アート・ジャパネスク 17

制作 : 長広 敏雄 
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (168ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061277472

感想・レビュー・書評

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  • ウツ-ワに籠められる心と手。

    縄文弥生時代の須恵器や土師器から青海波紋が失せた時、奈良時代の作り手たちは大陸の模倣を始めた。その技法の大元は西アジアで発祥した彩文技法に始まり、西にはアーリア遊牧民が伝え、東方には北インドや中国を経由したシルクロードに乗って日本に伝えられた。途中イスラムに触れたことにより彩釉陶器が出現し、これが西に流れると9世紀西カリフ王国(イベリア半島)やビザンツ帝国で名工を生み出すにいたり西欧の陶芸の礎にな理、東に来たものは唐三彩として中国に花開き、それが日本に奈良三彩となった。

    紀元前16cにメソポタミアとエジプトに起こったガラス工芸も同時にトンボ玉や壁となって弥生時代に日本に伝わっていた。紀元前後にローマで「吹きガラス技法」が登場しガラス生産に革命が起きた。ローマングラスは東方諸国の憧れとなり、古墳時代に新沢千塚からガラス杯と皿のようなものが出土しているらしい。また安閑天皇陵からはペルシアングラスなど多彩なガラスの器が見られ、飛鳥時代にはペルシアングラスが中心になり、奈良時代にはサラセン帝国産のガラス器が流入。これだけ見ても日本の文化は外国から様々な影響を受けて、それをうまく消化してきた歴史であったことがよくわかる。

    平安をすぎ鎌倉時代に入ると六古窯(瀬戸、常滑、信楽、越前、丹羽、備前)が日本の陶器の中核を担いだす。

    中世になり、オスマントルコが地中海やベンガル湾の制海権を握って、中国の磁器の取引を一手に引き受けるようになると、そこを仲介にフィレンツェの商人が買いつけてヨーロッパにチャイナが広がることになる。またスペインポルトガルの商戦により日本中国の時期は運び込まれ、柿右衛門のデザインがヨーロッパに旋風を巻き起こした。1701年にザクセンのアウグスト2世の元、錬金術師JFベドガーがマイセン窯を起こし、製法がウィーンに伝播してから18世紀ヨーロッパ全土にシノワズリーや柿右衛門写しが大ブームになった。

    ざっと本書の器の歴史をまとめるとこんなところだろうか。
    だが本書で大切なのは歴史の確認ではない。用の美は用即美であることを様々に示してくれルことだろう。
    もともとは聖器として使われた器が食器となり、花瓶となり、様々な用途を持つようになった。
    『いろは字類抄』が漆の始まりを、ヤマトタケルが大和国宇陀の阿貴山中に狩猟を試みた時に、道すがらにふと枝を折ると黒い汁が滴れ、それが皇子の手を黒く染め上げたので、舎人の床石宿禰に命じて器に塗らせたのが始まりと言う物語があるくらいに、器や漆器と神話の関係は深い。ただ、現実的には縄文前期に漆が塗られているものが見つかってるとかなんとか。兎にも角にも、器は我々の生活の一部であり続けた。器はただ何かを入れるものではなく、食事と食器が合わさって、美味しい料理になるし、花も生けられて初めてもてなしの必要を満たす。二つで一つのコトをなすのが器なのである。

    用の美を突き詰めると、必ず使い手への配慮が作り手に求められる。そこには、見た目や観の美での平等ではない、人そのものへの心があったようである。山本七平産と秋岡芳夫さんの対談がとかく面白い。
    身体尺をベースに色々作っていたので、夫婦茶碗のサイズがは異なるが番として日本人は揃っていると思う。ところが外国人からすると不良品扱いをクラ言うことがあったらしい笑 ではこのサイズの違いはどこからきているのかと言うと、手の平の大きさだそうでざっくりしたイメージでいえば両手の人差し指と親指で輪っかを作りそれが茶碗の円周くらいになるといいらしい。日本人は身体に合わないものは全部嫌いだったと、山本七平も言っている。実際、着物も同じだと思う。作り手がある程度まで作ったら、そのあとは使い手の加減に任せるリダンダンシーがあった。責任の所在がどうだと言う現代社会は、人の持つ遊びの部分が排除されすぎているように感じられる対談が収められていて、個人的には本書のハイライトはここだった。

    そもそも歴史的に見て、テクストを基準に考えると中世と近代の間にある本は「太平記」となるらしい。ヨーロッパでは「神曲」。ところが、どうも本書を読んでいると、この身体尺は度量衡が整備されようがしばらく残っていて、言われてみると十握剣筆頭に、指何本空けるとか、拳何個分といった表現は武術の世界で今も受け継がれた表現である。相手を倒す武術に関しては、相手の体格に合わせた間を取らなければ行けないので、何メートルとか言われても体格が違ったらその都度調整がいるから正直使えない。それより身体を基準に考える方が、ケースバイケースではあるが慣れてくるとなんとなくこの辺とわかるようになる。当て推量に近いかもしれないが、これは新陰流で一応免許皆伝をもらい人に教える側に立つ身としては毎週やってるからすごく秋岡さんの解説が肌にあった。

    武術の型を教えるときも組み合わせを変えるように、器に限らず着物も含めて様々に組み合わせを楽しむ日本の文化。その原点に身体があるのだと気付かされた一冊だった。

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