茶道の哲学 (講談社学術文庫)

著者 :
制作 : 藤吉 慈海 
  • 講談社
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本棚登録 : 119
感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061588134

作品紹介・あらすじ

茶道は今日、日本のみならず世界的に強い関心を持たれ茶道人口も急速に増加しているが、茶道の本旨を理解している人は少ない。本書は、みずから茶道を行じ茶道の玄旨たる禅を究めた著者が茶道文化の本質について秀徹した思索を深め、かつ茶道の将来についての創造的な意見を熱意をもって語った、茶道史上、特筆すべき名著である。

感想・レビュー・書評

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  • 茶道の本質とは何か。現代(といっても30年前)の茶道界の迷走に警笛を鳴らし、利休、紹鴎、珠光たちが見出した真の茶道、侘茶の在り方に立ち戻り、その道を説く。

    著者が繰り返し説くのは、
    ①茶道とは茶を縁にして禅の本質を表すこと
    ②禅の本質は、積極的な「無」つまり「主体的無」である。茶道には様々な法則があるが、その目的は「無の境地にいたるため」。
    ③真の茶人になるには法則に従うだけではいけない。法則を脱し、法則から自由になる、法則を創る者に転化する必要がある。
    ということ。上記のメッセージを、適宜仏教用語を引用しながら繰り返し述べている。

    --メモ--
    ① 「侘茶の世界は、道徳も芸術も学問もさらには宗教すらも超えてかえってこれを創造する生きた原理としての根源玄旨の、茶を縁としての自己表現の世界として、これら諸文化を総合的に内に含んで成立する人間の生活体系の典型の世界である」
    「和敬清寂」
    「珠光翁曰く、茶会の旨趣は、能く和らぎ、能く敬ひ、能く浄く、能く寂(しず)かなり」
    自分が、だけでは足りない。人物人境すべてが和敬清寂でなければならない。特に寂は、仏教でいう涅槃、寂静として表現されるものであり、積極的な意味での「無」すなわち「主体的無」のことを示す。
    紹鴎「侘と云ふことは、〜、ちかくは、正直に慎み深くおごらぬさまを侘と云ふ」
    「足るを知る」
    何もなくとも、無いからこそ、一切のことが自在無碍にできる

    以下も茶道が目指す言葉の例だが、全てにおいてつまるところは「無」である。
    不均整 あるいは数寄 数寄の奇は奇数の奇
    簡素 枯淡
    枯高 ここう あるいはさび、気高さ
    自然 じねん 無心、無念、意志が見えぬ 作為の見えるものは醜い
    幽玄 無限を含んだ余裕があり余情がある 陰影を含んだ暗さ 思慮分別を絶するような深さ
    脱俗 浄らかな世界
    静寂 落ち着き

    ② 「禅における真の人間とは、存在非存在、価値反価値というものを否定したところに自覚されてくるものであり、このような人間において、禅の世界が成立してくる。」
    「仏とは覚者である。覚者とは、どこまでも無相なる自覚である。」
    「「能所がない」能とは主観、所とは対象。意識されるものもされないものも区別されないことである」
    ③ 「法則に従うことによって茶の本質に達しようとするのは、多角形の辺を無限に多くすることによって円に到達しようとするようなもの」「いかに辺を多くしても円にはならないのであって、円の達成にはどうしても多角形の角を増すということから飛躍することがなければならない。」
    自然法爾(じねんほうに)仏教言葉。玄旨を理解し、その心が無心にはたらくと、自然にちゃんと法にかなっているということ。

    -----

    この本のおかげで、自分がなぜやったこともない茶道に惹かれるのか、ということに対する漠然とした仮説が大本では正しかったことがわかった。やはり、茶道の在り方、禅の思想は自分の理想とする考え方に近い。
    一方で後段、特に著者が新十戒を提案する章はやや俗っぽく感じた。茶道の本質から言えば、「端的にして自在」「自然にして法爾」であることがよいことであり、、とするとちょっとくどいのではないだろうか。
    それよりも、哲学と題するからにはもう少し仏教、禅の考え方を深掘りして欲しかった。「無」を得た先には何があるのか。また、真に「無」の境地、悟りを得た人は、境を持たないために感情が生まれることも無いと思われるが、それは幸せなのだろうか。欲があるからこそ喜びもあるのだと思ってしまうが… そう思ってしまう私のような人間には、嬉しい時はただ喜び、辛いときだけ無の境地に至ったふりをして現実逃避するくらいがちょうどいいのかもしれない。

  • 恐るべし久松禅

  • 茶道をやるのは禅をやることなのだ、ということがわかって良かった。
    茶道を習いはじめて4年になり、自分なりに茶道を続ける意義を考え始めていたので、頭の整理に役立った。
    ややこしいお道具の扱いを覚えることや、大寄せの茶会に懸命に取り組むことに疑問がでてきていた中で。

  • 茶道と禅の関係を繰り返し述べている。茶道の精神性を理解するには良い本で、個人的に学ぶところがたくさんありました。ただ、同じような著述が繰り返し出てきて少しわずらわしさを感じました。

    感じ入る和歌がたくさん紹介されていて、その点も評価できます。

    思わじと 思うも物を 思うなり 思わじとだに 思わじや君

    見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮れ

    茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて 飲むばかりなる ものと知るべし

  • 哲学と銘打って話す話ではないような気がするので微妙なのだが、禅宗と近代哲学と京都学派にお茶がくっつくとどうなるか、という構成にちょっと興味が湧いた。
    キーワード:不均整asymmetry・簡素simplicity・枯高wizened austerity・自然naturalness・幽玄subtle profoundness・脱俗unconditioned・静寂calmness
    ・・・・英語を付けてるところが京都学派っぽい。幽玄の英訳に定訳がある事もはじめて知った。ってなわけで、まあ暇なときにパラパラ読むには良いかもしれない。

  • [17][08.08.05]<県

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著者プロフィール

禅に通暁した今世紀の哲学者として最先鋭と目される久松真一は、1889年に岐阜県に生まれました。京都帝国大学哲学科で西田幾多郎に師事、その薦めで京都妙心寺の池上湘山老師に参じた後、宗教哲学的観点から東西の宗教・哲学・文化を比較つつ、透徹した「無相の自己」の立場から独自の宗教・哲学を確立しました。また、茶人、書家としても有名です。元京都大学教授。ハーヴァード大学客員教授。京大心茶会、FAS協会を創立。著書に『東洋的無』(1939)、『絶対危機と復活』(1969)、『人類の誓い』(提綱、1951~53)、『禅と美術』(1958)、『わびの茶道』(1987)などがある。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「1981年 『無神論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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