- Amazon.co.jp ・本 (201ページ)
- / ISBN・EAN: 9784005002078
感想・レビュー・書評
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生と死が隣り合わせ。あと1秒早く壕を出ていたら、あと数メートル後ろに居たら、目の前の爆発や空から降り注ぐ爆風と破片に四肢をもぎ取られ、頭を吹き飛ばされ、お腹から臓物を飛び散らし無惨に失われていく命。それでもなお、爆発でできた穴に横たわり、流れてくる雨水とも血とも解らない水分を啜り、這いつくばって生を求める女学生。正にこの世の終わり、生き地獄が最も相応しい表現だった時間。今私たちは平和な世の中に凡そ銃声すら生涯聞くことのない様な世界に暮らしている。少し転んでかすり傷で泣いていた幼い自分さえも覚えているくらい、子供だった自分には激しい痛みの記憶として残る。
間も無く沖縄戦の終結6月23日を迎える。このタイミングでひめゆりの記憶を辿っていくのは、今を生きる人々の一つの使命ではないかと感じる。なぜ今日本が平和を謳歌し、食べ物にも困らない生活を送れているのか。なぜ海外で起こっている紛争を他人事の様に、別世界の問題として片付けられるのか。戦後70年以上経過し、当時を知る人語れる人も大分少なくなってしまった。ただ間違いなく、そこには今の私たちと同年代の人間も、お年寄りも子供も、そして本書の語り部たる女学生たちが居た。今の私たちからは想像もできない地獄を彷徨い、ほんの数センチ横に忍び寄る死の影とともに生きていた。
沖縄中央部に上陸した米軍、圧倒的な兵力と物量で難なく(少しでも時間を稼ぐため、沖縄守備隊は水際作戦を選ばず長期持久戦を選んでいた)上陸を果たし北に南にそれぞれ攻め入る。迎え打つ帝国陸軍第32軍の兵力は11万と、この数字は上陸したアメリカ軍50万以上に対して1/5以下だ。各地に地下要塞を築いて徹底抗戦に出るが、圧倒的な兵力差は如何ともし難く、日本は沖縄に住む14歳以上の学生も動員した総力戦を挑む。結果は火を見るより明らかだが、皇国日本の勝利を信じて止まない学生たち。それでも徐々に追い詰められ、自決の道を選ぶ者も多くいた。
当時、既に政府内でも沖縄戦以前から早めの降伏を望む声もあったが、少しでも有利な状況に持ち込もうと続けてしまった事で、より多くの犠牲者に繋がる。そこからは沖縄、広島、長崎の無辜の市民の死につながった事は誰もが知る歴史の事実だ。後世歴史家はこの沖縄の徹底抗戦があったからこそ、本土上陸作戦をアメリカに躊躇させる事が出来たという評価もある。然し乍ら、そこに生きた人々からすれば、ただ生きたい、死にたくない、家族と平和に暮らしたいとの気持ちが1番だったに違いない。ただ生きるという当たり前の事すら困難な状況で次々と散っていった命。
沖縄には「命どぅ宝」という言葉がある。生きてさえいれば良い事があるじゃないか、という意味の言葉の重さが深く胸に刻まれる。
戦後生き延びる事が出来たひめゆりたちも、なぜ私だけ生き残ってしまったのかという悲しみを背負いながら生きる。だからこそ二度と戦争を起こさないように後世への語り部の道を選ぶ者も多い。また教員になる者も多くいたようだ。二度と同じ目に合わせたくない、その強い気持ちが平和教育へと繋がっていく。沖縄をそうした目的で訪れる学生も多いが、ガマや慰霊地を訪れてもその様な事実も知らず友と笑い合って通り過ぎていくこと、実はそれこそが平和の証なのかも知れない。知る事は重要だ。語り継ぐべきだし教訓としなければならない。しかしそこから最も遠い場所で、戦争をドラマや映画の中の非現実なものと捉えられる事は、それだけの犠牲の上に成り立った今という時代に残る一つの光とも取れる。
世界を見ればまだまだ戦争が各地で起こっている。世界中のすべての人が戦争の惨禍を理解し、決して起こしてはならないと強く望まなけれはならない。もう二度とひめゆりの様な悲しい想いをさせない為に。涙が止まらない。 -
終戦直後、遺族の保護者らに責められ、生き残ってしまったこと、また自分たちが信じていた教育が全く間違っていて、自分の全てを否定されたように感じ、学徒隊であったことを後ろめたく感じているというところが最も印象的でした。
日米の戦争ではなく沖縄県と日本軍の戦いだった沖縄戦。住民を巻き込んだ唯一の地上戦として、様々な定量的データを用いながら当時の教育、社会体制を解説されています。
戦争体験は生々しく、大きなインパクトを与えますが、感情だけではなく客観的に経緯、構造として沖縄戦を理解し、同じような悲劇を防ぐという作者の意図が強く感じられます。 -
一瞬一瞬の行動が、生死を分けた沖縄戦。
何の罪もなく、ただただ生きたいと思いながら亡くなっていった県民。
学生と呼ばれる世代の女性が〝ひめゆり〟として、負傷した兵士の治療をしていた。ノミが体中から溢れる兵士を。臭い思いをしながら、ひたすら。
ガマの外に一歩でも出れば、砲丸に当たる危険がある中、生き延びる為に食糧を取りに行き、水を汲んでいた。
昨日まで笑いあっていた友人も、自分の目の前で、息を引き取る。
ひめゆりを経験した本人が書いた本だからこそ、読者にも伝わるほど生々しく書かれており、戦争の恐ろしさ、命の尊さ、平和であることの大切さを改めて感じた。
平和であることは当たり前でなくてはならないし、平和であることは、幸せであることを、もっと強く捉える必要があると分かった。
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▼「ひめゆりの沖縄戦」伊波園子。1992年、岩波ジュニア新書。2020年2月読了。
▼ひめゆりの塔で有名な、「ひめゆり部隊」として沖縄戦を経験した著者が、岩波ジュニア文庫用に書き下ろした本のようです。
著者は1927年沖縄県の北部の名護市生まれ。親御さんも教員だったようで、那覇の沖縄県立師範学校女子部に入学。1945年に卒業しますが、そのままなし崩し的にひめゆり部隊として従軍させられます。つまり、17~18歳だったということです。沖縄戦を生還したのちは、故郷の北部のほうで教員として過ごされたようです。
▼本の内容は、著者の伊波さんの経験談です。当然ながら凄い内容です。傷口に湧くウジであり、ミルクに入れて配られる青酸カリであり、集団自決を誘う教師たちです。
この本としての救いは、全てが伊波さんの経験と思い出で語られていて、一般論としての悲惨という主張ではないことです。そして、そういう体験の中でも、フツーに「いいひと」もいたり、「うれしかったこと」もあった、というゾクっとするリアリティですね。実人生はテーマ主義ではないですから。
▼読んでいていちばん震えたのは、実は捕虜になって死の危険から脱してからの部分でした。母、という言葉を言おうとして、なぜかその言葉を口から出せずに嗚咽するところなんて、もうひれ伏すしかないです。泣きそうになりました。
▼そして、考えたら当たり前のことですが。戦後、慰霊祭などに出席すると、死んでしまった遺族のかたがたからの視線が、かけられる言葉が、辛くてたまらないというくだり。「どうしてうちの子は惨めに死んで、そばにいたあなたは生き残ったんですか」。これもガツンとやられました。多くの方たちが、「戦後40年、50年」などのきっかけで語り出した、それまでは公に自分の経験を語らなかった、語りたくなかった理由です。戦争体験、阪神や東日本の震災も同様でしょう。
▼本の感想で言うと、直截な違和感は、アンコである戦地経験について、先生たち、部隊の仲間たちについて、何一つ悪口がない。これはナルホドと思いました。
▼戦後数年で上梓された石野径一郎さんの本「ひめゆりの塔」は、聞き取り取材をベースにした架空の小説。また、作者は戦前から一貫して東京の出版業界で暮らしている人です。沖縄の人間関係からある意味、自由。小説の中では、少女たちにたいして軍国主義、権威主義で圧力をかける教諭や軍医のことが、実に憎悪を込めて描かれています。
ところが、ノンフィクション、体験記である伊波園子さんのこの本には、そういうことは一切書かれていません。伊波園子さんは小説「ひめゆりの塔」の作者とは違い、一貫して沖縄で教員として家族と暮らし、数人の仲間とともに名前を晒して戦争体験を語り継ぐ活動をされています。
▼自分も沖縄で暮らしたことがあり、又聞きに聞いていますが、こういう「戦地体験を公にする、本などにする」という際に、地元ならではのしがらみが多数あります。「ひとりだけ目立って」「自分の良いように過去の事実をねつ造している」「自分だけ何も悪くないように証言している」「ヒステリックスに日本を貶めている」などなどです。
伊波園子さんに会ったわけでも無いので分かりませんが、特定の個人への恨みや憎しみが、たとえ内臓が煮えるほどにあったとしても。歳月のあとで、そのような個人が特定される言及は、色んな意味でしたくなかったのかも知れません。相手が死んでしまっているならなおさらですし、死んでいなかったとすれば、それはそれで一層、面倒なことになります。
この本で、ひとことの悪口も無い一方で、「嫌な人が誰もいなかった、みんな優しかった」と言及している訳でもありません。
▼本として考えたときに、かなり素敵な、読みやすい本でした。恐らくは編集者の仕事でしょうが、資料、地図、時系列の整理、歴史全体の基本的な俯瞰図など、本書を読む上で読みやすくしてくれる「コラム」が随所に挟まってくれています。こういうテーマの新書本ですから、やはり読みやすく手に取りやすい方が良いと思いますし、それを十分に達成しています。分量も読みやすい。岩波ジュニア新書さんは、実は大人が読んでも素敵な本ばかりです。大人のかたがた、是非。
▼名嘉睦念さんが、挿絵を担当されています。とっても素敵です。棟方志功の再来と言っても過言では無い、版画家さんです。
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▼沖縄戦とひめゆり部隊の整理確認。
*4月1日、米軍沖縄に上陸。無血上陸です。
ここからしばらく、大雑把に言うと一応は「軍隊同士」の戦いがありますが、
*5月28日、首里に司令部があった日本軍は、南部への司令部撤退を決定。
この5/28を前後に、また大雑把に言うと「具体的な勝つための戦略もなく、南部へ南部へと、艦砲射撃と空襲の中をみんなで逃げていく生活」になります。ひめゆり部隊だけでなく、軍隊も、多くの住民も。ほぼ、命令系統も作戦もありません。
*6月18日、かなり南端まで逃げのびた「ひめゆり部隊」に「解散命令」が出ます。「もうあとは勝手にして」ということです。
だからといって、「捕虜になるな」という圧力はありますし、何より「解散するから、この壕から出て行け。軍人が使うから」みたいな感じです。
*6月22日、沖縄駐留日本軍の牛島司令官が自決。いちおうこの前後を目安に、「沖縄における組織的な戦闘が終わった」とされています。ただ、当時の現場ではネットニュースの速報がある訳では無いですから、一斉にそれが拡散するわけもなく、掃討戦は続いたようです。
*9月7日、嘉手納で正式な降伏調印が行われます。つまり、ここまで「降伏調印をする人」がいなかったんでしょうね。宮古島や奄美大島から将校が来て、沖縄が無条件降伏を受け入れる旨を調印したそうです。
▼沖縄戦、沖縄の人たち、あと沖縄で戦った日本軍の兵隊や、連合軍の兵隊など、多くの人が大変な思いをした訳です。「大変な思い」というのも実にむなしい言葉ですが。もちろん、沖縄だけぢゃなくて世界各地で過去でも現在でも戦争状態の中で色んな悲劇がある訳ですが、沖縄戦はやはり、日本で生まれ暮らす僕たちからすると、唯一近代戦の地上戦が国内で行われて、「軍人兵隊以上に民間人が多く死んだ、それもほとんど戦闘というよりも逃げ惑う中で死んだ」という無視できない事例です。
何が言いたいかと言うと、「ひめゆり部隊」だけが戦争の悲惨な犠牲者かのように歌い上げるつもりは無いのですが、という前提です。でも一つの例としてひめゆり部隊の事を知り、そうやって部分からしか全体は血の通った想像ができないので、意味のあることです。
そして数字ですが、「ひめゆり部隊」は沖縄県立第一高等女学校と沖縄県立師範学校女子部の生徒たちで作られた看護要員部隊で、321人が参加したと言われています。そして219人が亡くなりました。
▼本書でも言及されていますが、沖縄における日本軍の牛島司令官は、何度も米軍から降伏勧告を受けています。「もうこれ以上、住民巻き込んで死者を増やしても意味ないじゃん」ということです。ところが全て拒否しました。そうするようにと上役に言われていたからですね。
▼6月17日に、牛島さんが何度目からの降伏勧告を受けたときに、「ひめゆり部隊」の死亡者は11名だったそうです。ほとんどの死亡者、残りの208人は、それからの数日間に亡くなりました。
▼自分が、自分の身内や知人が、6月17日以降に亡くなったとしたら、色んな意味で冷静でいられるか。自信無いですね。人間ですから。ただ全ては程度問題でもあります。1945年2月に、近衛文麿さんは昭和天皇さんに早期降伏終戦を進言したそうです。昭和天皇さんの返事は、「もうちょっと戦果を上げないと、むつかしいのでは」とのことで、NOでした。コレはどういうことかというと、「ちょっとくらい勝ってからそういう交渉しないと、無条件降伏になっちゃうぢゃん」ということですね。昭和天皇さんをはじめ多くの人が、「天皇制の維持、天皇を戦犯として処分しない」などの条件が受け入れられないと降伏に踏み切れなかったそうです。沖縄戦は、天皇が逃げる予定だった松本の防空壕の工期の時間を稼ぐためだったという説もあるそうです。だれかに悪者を押し付けて憎悪に満足してもむなしいだけですし、歴史にタラレバを言っても仕方が無いのですが、2月に無条件降伏していれば、東京大空襲もヒロシマもナガサキも沖縄戦も無かった(実は僕自身ナガサキ被爆三世になりますが、祖父母の人生は大きく違ったでしょう)。そして、ひめゆりの219人も死ななかった。
仕方が無いことですが、果たして自分や自分の身内がその219人に入っていた場合に、「仕方ないよね」で済ますことができるンだろうか。
いやンなっちゃいますね。
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詳細な地図や写真と共に、時系列にそって日記のようにひめゆりの方が語っている。
事々刻々とひどくなる日々がよくわかる。生き残ってしまったという自責の念もあり、なかなか実際のところがいままで明かされていなかったこともわかった。 -
教室に置いておきたくて、あえてジュニア新書。
沖縄戦に高い関心を示す生徒たちが多かったから、だれか手にとってくれるかなと。
これなら中学生でもすいすい読める。
しかし、読めば読むほど、あの戦争の不条理さが募る一方だった。
著者は、ひめゆり学徒隊として地獄を生き抜き、その後、40年間の教員生活を送った。
当事者が語る戦争の実像に、戦慄した。
目新しい情報はなかったけれど、具体的な会話のやりとりや実名が記されているので、より苦しく、悲しくなった。
どうして、志をもつ前途ある少女たちが、可憐な言葉を紡ぐ少女たちが、死ななければならなかったのか。
悲しい歴史を繰り返さないよう、学んでいかなければならないと強く思う。 -
当時を思い出し、書いたり語ったたりするのも相当に辛いことなのだ
ろうと思う。それでも、ひめゆり学徒隊の生き残りである女性たちは
自らの体験を書き、語り、後の世代に戦争の惨禍、そして平和の大切
さを伝えようとした。
心を引き裂かれ、血の出るような思いで書かれたり、語られたりした
ことを、私を含め戦争を知らない世代は受け止め、考えなくてはいけ
ない。
ひめゆり学徒隊。沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の
教師と生徒を主体に作られた女子学徒隊の悲劇については映画や
小説でも取り上げられた。
著者は沖縄県女子師範学校の卒業間際に看護要員として動員された。
そして、体験した沖縄戦。アメリカ軍の攻撃を避けながら壕を転々と
し、その合間に傷病兵の手当てをし、極度の疲労と食糧不足に悩まされ、
多くの恩師や級友を失いながらも「鉄の暴風」を生き延びた。
小学校高学年以上向けの作品なので、筆は抑えられているのだろうが
それでも沖縄戦の悲惨さは伝わって来る。
逃げ延びる為に足手まといになる傷病兵を置き去りにしたり、海に入って
自決することを求められたり、子供が泣くからと壕から追い出された女性
がいたり。
本土からの支援物資は届かず、負傷者の手当ての為の包帯や薬品も満足に
ない。
文字通り、沖縄が捨て石だった。そんな激戦を生き延びても、戦後には
生き残った後ろめたさを抱え込まなければならないなんてなぁ。
生き延びて語る勇気を出してくれたことで、沖縄戦で何があったかを
知ることが出来るのだと思う。
国は国民を守らない。改めて感じた。 -
職員旅行で沖縄に行くことになり、せっかくなので事前に知識を詰め込んじゃおうと読み始める。
沖縄戦を知らない日本人、多いんじゃないかな?
森山良子さんの「さとうきび畑」という歌の歌詞が、沖縄戦争のことを歌っているのを初めて知る。
戦争は悲劇しか生まない。
戦争のない世界がくることを願う。 -
ゲリラ戦に持ち込んで住民を巻き添えにし、時間かせぎをする方針を立てた事は、全く情けない。本当に何のための軍隊だったのか。こういうことを最近の日本国民は忘れかけている気がしてならない。