ペテルブルグ(下) (講談社文芸文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061976962

作品紹介・あらすじ

政府高官の息子ニコライ・アポローノヴィチはテロリストから託されたいわしの缶詰の時限爆弾にスイッチを入れてしまう──爆弾がいつ爆発するかという緊迫感につつまれて、物語はスリリングに展開する。20世紀ロシア象徴主義の鬼才ベールイが、豊かな想像力を駆使して、混迷する現実の完全な抽出とその変革をめざした言語革命的実験小説。

感想・レビュー・書評

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  • 今日から(やっと)下巻。
    下巻、第6章冒頭は寝覚めの描写という点ではプルーストだが(ベールイの方が先)、寝覚める場所も寝覚め方もプルーストの主人公とはまるで違う。でも、おんなじ寝覚めなのだよね。ちなみに、こんな感じ。
     夢と現が移り変る状態は、ちょうど五階の窓から跳び出したような感じだった。感覚が彼の世界の中に裂け目をつけた。彼はこの裂け目の中へと飛びこむのだった。(p8)
    どうです?ロシア文学って感じでしょう(笑)。フランスとロシアの違いなのだろうか?
     おお、空中をぐるぐるまわれ、おお、渦巻け、おまえたち、最後の木の葉たちよ!(p27)
    この文というより、もっと前のところにもあってそっちを引用してみたかったのだが・・・とにかく、このぐるぐる回る、円環の技法というのがこの小説を支配していて、例えば、先程挙げた第6章冒頭の節などは、キニーネや木いちごのジャムが入った紅茶(ロシア文学だなあ)が最後に出てくることで円環になっている。円環でうまく終わってめでたしめでたし、ではなく病気で円環の幻想が湧いて止めることができない、といった感じ。そいえば、この小説の舞台の時期は10月。
    そして、「ネフスキー大通り」の節。
     ネフスキー大通りには、人間などいなかった。這い回り大声でわめく百足がそこにいたのだ。湿った空間が多種多様の言語を多種多様の声で満たした。すべての言葉はもつれ合って、ふたたび一つの文へと組み合わされるのだった。(p32)
    この「ネフスキー大通り」の節は、そのまま全てが一つの幻想的な詩とも言える。さっきのp27の文もそうだが、ベールイが友人ブローク夫妻との三角関係などで悩み自殺なども考えながらペテルブルグを彷徨い歩きながら書き連ねた詩が、次々と重なってこの小説ができあがっている、のではないか?この「一つの文へと組み合わされる」というのは、小説冒頭でも出てきたが、小説の主な筋である、ニコライに父親暗殺の命令の手紙と、それから元いわしの缶詰であった爆弾が届けられるというのも、偶然に偶然が重なったというかいろんな人の異なった行為がランダムに連なり合ってニコライのところにたどり着いた、という感じである。
    (2010 03/22)

     「姿を現わした場所は・・・君の喉頭器官だ・・・」
     ドゥートキンは茫然としてあたりを見まわしたが、その間も咽喉(のど)が妙なことをしゃべっていた・・・
     「ここではパスポートがいる・・・もっとも君の査証はわれわれのところで出ているー君のパスポートは記入済みだ。あとは君自身が突飛な行動で裏書きをすればいい。その行動はやって来る、ひとりでにやって来る。」(p99〜100)
    影の使者?なのかなんなのかよくわからないシシナルフネ。それとの葛藤?が描かれる。この場面の少し前、(ドゥートキンの部屋の中に入って本を渡そうとしていた)スチェパンとドゥートキンとシシナルフネの三人?のやりとりはどこが誰で、どこが現実なのかスピード感に飲まれてうやむやに進む。「パスポート」を書いたのがシシナルフネだとすると、これは彼ドゥートキンが意識していない彼自身ということになるのであろうか?とすれば、彼は無意識のラスコリーニコフ?ラスコリーニコフという一青年ができてしまったのがドストエフスキー時代の問題であったとすれば、ベールイ時代の問題は、知らないうちにラスコリーニコフに合成されてしまった人間・・・ということになろうか?こうした人間は今の自爆テロを見てもわかる通り、まだまだたくさんいる。そしてそれは自爆テロという問題だけでなく、もっとありふれたすぐそこにある問題であり人間であるような気がするのだが。
    (2010 03/23)

    湧いてくる群れ
     何か、自ら思考するところの思考の群れがあったのだ。思考していたのは彼ではなく・・・思考自ら思考していたのであった(p125)
    「ペテルブルグ」も今日から第7章。前の章のドゥートキンの時もそうだっが、ここでのニコライの場合も、ベールイは「我考える故に我在り」という自己という公式を打ち壊したいかのようだ。そして、この世紀はまさにその問い直しの世紀となる。小説の場合、登場人物が思い悩むときに、これ以前の小説ではなんかもう一人の自分というような対話者を自己の中に自己が創り、それに向かって「こう思うーいいや、こうではないか」とかやっていることが多いような気がする。だけど、本当に追いつめられたときの人間の中ってやっぱり「群れ」だよなあ、中からドドドとやってきて、自分では制御できなくなる・・・
    (2010 03/25)

     このように、自らの肉体を不必要で厄介なものとしてほうり出してしまうと、魂は、暴風のような精神の動きにとらえられてしまうことがある。魂は精神的空間を走るのだ。そう、肉体というものは、精神の大海を、精神の大陸へと航行するか弱き小舟なのである。(p224)
    ここはリッパンチェンコがドゥートキンに殺害される場面の直前。ということは、この文章は「死」の描写(の予感)ということになる。ずいぶん、「安らかな死」というイメージとはかけ離れた描写である。それと、この描写を含むここの何ページかの殺害のイメージには、いわしの缶詰爆弾のイメージが付け加わっている。動員できるものは、なんでも総動員してイメージを増殖させるのだ、というのがベールイの基本戦略らしい。
    描写の中を見ると、「小舟」というのはどっちかというと「精神」のイメージなんだけど。自分にとっては。それが(肉体の内部に精神があるという図式が)裏返しになっている。まるで肉体が飛び散った原因は精神にあり、と言わんばかり。それもドゥートキンという他人の精神に。きっと缶詰にも多数の「精神」がわんさと入っているのだろう。ねじを巻くと・・・
    (2010 03/26)

    あ、そうそう、「ペテルブルグ」読了
    さて、さて、いわしの缶詰爆弾は結局爆発しないまま終わるのだなあ、と思ってたら、あらま、爆発しちゃいました(ネタばれ?)。最後父アポローン・アポローヴィッチはどこの扉を開けていったのでしょうか?
    (2010 03/27)

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