近代技術の日本的展開 蘭癖大名から豊田喜一郎まで (朝日選書)

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  • 朝日新聞出版
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レビュー : 3
  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022599964

作品紹介・あらすじ

東から西へ、世界でものと人の移動に伴い繰り返された文明の移転は、18世紀、イギリスで産業革命に結実し、機械で商品を生産販売する時代を生んだ。同じころ鎖国下の日本では、西からの珍品貴宝を求める蘭癖大名らが技能者を巻き込み、反射望遠鏡、時計、大砲などが製品化されるほどに各地でネットワークを築いていた。開国後、殖産興業のスローガンの下、日本の技術者や在来職人は、外来技術と在来技術をうまく組み合わせて、製糸業、紡績業、軽工業、機械工業、製鉄、鉄道などの分野で独自の発展を生む。この間日本は、日清、日露、第一次世界大戦を経験し、勝つたびに領土拡張するも、最後の第二次世界大戦に大敗しすべてを失う。しかし10年後には高度経済成長が始まる。それはなぜか?技術の角度から考える。

感想・レビュー・書評

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  • 明治から太平洋戦争前後にかけて、日本の技術がどのように導入されて、その後に独り立ちできるようになったかについて、通して書かれている本で、私の読書人生では初めての本でした。

    先日図書館の返却本コーナーで見つけたものでした。また、本の前半では、コロンブスのアメリカ大陸発見の頃にまで遡って、簡単に歴史をおさらいしてくれています。

    平成になる前後辺りからの日本の技術はいかに優れているかは、近年の本を読むことである程度理解できると思いますが、この本は、日本の技術が進歩する前の姿が描かれていて興味深く読むことができました。

    特に印象に残ったのは、1588年の有名な海戦は、スペインはポルトガルと連合して、イギリス・オランダと闘ったこと、勝因には大量生産された砲弾の製造技術にあったことでした。

    また、明治新政府の当初、日本の生糸の輸出が非常に大きかったのが、その後、瞬く間に減少してしまった背景(欧州の蚕が流行病だった)がわかったのが良かったです。

    以下は気になったポイントです。

    ・コロンブスの新大陸発見の直後、その領有権をめぐってスペインとポルトガル間でトラブルが起きている、1494年にトルデシリヤス協定が結ばれ、アフリカベルデ岬の南北線で、東をポルトガル、西をスペインとした(p15)

    ・ポルトガルは1509年にエジプト大艦隊との海戦に勝利した後に、ゴア・マラッカ・ホルムズを占領して、イスラムからインド洋の覇権を奪った、世紀末まで香辛料貿易の主導権を得た(p17)

    ・胡椒・香辛料貿易から追い出されたイギリス東インド会社は、香辛料と交換する手段としてきたインド木綿を本国に持ち帰って、イギリス国内に需要を創出する戦略に転換した(p18)

    ・オランダの十進小数を提唱した1585年あたりを、近代的数概念の完成した時期と思われる(p34)

    ・1588年に、スペイン・ポルトガル連合無敵艦隊が、イギリス艦隊に完敗して、大西洋貿易やイギリスとオランダが主導する時代になる(p51)

    ・特許権に近い仕組みが1469年にできたのは、既存ギルドの枠外で営業させる(5年間)という妥協の産物(p56)

    ・独占の原則的禁止と独占の被害者救済をうたった専売条例が1624年に成立、この条約の例外規定として、新技術の発明者には14年以下に限って、専売特許を与えるというもの(p58)

    ・ワロン地方の高炉製鉄技術により大量生産された鋳鉄銃と砲弾が、スペインポルトガルの無敵艦隊を粉砕した(p59)

    ・開港当初は、欧州で蚕の流行病による生糸飢饉の状況で、日本生糸の価格が安かったこともあり飛ぶように売れた、流行病が収まると生糸輸出が減少(p76)

    ・1894年の黄海海戦では、新造艦を中心とする14隻の日本艦隊が、戦艦を看板とする清国北洋艦隊18隻に決戦を挑み、5隻を沈める勝利(日本はゼロ)を収めた(p128)

    ・1905年の日本海海戦では、ロシアバルチック艦隊38隻を迎え撃って、19隻撃沈、5隻を捕獲した、これは日清戦争の賠償金を使って、戦艦6巡洋艦6隻を調達できたから(p145)

    ・物理学と化学を合わせた総合研究所として、1917年に理化学研究所が出発(p163)

    ・ドイツは、火薬原料であるチリ硝石(硝酸ナトリウム)を連合国包囲網で輸入を断たれたが、空中窒素固定法により、チリ硝石なしで火薬を作る方法を開発した(p166)

    ・敗戦後の経済復興時期に、どのような港でも入港できた機帆船が果たした役割は極めて大きかった(p182)

    ・日本を有力市場と見たフォードは1925年、横浜に工場を建ててノックダウン生産開始、GMも1927年に大阪に工場を建ててシボレーのノックダウン生産開始、これは軍の圧力により日本から撤収する1939年まで日本の自動車市場はGMとフォードに席巻された(p197)

    ・1936年に自動車製造事業法ができたときに、豊田自動織機製作所は日産自動車と並んで、製造許可会社となる。さらにもう1社として、東京自動車工業があった。1940年には、日立製作所・池貝製作所・三菱重工・川崎重工が加わって、ヂーゼル自動車工業(戦後のいすず自動車の前身)となった(p203,237)

    2013年4月28日作成

  • ただの歴史書的で全くの期待はずれ。当時の技術開発を支えた思想や哲学を絡めて論じられているとよかった

  • 学術書に近い。資料としてなら、だけど。読物目線でいくなら、もうちとエンターテイメント性あったほうが良いように思う。

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