悲しき南回帰線(下) (講談社学術文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061587120

作品紹介・あらすじ

上巻のカドゥヴェオ族に続き、下巻ではボロロ族、ナムビクワラ族などの社会構造を解明しながら、著者は民族学者としての自己から自己への対話を進めていく。そこには、日没が終りで始まりである熱帯を象徴する円環が構成の中にも思考の中にも張りめぐらされ、著者自身が象徴の輪の中に組み入れられていく課程が告白されている。親族の理論、神話の論理、原始的分類の理論の三つの主要課題を持つレヴィ=ストロースの必読の代表作。

感想・レビュー・書評

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  • 【はじめに】
    『悲しき熱帯』という名前でも知られるこの本は、クロード・レヴィ=ストロースが自身が行ったブラジル先住民族の調査を中心に振り返り、民族学者となるまでの経緯やそこから組み上げた哲学的思索を語ったものである。1955年に出版された本であるが、時代を超えて読み継がれている本である。『親族の基本構造』でその名声を確立したレヴィ=ストロースがフランス構造主義の流れの中で大きな影響を持つようになり、この後『野生の思考』や『構造人類学』などの名著を世に問うていくのだが、その前に自身のポジションを改めて確認するような本であったのかもしれない。

    先住民保護を担当する団体FUNAIのページによると、先住民族保護区は全国に505ヶ所あり、先住民族の57.7%がそこに暮らしているという。また、保護区の総面積は国土面積の12.5%にあたる107㎢で、うち98.33%がアマゾンに集中している。そこに住む先住民族は、305の民族、274の言語という民族的・文化的な広がりを持つ多様性に満ちているという。レヴィ=ストロースが訪ね、この本で紹介されている民族はその一部だ。
    レヴィ=ストロースが調査を行った当時、入植者が持ち込んだ病原菌などによってその人口は減少し続けている状況で、この本が書かれた二年後の1957年には先住民の人口はわずか7万人まで減少したという記録が残っている。その後保護プログラムの効果もあって、先住民族全体の人口は回復に転じ、現在ではおよそ90万人まで増えた。ただし、小さな民族や言語の消滅はいまも進行しているという。

    【概要】
    第一部から第四部までは、レヴィ=ストロースが民族学者としてブラジルのアマゾンでの先住民調査のフィールドワークに行くまでの経緯や、インドなどアジアでの体験を旅行記のような体裁で書き記している。上巻のほとんどを占めるこの部分はときに冗長で、また背景がわからないと読み解けないところも多く、何度も読むのをやめたいという誘惑に駆られながら、ところどころ読み飛ばしなら読み進めた。

    その後続く、第五部から第八部では、レヴィ=ストロースが調査を行ったそれぞれ四つの部族について紹介される。この部分がひとつの山場でもある。それでは、各部族が紹介された第五部から第八部と最後の第九部について見ていきたい。

    ■ 第五部 カドゥヴォエ族(カデュヴェオ族)
    アマゾンのパラグアイ国境に住んでいるカドゥヴォエ族は、一度文明を体験したものの、衣服と斧と包丁と縫い針以外は捨て去ってしまった。彼らは、変化することを拒んだのだ。それでも完全に真正な未開人ではなかったことにレヴィ=ストロースは残念だったと漏らす。

    またカドゥヴォエ族は顔に装飾した文様で有名である。その文様にはエロティックな意味もあり、カドゥヴォエ族の女性が周辺の部族からも魅力的であるという評判につながっているという。壺に描かれた文様は時を経て退化したが、顔や体の文様はそうではないことは、それが彼らの中で単なる装飾以上の大きな意味を持っていることを示しているのだろう。また、男が彫刻し、女が絵を描く(体に描くことも含めて) といったように役割が明確に分かれており、カドゥヴォエ族の芸術は性的二元論に従っていると評される。
    彼らは文様を体に刻まない西洋人に対して人間以下の遅れた存在とみなす。彼らにとっては「人間である証拠には体に絵を描いているものなのだ。自然のままでいるものは畜生と変わらないのである」。

    彼らの部族の中には、貴族、戦士、農奴といった三つの階層があり、婚姻関係などを制限している。一夫一婦制ではあるが、戦士について行って情婦になったりといったことが普通であり、また一方がそれに対して嫉妬することは望ましくなく、面汚しであるとさえ認識されている。生殖に対してある種の嫌悪感を抱いていることから、堕胎や嬰児殺しは普通に行われる。したがって子供は少なく、養子縁組や外から奪ってくることで補充している。

    ■ 第六部 ボロロ族
    ブラジルのアマゾン奥地のマトグロッソ州の北部に存在するボロロ族は、母系半族という特徴的な親族構造を有する部族である。レヴィ=ストロースがこの本を書いた当時は200人だとされたが、今はそこからは増えて約900人とされている。ボロロ族もカドゥヴォエ族と同じく顔に複雑な文様を描くことでも知られている。

    集落は母系で承継される円形に配置された住居があり、その住居は左右の半族に分割されている。円形の住居の中心にあたる村落の真ん中には男性が集う「男たちの家」がある。祭祀や楽器は男たちだけのものであり、その代わりに住居は女たちのものという分権制となっている。
    この部族における、所属する部落(半族)と交叉いとこ婚によって婚姻相手が決まる諸規則は、『親族の基本構造』で分析されたもののうち交叉いとこ婚による限定交換に当たる構造を有している。また葬儀などは相手の半族が執り行う。二つの半族に加えて、8つの氏族も存在する。また、カドゥヴォエ族と同様に身分階層が三階層に分けられており、婚姻関係を制限している。部落には酋長が存在し、貢ぎ物などは酋長に集中するが、これは部族の中で分配しなくてはならない。

    レヴィ=ストロースは、この部族が従う規則について次のように語る。
    「部落計画と住民の配分の中にその宇宙論を刻みつけた。彼らは当面した矛盾を幾度も修正し、対立は他の対立に対して否定するためにだけ取上げ、グループを縦横に分割して、それを結合させて対立させ、社会生活と精神生活の面から、対称と非対称とが均衡を保つような紋章を作り上げた」

    彼らにとってはわれわれと同じように論理的で、かつ永続的であるべく練られたシステムであるのだ。その意味で、われわれの社会と同じ資格を持つ社会であるとされる。
    「二つの折半部落が互いによって、互いのために生き、そして生きつごうと力めているこの踊りの話を、私とおなじように説明されるだろう。交互性を常に熱烈に心がけ、女たちを、財産を、奉仕を交換し、互いの子供たちを結婚させ、死者を互いに埋葬し合い、そして生命は永劫で、世界に救いはあり、社会は正しいことを互いに保証し合っているのだ」

    しかし、人口の減少などによって、過去の制度はいまや維持が難しく、その文化はなくなりつつあることもまた事実なのだという。

    ■ 第七部 ナムビクワラ族 (ナンビクワラ)
    ナムビクワラ族は、先に紹介されたカドゥヴォエ族やボロロ族と比べると、物質的には非常に貧しい部族とされる。彼らの全財産は、それぞれが女性の負いかごに入って持ち運びできるほどしかない。衣服もほとんど何も身に着けておらず、ボロロ族の王宮を見たあとでは、ナンビクワラ族の無一物状態に驚いたとされている。また、ボロロ族と比較して体格が小さいなど身体的にも差異があるらしい。

    婚姻関係においては、交叉いとこ婚が規則化されており、並行いとこ婚は許されない。婚姻相手は幼いときからある程度決まっていることが多く、交叉いとこの関係にあるもの同士は、生まれたときから互いに相手を呼ぶのに結婚した後に使うのと同じ呼称を使う。また、彼らに特徴的なものとして、固有名詞の使用を禁じており、自分の名前を人に教えることは禁忌とされた。

    彼らの子供に対する態度も現在のわれわれの倫理観からするとひどく外れたもので、病気で嘔吐する子供を平気で放置する。これは最近読んだブラジル先住民のピダハン族のことを描いた『ピダハン』でも同様であったように思う。また堕胎を気軽に行うため、子供の数は少ない。一方でセックスは日常のメインの関心ごと。しかし、裸族である彼らが勃起しているのを見たことがなかったという。美しいと若いを表す言葉は同一で、醜いと年老いたを表す言葉もまた同一。彼らの世界はある意味で均質で平等だ。

    酋長はいるが、世襲ではなく、酋長が後継者を選ぶ。酋長と呪術師だけが妻を持つことができるが、誰もがなりたいわけではなく、鷹揚さを必要とされ苦役でもあり、競争の対象になっていない。トゥピ・カワヒプ族と違い、酋長が呪術師(シャーマン)を兼ねることはない。酋長の正妻と副妻は異なる役割を持ち、助手のような役割を果たす。権力に対する報酬であると同時に、道具でもあると分析する。

    酋長が女性を占有することから生じる男女の不均衡を解決するために男性同士の性行為が一般に行われているのも特徴的である。また、同性での性行為も交叉いとこに当たる男性同士でのみ行われる。この先住民社会では、婚姻や性交渉の相手が親戚関係でのみ決定される。性行為が社会構造に組み入れられているのが明確にわかる。生殖は自然だが、婚姻は文化なのだ。

    レヴィ=ストロースは、この部で「ルソー」と「文字」について語っている。その論は彼の哲学の核を構成するもののひとつでもあるように思われる。

    レヴィ=ストロースは、ルソーの『人間不平等起源論』や『社会契約論』における原初社会に対する考察を高く評価する。酋長の権力が賛意から始まること。賛意は権力の起源であると同時に制限でもあることを物質的には非常に貧しい生活を行うナムビクワラ族の中に実際に見た。レヴィ=ストロースは、ルソーが見つけようとしていたものを断末魔の社会に発見した、と信じた。「今では存在しない、おそらく存在したことのない、これからも存在することは決してないだろうような、しかしわれわれの現在の状態をよく判断するにはそれについて正しい観念を持つ必要がある」ような状態である。レヴィ=ストロースは、ナムビクワラ族の中に「人間だけを見出した」のである。

    また、「文字の教訓」という章をひとつ割いたように、文字の出現によって個人間の権力関係に不可逆的な変化が起きたことの重要性を述べている。
    「文字の出現に必ず伴った唯一の現象は、諸都市と諸帝国とができたことである。つまり、相当数の個人を一つの政治体系の中に総体化し、身分と階級とに等級化したことだ。...それは人間の啓蒙より前に人間経営に援助を与えたように見える。...文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることである、と認める必要がある」

    「≪誰一人法律を知らないとは見做されない≫と権力が言うことができるためには、すべての人が読むことができる必要があるのだから」との認識は、フーコーの権力論とも通じるところがあると言える。

    ■ 第八部 トゥピ・カワヒブ族 (トゥピ=カワイブ)
    トゥピ・カワヒブ族は、一生にいくつもの名前を持つ。こちらは、ナムビクワラ族と違って普通に教えてくれるが、生まれたときに個人に付けられる固有名というものが、実は一通りのやり方だけに限定されるものではないということが実践的に理解できる。

    また、トゥピ・カワヒブ族ではナムビクワラ族と同様に酋長が女性を独占する。ただし、その制度による不都合については、仲間や外来者に妻を貸し出すことで成立しているという。ナムビクワラ族が同性間の性行為で解消していたのとは違う形で男女の不均衡の問題を解消している。また、兄弟による妻の継承という形でも賄われている。兄弟で嫉妬を感じないからだという。

    なお、トゥピ・カワヒブ族の酋長の承継はナムビクワラ族とは異なり男系の世襲である。これが酋長が楽しくやっている理由らしい。

    ■ 第九部 回帰
    このパートに、レヴィ=ストロースが民族学者として感じている矛盾や世に問いたい主張が凝縮されている。特に「一杯のラム」の章は必読。ここでは、民族学者が誠実にその義務と期待に向き合うときに至る矛盾について語られている。民族学者としての彼は、彼が向き合う社会に同化することができない。同時に、自分が属する社会においてまで中立になろうとする。

    「自分の慣習の中では自ら好んで破壊的で、伝統的な慣用に対しては反抗的な民族学者は、考察の対象となる社会が自分の属する社会と異質であることがわかると、その保守主義にまで敬意を抱くものらしい」

    未開社会の価値を、われわれの社会の価値と同列に置くことが、民族学者にとっては必須の姿勢として要請される。

    「われわれのものとは非常に異なった社会や文化形態に対する強い偏愛をわれわれの啓示として表明して、自分たちのものを顧みずに他の社会のものを過大評価する根本的な矛盾撞着の証拠を示しもしよう。つまり、われわれに探求の精神を鼓吹するその社会の価値の上に立て述べる以外に、どうしてそれらの異なった社会を尊敬に値するものと言明できようか。われわれの努力をもってしても、習い性となった規範は断じて遁れられるものではないのであるから、その努力をわれわれの社会を含めて、他の異なった社会の見透しに向けるとき、他のすべての社会よりわれわれの社会が優れていると述べることは、一層恥ずべき方法ではないだろうか」

    しかし、われわれは未開社会について評価するとき、その価値に最大限の敬意を表するにしても、同時にその社会を評価する権利を手に入れることになっているのだ。そのときにわれわれの社会に「特権的な地位を暗に認める」ことになる。そのことについて意識的である必要がある。

    「人間社会に開かれている可能性の度合いに応じて、それぞれの社会がある選択をしたのであり、これらの選択は互いに比較できないことを認める必要があろう。それらの選択はどれが優れているとも言えないものである」

    われわれにとっては、われわれの所属している「社会だけが改善・変化をなしうる社会であるのだ。
    そして、最後にイスラム教について批判的な論を展開するのは、レヴィ=ストロースが決して文化ニヒリズムにも陥ることがないことを示すためであったかもしれない。

    【所感】
    上巻の途中までは、文章が読みにくいことに加えて、どこに行こうとしているのかが掴めないために

    ■ 未開社会の風習
    本書で紹介された部族で行われている行為には、われわれの通常の倫理に反していると思われるものも多い。酋長が女性を独占する(トゥピ・カワヒブ族)、仲間や外来者に妻を貸し出す(トゥピ・カワヒブ族)、兄弟で妻を共有する(トゥピ・カワヒブ族)、掟で決まった相手としか結婚できない(ボロロ族)、二歳のときに結婚相手を決められる、気軽にセックスして気軽に堕胎する(ナムビクワラ族)、嘔吐する子供を放置する(ナムビクワラ族)、嬰児を殺す(ナムビクワラ族)、他の村から子供をさらってくる(ガデュヴェオ族)、酋長が女性を独占するので男色で性欲を満たす、しかもその関係する相手も交叉いとこと決められている(トゥピ・カワヒブ族)。その他、ここで紹介された部族以外の事例だが、人肉食を行う部族についても触れられる。

    これらの行為は、日本を含む現代西洋型社会においては子供の虐待や性差別、部落差別といった、倫理的には相当に道を外れ、おおむね強く非難されるであろう行為に当たると言えるだろう。われわれが内においてはそうするであるように、彼らに対して性差別はよくないことだ、恋愛や婚姻は両性の自由によるべきだ、女性を交換可能な富のように扱うべきではない、嬰児にも人権があり生命は大事にするべきだ、と説くべきなのだろうか。かつては宣教師がもっと先鋭的かつ独善的なやり方でそのようにやったのだ。
    それとも逆に現代西洋社会で説かれている両性の平等や、生命の尊重という倫理は、われわれの社会に閉じたものであって、決して人類共通の価値として絶対的に正しいものではなく、あるレベルで見ると彼らが持つ倫理観との間で優劣はないと認識するべきなのだろうか。西洋社会においても、ほんの数十年前までは人種はあからさまに差別されていて、性差によって扱いが違うことは当然のように見なされ、ある条件のもとでは生命の価値は紙切れのように薄かったのだ。

    ボロロ族が西洋の人間に対して、体に絵を描かない人間以下の畜生だと考えているという話があった。彼らからすると、あるべき規則も知らないで、自由に好き勝手に相手を選んでセックスをして結婚するなんてとんでもない、まるで猿のやっていることと同じで人間以下だ、と考えるのかもしれない。彼らにとって、嬰児殺しをその親以外からとやかく言われて非難されることは不当な越権行為と感じるであろうし、女性が祭祀に参加することは、摂理に悖る愚かな行いとして批判することだろう。それをわれわれのものと同様に論理的なものであるとして、正当なこととして受け入れることが要請されると民族学者としてのレヴィ=ストロースは考えている。そのことについて、真摯に考えて、その矛盾に耐えないといけないというのだ。

    レヴィ=ストロースは、この後に書き上げた名著『野生の思考』においても次のように語る。
    「自分がこれほど完全に、また力づよく生きているものが実際には神話であって、つぎの世紀の人間たちにはそのことがはっきりわかるだろうし、彼自身にも、たぶん数年後にはそのことがわかるものであり、また千年後にはその神話は影も形もなくなっているだろうということを十分に心得ておかなければならない」(『野生の思考』)

    最後の部にイスラム教についての考察が唐突に現れることの意味を知らなくてはならない。イスラム教徒やタリバンに対して同じことをしようとしている、と批判されることは正当だろうか。

    ■ 文化相対主義とレヴィ=ストロースの態度
    民族学者は、内と外とに対する先の二つの態度の選択を迫られることになる。それは民族学者だけに課された要請ではないと理解することが必要だろうか。第九部でレヴィ=ストロースが、次のように述べた言葉は、その矛盾について自分たちも同じように受け取らなければならない言葉のように感じる。
    「内にいては批判的で、外に出れば順応主義の民族学者のこの矛盾した態度には、さらにもう一つの、遁げ道のない矛盾が隠されている。彼が自分の属する社会にの制度改革に寄与しようとすれば、彼が矛を向ける条件に似た条件があるところではどこでも、その非を鳴らす必要があり、客観的見地と公正さを失うことになる。...自分の社会の中だけで行動していれば、その他の社会の理解はできない。しかし、あらゆる社会が理解したければ、なに一つ変革することはあきらめねばならない」

    こういった考え方は、あえてラベリングをすると、やや批判的なニュアンスも伴ったいわゆる「文化相対主義」とも呼ぶことができるかもしれない。文化相対主義的態度は、容易になんでもありの文化的ニヒリズムにつながる。レヴィ=ストロースは、彼の態度が「文化的ニヒリズム」と端的にくくられないようにするがために、第一部からこれだけの言葉を重ねる必要があったのかもしれない。

    第九部の終わりにイスラム教についての考察を置いたのも、この矛盾に抵触することなく、少なくともわれわれの社会の問題としてイスラム教の狭量さの問題をとらえること、引いてはその他の倫理的諸問題について言及すること、は可能だと言おうとしているのだろうか。ここで書かれていたイスラム教の評価はほとんど理解ができなかったが、それについて書かざるをえなかった理由は理解できるかもしれない。なぜなら、それは正に現在の世界が抱える今日的課題のひとつでもあるのだから。

    ■ 「熱い」社会と「冷たい」社会
    では、われわれの所属する現代資本主義社会とブラジルの部族社会とは全く同等と言い切っていいのだろうか。そこで思い出したのが、同じく『野生の思考』で語られた「熱い」社会と「冷たい」社会だ。われわれの社会が元の社会に戻るのは不可能で、社会的に不可逆な歴史的推移を遂げてしまったという意味では同等ではないと言える。

    「冷たい社会は、自らを創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする」(『野生の思考』)

    循環的にまた永続的にその社会をそのまま維持することを目的とする冷たい社会と、知識と富を蓄積して自らを成長していこうとするわれわれの社会の違い、それは違いであって優劣ではないはずだというのがレヴィ=ストロースの主張であるように思われる。ガデュヴェオ族は、一度文明に触れながら衣服と斧と包丁と縫い針以外は捨て去ってしまった。ナムビクワラ族はほとんど財産というものを持たず、その全財産は女性が負うことができる籠に収まるだけしかない。先日読んだ『ピダハン』でピダハン族は決してカヌーの作り方を覚えようとしなかった。それは、彼らがわれわれに対して劣後しているからではなく、それが彼らの永続的な世界観・宇宙観にそぐわなかっただけのことであると言うべきだというのがおそらくはレヴィ=ストロースがわれわれにそのように考えてほしいと望むことではないか。そして、有限な世界に生きる有限な生命をもつ人間として、本当にわれわれの社会の価値観が通例思われるほどに優位で正当なものと考えてよいのかという問いを突きつけているようにも思えるのだ。

    ■ 最後に
    「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」

    『悲しき熱帯』の最後の章に書かれている有名な言葉だ。そんなことは当たり前で、世界の始まりに人間がいたとか、世界の終わりに人間がいるなどとは、どこかの宗教を字義的に信じている人でなければ思っている人はいない。「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という忘れがちな認識を改めて確認した後に、有限な生命体であるわれわれや、その集合体であるわれわれの社会はどういう選択が可能なのだろうか。それが本書の問いかけている主題なのかもしれない。


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    『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(ダニエル・エヴェレット)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4622076535
    『ヤノマミ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4140814098
    『ノモレ』(国分拓)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103519614
    『文化人類学の思考法』(松村圭一郎 中川理 石井美保 他)のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/479071733X

  • ともかくも、やっと読み終えた。上巻から引き続き、アマゾンの原住民を探しての旅が続く。
    交叉いとこの子供達が、そういうものとして周囲に扱われる。成程、そりゃ、そうだなと納得。どうも教科書的に理解していたので、結婚段階で対象となるのだと思っていた。
    抱き合って寝る夫婦。広場でも、あまり周囲を気にせず抱き合ったりする。なんかいいなあ、と思った。
    酋長っていうと、奥の方から出てきて、知恵を授けてくれるような人なんてイメージだったが、食べるものを誰も探しに行かないので、集めてきたり、鷹揚に皆に分け与えなくてはいけないらしい。「わたしはそこに人間だけを見出したのだ」という文章は判りづらい。責任感があり、集団を自分よりも優先させる献身的な人が酋長ということか。

    他の部族では、憑依し鳥を主役にした芝居を二晩に渡って演じる酋長もいる。
    へ~、と思うことも多いし、様々なエピソードに色々な感想も頭に浮かぶ。
    こうした原住民たちが、やがて伝染病などで衰退ししたことも知らされて胸が塞がれる。
    最後の第9部「回帰。」
    何故か、インドの話が出てきたり、イスラムや仏教についての考察が続く。イスラムについての文章は、正直さっぱり理解できなかった。

    結局、構造主義の理解にはまったく繋がらなかった。正直、疲れた。
    頭にきて、中公クラシックスの「悲しき熱帯」川田順造訳を買ってしまった。
    そのうち、読むことにしよう。あくまで、そのうちに。

  • 上巻よりこちらのほうが気に入っています。
    第9部『38.ラムの小杯』の章は必読

  • 人間は、何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断してるわけではない。人がどう考えるかは、その人が生きる社会のシステムによって無意識に形づくられている。そう、文化人類学の、いや構造主義の師と仰がれたレヴィ=ストロースの理論の集大成。カドゥヴェオ族、ホロロ族など熱帯の4つの部族調査を通じて、それぞれの社会構造、親族や神話の論理を解明しつつ、レヴィストロースは自己との対話を続ける。正直、熱帯の部族の文化に興味があるわけではないのでそこは飽きてくるのだが、そこからレヴィストロースが導き出す独り言のような理屈の展開が興味深い。

  • 学生時代に買った本を数十年かかって読み終えた。仏文学者の訳らしく明快というよりは表現に重きをおいた読みにくい文体だが、そのせいとばかりは言えない。対照的に意味は取りやすい中公クラシックスの川田訳でも今まで第一部を読み終えるのがやっとだったのだから。
    読み終えて思うに、これは若者の読む本ではないのだろう。作者も 47の時の作だし、年相応なのか不相応なのか後ろ向きかつ郷愁たっぷりのその語り口からして、若い時分に受け付けられるものではない。自分が近い年齢になって初めてわかる(ような)人生の滋味にあふれた本なんだと思う。
    中公クラシックス版の方が意味は取りやすいが、こちらのいかにも仏文学翻訳調の文体もそれはそれでいいものです。あと、この学術文庫版の解説はとてもよくまとまっていて読む人の参考になると思いました。

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