漢語からみえる世界と世間――日本語と中国語はどこでずれるか (岩波現代文庫)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006002947

作品紹介・あらすじ

漢語は中国から伝わって日本語となった漢字音からなる語だが、意味や用法が中国語とずれたものが少なくない。日本語では体感に基づく具体的で個人的な「世間語」と抽象的で人類や国家などに関わる「世界語」を明確に区別するが、中国語ではそれが曖昧である。日本語と中国語の意味、用法のずれを探究し、日中両国の文化の違いに説き及ぶ。

感想・レビュー・書評

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  • 言語は一対一対応にはなかなかならず、世界の切り取り方とか見方とかの違いが必ず出てくる。それを日本語と日本語の中の漢語と中国語とで比較して明らかにしている。ちょっと著者の思い込みなのではないかなってところやサンプルが少ないところ、あとがきで中国人から否定されたことを明らかにしているところもあるが、面白い。
    遣隋使や遣唐使が正確に中国語の意味を理解し日本に持って帰ってきた、そしてその古来の意味が漢語に保存されているという面がある。
    日本人には色と金に対して非常に特殊な感性を持っているのではという指摘。また、未来と将来、祖先と先祖のような世界語と世間語の違いが日本語にはある。

  • ・中川正之「漢語からみえる世界と世間-日本語と中国語はどこでずれるか」(岩波現代文庫)は書名通りの内容である。「世界」と「世間」の二語がキーワードである。中国語は世界を志向し、日本語は世間を志向する。ごく簡単に言つてしまへばかういふことである。では「世界」とは何か、「世間」とは何か、これを様々な例を挙げて考へてゐるのが本書である。中国語を知らない私にはよく分からない点もあるが、それでもそれなりに納得できさうな内容である。
    ・李白の有名な「静夜思」が出てくる。「〈牀前〉をどう読むのか。」(158頁)どう解釈するのか、である。井伏鱒二の「ネマノウチカラ」ではなく、 「ベッドの中の前方部分」か「ベッドの前方」かといふのである。筆者は確信を持てないながらも、「例によって泥酔した李白が、顔にあたる月の光で目覚め る、気がつくと、横に人(女性?)が寝ている、そこで故郷にゐる妻に頭を垂れて『ごめんなさい』といっている、と読めないこともない。」(159頁)と書 く。これは中国人の友人が筆者の問に、「〈牀前〉は誰か他の人がベッドを占領している感じがすると答えた。」(同前)ことによる訳である。正直なところ、 これは衝撃的な訳である。私はこんなことは考へたこともない。この場の李白は故郷を遠く離れて一人でゐるものと思つてゐた。大方の解釈がさうであつたはずである。ところが、〈牀前〉には誰か他人の存在が感じられるといふのである。それが女性であるといふ確証などはどこにもないのだが、それでもここに他の人物が存在するといふ可能性が示されるだけでも大変なことである。これが「唐の時代の詩を現代中国語で解釈すること」(同前)であり、それが「危険」なことであるかもしれないのはまちがひない。さういふ危険を承知のうへでのこの解釈は、〈牀前〉の本来の意味が日本語の影響で変化したのかもしれないことを示すかもしれない。あるいは、〈牀前〉もまた書き言葉と話し言葉では意味が違ふことを示すかもしれない。どちらに転んでも、あるいはどちらにも転ばずとも、この一事で「静夜思」の解釈の再検討が必要になりさうな気がする。もしも李白が一人ならば、ここは〈牀上〉とあるべきところらしい。かういふことも踏まへたうへで、これまでの様々の事どもから「世界」と「世間」もまた出てくる。この2つの用語に関して、筆者はドイツ文学者阿部謹也を援用する。世界は world、しかし日本人たる「我々が世界worldに住んでいるという実感をもっていない」(191頁)のに対し、「世間は、阿部謹也氏が指摘するように、我々の住む空間である。(中略)我々が熟知した領域である。」(同前)これ以前に触れられてゐた、音読みと訓読み(レイシュとひやざけ)、反転語(祖先と先祖等々)も皆ここにつながる。レイシュはおしやれでもひやざけは場末の酒場で飲むもの、先祖はご先祖様であつて人類の祖先ではない。階段は我々の熟知する空間ゐあり、段階を踏んでいきはしてもそこは我々の熟知しないところである。そのやうな事どもから、最終的に日本語と中国語の世界観と、両者のずれの問題に行き着く。ここまでに出てくる多くの例は実におもしろい。李白のやうなものはむし ろ例外、小さなものの積み重ねである。これがおもしろい。これを知るためだけにでも読む価値がある。本書によれば、中国語のできる人もかういふのには気づいてゐないらしい。例へば妖精(妖怪変化・妖婦、fairy)のやうに明らかに差異のある語(49頁)には目が向いても、あまりに日常的な語には目が向かないのであらう。その意味でも、本書の対象は世間なのである。

  • 日本に生まれ、日本に育ちながらも、日々、日本語はなんてむつかしいのだろう・・・と思っている。
    こうやって列挙されると、そうだ、そうだといいながら、そして、その理由付けや意味に、納得しながら読み進めた。
    結局は・・・・、「イエ的」なのかなぁ。
    結局は・・・「日本人は世間を中心にする発想」しかないのかなぁ。
    世界人に育てるのは難しい。

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著者プロフィール

立命館大学文学部教授・神戸大学名誉教授

「2013年 『中国百科 中国百科検定公式テキスト』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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