。これはもちろん許し難い怠慢であったが、同時にまたそれは一九一〇年代のアメリカの学問に対する一部学界の評価の現われでもあった。私は経済学を専攻したものであるが、それまでのアメリカ経済学は、要するにイギリス、次いでドイツからの輸入品であって、特にアメリカにおいて従学すべき学者としては、限界効用、限界生産力説に独創と透徹とを示したジョン・ベーツ・クラーク、「有閑階級論」「営利企業論」その他によって機警且つ奇僻の観察力を顕わしたソースタイン・ヴェブレンその他幾人かを除けば、それ以外には特に誰れ誰れという人は多くなかった。それ故、日本の学界では、一種の響きをもったいわゆるアメリカ帰りの人々の外、アメリカの学問に注意するものも少なく、福田徳三のごときも或る機会に、アメリカには幾百人とかの経済学 教師 がいるといって、暗に学者はいないとの意をほのめかしたこともある。また、アメリカで多くの教科書的著書が出版されたことも事実であった。

  • 初版が1950年。長年読まれている。色んな人が読書を語っているが、これもまた良書。

  • どうのような本を如何にして読めば良いのかというテーマから始まって、読書の注意点や利益、文章論や翻訳に関する事、さらには書斎や蔵書に関する見解まで書いてあります。

    一つ一つは奇をてらったものではなく、答えだけを聞けば「知ってるよ」と言いたくなるようなものばかりです。
    ただその理由付けの中にこそこの本の面目があります。

    例えば「どのような本を読むのか」というテーマに関しては「古典的名著で、さらに大部であるとなお良い」という答え。
    これだけだとこの本を買ってまで読む価値はなさそうです。
    ですがその後に森鴎外や福沢諭吉などを例に出したり体験談を交えてその理由を書いていくのですが、この理由付けの中にこそこの本の面白みが詰まっています。
    そしてその理由があるからこそ、読んでいてスッと頭に入ってくる感覚があります。

    この本に書かれているような事を実践せずに、徒に奇をてらった読書法や速読法などに振り回されて乱読するだけの読書家にはなりたくないものだと痛感しました。

    そうかと言ってこの本の内容を鵜呑みにする事は禁物です。
    それはこの本の中でも著者自身が戒めている読書の弊害の一つなんですから。

  • ご存知の方も多いかと思うが、「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる」との名言が記された名著。資本主義に振り回され、結果ばかりを追い求めるようになった現代人にこそ、このような本を手にとってもらいたい。本をどのように読むか。すぐ役に立つ知識が欲しいのであれば電話帳や観光案内を見ればいい、それに勝る本はなかろう、という主張は読んでいて非常に心地よく感じられた。今でこそ特に電話帳などはお役御免となりつつあるが、ごく狭い範囲の用途に限られたものは応用が効きにくいという具体例として非常に理解がしやすいものと思う。
    創造性を獲得するには余白の時間が重要であるとの主張もこんにち様々なところで見受けられるものではあるが、局所的対症療法的に成果を得たところで残るものは何もない。本当の読書、勉強とは何であるか、今一度認識を改めてみようではないか。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/702295

  • 著者の小泉信三は、経済学者や慶応大学塾長としてよりも、戦後まもなく、平成が皇太子だったころの教育係として知られているのかもしれない。

    この読書論は、数ある読書論のはしりみたいなもの。
    岩波新書から1950年に出版された。

    昔は新書版というのは、岩波新書ぐらいしかなく、それも難しい本ばかりのように感じられて、この本もなかなか手に取ることがなかった。

    今読んでみると、本格的で新鮮で、じわじわくるものがある良書でした。

  • 2017.12.29 吉岡さんのブログより。小泉信三氏による古典的な読書論。

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