知ること、黙すること、遣り過ごすこと 存在と愛の哲学

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062152273

作品紹介・あらすじ

徹頭徹尾、世界は現象する。現象すなわち表現は、ある過剰さを端緒とし、「受け取る」ことはすでに反復である。では、世界が存在としておのれを表現にまでもたらす「そのこと」は、いったいどこへ向けて、なのか。現象学に立脚する精緻強靱の哲学者が、「私たちのこの現実」という事態を考え抜く。

感想・レビュー・書評

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  • 以下引用

    現象を受け取るものが現象するものに対してみずからを開くことが、すでにある種の能動的な行為であるのと同じ意味で、現象するものがおのれを表現にまでもたらすことも、すでにある種の能動的な行為


    いくら現象を受け取るものが目を凝らそうとも、耳をそばだてようと、そのことだけでは何かが現象する保証はない。あくまで、現象するもの自身が、それを受け取るものに対しておのれをあらわにするということがなければならない

    物があるだけでは、この世界の現実性にはまだ届かない。物がそのようなものとして現象してはじめて、私たちの現実が成り立つ

    現象することに先立って、現象するものが存在しているわけではなければ、現象を受け取るものが存在しているわけでもない

    なにものかが、おのれを表現することは、その表現されたものが、受け取られたことの告知という、単に現象するもの以上のものをすでに含んでる

    ★★★そのような創造者の表現を支えているのは、世界が紛れもなくみずからの下でひとつの「かたち」をとった、そのかたちの証人たらんとする意志
    (かたちを与えるとき、はたしてそれは同時代の、あるいは未来の受容者たちに向けてのみするのだろうか)

    言葉とは、こうした多様な仕方で、現象にまでいたるその途筋のこと

    ★言葉がすべての存在するものを、その何において命名することを通して、その何となざされた当のものが存在へともたらされる。何と名指されて現象することに先立って当の何かが存在することはない

    言葉のうちにこそはじめて存在は宿り、そこに存在はみずからのありかをみとめ、

    言葉が言葉であるために不可欠の言葉の「もの化」、いわば言葉が単なるものと化すこと、この意味で、生き生きとした語りだしから言葉が切り離され、かくして死ぬこと、こうした事情が、本という表現

    ことばは万物にかたちを与えることによってそれを存在へともたらす創造の営み

    ことばが語るのは、それが語ることのできないもの、語りえぬものに触れたとき、そしてそのときのみ

    ことばは、みずからが語りえぬものにふれていること、語りえぬものに晒されていることにおいてはじめて語る

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著者プロフィール

1957年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。哲学博士。現在、慶應義塾大学文学部哲学科教授。専攻は現象学、西洋近・現代哲学。
著書に『フッサール 起源への哲学』『レヴィナス 無起源からの思考』『知ること、黙すること、遣り過ごすこと』『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』(以上講談社)、『「実在」の形而上学』(岩波書店)、『デカルト――「われ思う」のは誰か』『デリダ――なぜ「脱-構築」は正義なのか』(以上NHK出版)、『生命と自由――現象学、生命科学、そして形而上学』(東京大学出版会)、『死の話をしよう――とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所) など。

「2018年 『私は自由なのかもしれない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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