角川短歌ライブラリー 短歌のドア 現代短歌入門

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  • Amazon.co.jp ・本 (233ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784046526205

作品紹介・あらすじ

短歌で開くもう一つの世界。自分も知らない自分に出会ってみませんか?テーマや方法別に読み解く作品鑑賞。わかりそうでわからなかった現代短歌がすーっと心に届きます。

感想・レビュー・書評

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  • p.40 短歌にとって比喩表現とは何か
    p.41 直喩の欠点
    p.41 直喩歌における「感情の透徹」の有無
    p.45 孤独な詩歌からポピュラリティーと共感の時代へ
    p.61 固有名詞を使うこととは
    p.73 〈死〉不安の根源:不安を詠う
    p.104 言葉と生の結びつき
    p.184 短歌の大衆化と『サラダ記念日』の果たした役割

    未知の感覚へ(pp.11-13)
     鍵穴に鍵を充たしめやはらかく夜の指うごく 誰もみてゐぬ  小島ゆかり『希望』
     抱いていた子どもを置けば足が生え落葉の道を駆けてゆくなり  吉川宏志『夜光』
     光る棒につかまらむとし数本の手が背後よりのびてくるなり  澤村斉美『夏鴉』

    意識の水底へ(pp.14-17)
     読みゆきて会話が君の声となる本をとざしつ臥す胸の上  相良宏『相良宏歌集』
     茫然と我をながれし音楽に現実の楽は少し遅れぬ  同
     真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ  笹井宏之『ひとさらい』*1
    *1 真水が、完璧が逃げ場のない何かに取り囲まれている意識を強く喚起します。そこは暗闇ではなく、むしろ明るい場所です。透明な病室を思わせます。自分をそこから救おうとする手が伸びてくる。「しっかりと」に込められた深い安堵と、すぐに来る絶望。(p.17)

    枕詞(pp.94-97)
     黄砂ふる朝に『魔王』を届け来るそらみつヤマト宅急便は  大辻隆弘『抱擁韻』
     久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも  正岡子規『竹乃里歌』

    食べ物の歌(pp.114-115)
     吾の割く烏賊はさびしき洞(ほら)をもちし魚なれば深き真昼間に食む  富小路禎子『白暁』
     シリアルを匙もて掬ふ朝の卓 傍受おそるるごとく黙して  栗木京子『綺羅』

    家族の歌(pp.116-117)
     じいわりと冷えくる朝(あした)夫のシャツはおれば重し他人の生は  江戸雪『百合オイル』

    戦争の歌(pp.120-121)
     おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サ  岩井謙一『光弾』

    遊びの歌(pp.132-133)
     ゆうぐれの電柱太し ベレー帽の少年探偵裏に隠して 笹 公人『念力家族』

    夢の歌(pp.145-146)
     赤きショールくらき車窓やこの雪はそなたがゆめかわらはがゆめか  紀野 恵『さやと戦げる玉の緒の』

    色彩の歌(pp.149-150)
     ゆふぐれの色が出ないとねえさんは緑の絵の具を二本も絞る  光森裕樹『鈴を産むひばり』

    俵万智と時代(pp.176-185)
     家族にはアルバムがあるということのだからなんなのと言えない重み  俵万智『チョコレート革命』


    『サラダ記念日』のカバーには、高橋源一郎の「コピーが詩人たちを青ざめさせたのはつい最近のことだった。今度は短歌がコピーライターたちにショックを与える番だ。読んでびっくりしろ、これが僕に出来る唯一の助言である」という言葉が記されています。(p.21)

     ここでは、短歌にとって比喩表現とは何か。そういう観点からもう少し考えてみたいと思います。結論的に言えば、短歌において比喩表現は過剰なものである。まずはこの認識が必要です。なぜなら「短歌的喩」で見てきましたように、短歌形式において提示されるイメージは自ずと比喩の性格を帯びてくるからです。つまり、短歌形式自体が比喩を醸成する機能をもっているのです。そこに、比喩かどうか境界線上にある微妙なものが現出する。それが今のところ、最も高度な短歌表現の有りようだと考えます。(p.40)

     直喩は過剰である。明快である。そして、修辞としては簡便なのです。それだけに安直な方向に流れる恐れがある。失敗作の多くは、直喩だけが目立つ歌です。あ、気の利いた比喩だ。それで終わりです。赤彦の述べた「比喩の歌には熱が乏しくて理智の働く傾向」と言えましょう。もっと深い何かを求めるとき、直喩の面白さに留まることはできません。(p.41)

     実は赤彦は先の書で「比喩の歌でも、単純に緊張して感情の透徹してゐるものは命をもっておゐます。只、さういふものが比喩歌には少いだけです」と述べています。(p.42)
    →あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年 永田和宏『メビウスの地平』(1975)
    「こういうみずみずしい青春性を現代短歌は喪ってしまった。つまり、少年である素朴な自分を見つめることはなくなってしまった。情報は擬似経験を増やした。若者は妙に老成したそれでいて余りに未熟な青春を生きている。」――加藤治郎 - Twitter https://twitter.com/jiro57/status/379567455875506176

    (前略)詩歌は孤独なもので、他者には決して伝わらないという思いから成り立っていた。歌集は、この世界に真の読者がいるかもしれないという稀なる夢の産物でした。大塚(寅彦:引用者注)の後の世代は、ポピュラリティーを標榜し、詩歌の世界は共感の場となっていったのです。携帯電話で短歌が交わされる時代が来るとは、誰も思っていなかったことなのです。(p.45)

     固有名詞は世界からの引用なのです。何処から何を引いてくるか。世界と時代への鋭敏なアンテナが必要です。そして、それは孤高なものです。分かる人にしか分からないのです。引用とはそういうものなのです。固有名詞を共有することは世界と時代を共にすることです。きっと共有できる読者が居るという確信がなければ固有名詞を使った作歌は困難なのです。(p.61)

     そして、おそらく究極にあるのは〈死〉への不安でしょう。全ての不安の路はそこに通じます。病も老いもその先に〈死〉の顔が見えるから不安なのです。そして〈死〉の不安を完璧に断ち切るものが〈死〉であることに、人生最大のパラドックスがあるように思われます。(p.73)

     我々は、自らの生を歌おうとします。生の根拠を掴みたいと思います。私を歌う。日々の出来事を歌う。しかし、それは自らの生に届いているでしょうか。ともすれば生の形骸を記しているだけではないか。そうではなく、もっと言葉と生が直に結びつくこと。言葉のダイナミックスが、生の躍動そのものである。そんな歌が読みたいのです。(p.104)

    (前略)二十世紀初めの和歌革新のベクトルが、詩歌の国民への解放を企図したことは明らかである。この百年、新聞歌壇やカルチャー歌人、世紀末にはネット歌人をも巻き込み、短歌の担い手は膨張していったのである。二十世紀は、短歌大衆化の世紀であった。
    『サラダ記念日』は、その象徴的存在だといえる。それは、短歌が大衆化しながらも、歌集はさっぱり流通しないという大きなギャップを一気に埋めた。現代短歌の存在は、それ以前は、ほとんど一般には認知されていなかったのである。『サラダ記念日』は、一九八〇年代、様々なジャンルの境界が動き活性化する情況の中で、取り残されていた短歌を華々しく表舞台に立たせた。もっとポピュラーになりたいという同時代の歌人の願望を実現したのである。個別には、口語定型の定着などいくつかの役割を果たしたのであるが、短歌を現代の読者へ解放した点が『サラダ記念日』の最大の意義であったといえよう。(pp.184-185)

  •  恥ずかしながら短歌の本を手に取るのはこれが「岡井隆全歌集第4巻」に次ぐ2冊目ということで、最近短歌が好きになって下手な歌を見よう見まねで詠んでいるだけの人間にとっては、宮沢賢治の史上初の「シュルレアリスム短歌」の先駆的紹介をはじめいろいろ勉強になりました。

     著者によれば短歌界の大事件とは、アララギ解散、前衛短歌の隆盛、桑原クワバラの「第2芸術論」、俵万智の「サラダ記念日」、斎藤茂吉の「赤光」がベスト5で、特に最近では俵選手などのライトヴァース調が業界に大きな衝撃を与えたらしい。

     ベストセラーとなった彼女の86年の第一歌集「サラダ記念日」なら当時私も読んだが、「「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ一本で言ってしまっていいの」なんて友川カズキや友部正人、井上陽水、中島みゆきや甲本ヒロトなどのミュージシャンの歌詞に比べたらなんぼのもんや。当たり前どころかビートルズやボブ・ディランより内容も形式も古臭いじゃあないかと軽蔑して一顧だにしなかったが、当時はFuckの林あまり、Parcoの仙波龍英と共に一世を風靡したらしいんです。

     しゃあけんど、短詩形文学の詩の言葉も音楽の歌詞も一視同仁に取り扱うこのような視線の最先端には、高踏的な桂冠詩人の超難解な1行よりも、死刑囚の稚拙な5・7・5や、あまねく人口に膾炙されている相田みつおの「今日の言葉」や玉置宏の天才的な話芸、障碍者の輝かしい「言葉のサラダ」、肉体言語としてのラップ・ミュージックなどに、より高いゲイジュツ価値を見出そうとする(都築響一選手が「夜露死苦現代詩」で追及している)言語世界がある、と私には感じられたのである。

     されど「サラダ記念日」当時、短歌どころか文藝なんて全く無関心でインディーズのライヴに夢中になっていた私には、こういう近現代短歌史の基本知識がまったく欠落しているので、さまざまなドアから短歌へのアプローチを試みているこの本からは、実に貴重な示唆と刺激を受け取ることが出来ました。


    歌を詠むしあわせそれは辛うじて七七にまでたどり着きしとき 蝶人

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著者プロフィール

1959(昭和34)年、愛知県名古屋市生まれ。1982年、早稲田大学教育学部を卒業。1983年、未来短歌会に入会。岡井隆に師事する。1986年「スモール・トーク」にて第29回短歌研究新人賞を受賞。1988年『サニー・サイド・アップ』にて第32回現代歌人協会賞を受賞。1999年『昏睡のパラダイス』にて第4回寺山修司短歌賞を受賞。2003年、未来短歌会選者に就任。2005年、毎日歌壇選者に就任。2013年『しんきろう』にて第3回中日短歌大賞を受賞。2021年『岡井隆と現代短歌』を刊行。

「2022年 『海辺のローラーコースター』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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