心にしみる天才の逸話20: 天才科学者の人柄、生活、発想のエピソード (ブルーバックス 1320)
- 講談社 (2001年2月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062573207
作品紹介・あらすじ
恐怖政治をしいたニュートン。本を読まなかったアインシュタイン。素人からの叩き上げファラデー。浮浪者に間違われたエジソン。はめられたガリレイ。半身不随をものともしなかったパスツール。「偉人伝」には書かれていない天才20人のきわめて人間的な横顔を初めて知る。
感想・レビュー・書評
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605
発売日2001年2月 1日
科学ってドラマチックだなぁ。
1 ニュートン
2 アインシュタイン
3 湯川秀樹
4 キュリー夫人
5 ファラデー
6 エジソン
7 ラボアジェ
8 ダーウィン
9 野口英世
10 ジュール
11 メンデル
12 ワット
13 パスツール
14 ライト兄弟
15 メンデレーエフ
16 ガリレイ
17 ガウス
18 ゲーデル
19 ボルツマン
20 北里柴三郎
山田大隆
1946年、函館市に生まれる。北海道大学理学部高分子学科卒業。同大学院理学研究科高分子学専攻修士課程修了。札幌市医師会附属看護学校講師、札幌藻岩高校教諭を経て、現在、札幌開成高校教諭として物理、化学を教える。北海道教育大学札幌校非常勤講師(科学技術史、技術論)を兼任。1997年度北海道科学文化協会科学教育貢献者賞受賞。大学在学中から科学史に興味をもち、科学者・技術者の人物伝を中心に研究を続けている。資料収集、現地調査のためのヨーロッパ訪問は20数回を数え、科学史関連の蔵書は1万点を超える。著書に『近代科学の源流を探る』(共著)など。日本科学史学会北海道支部長
克明に家計簿をつけていたメモ魔 ニュートンが超人的なメモ魔、記録魔であったことは意外と知られていない。 分野を問わず、創作活動にかかわる人たち(科学者、発明家、芸術家、作曲家、デザイナー、作家など)は、日々の生活のあいまにひらめくアイデアやインスピレーションを克明にメモする習慣をもつ傾向がある。 手作業や言語活動といった日常の所作と、純粋な思考とが相互に刺激しあうと、急速な創作活動の進展をもたらす場合があり、それを忘れないうちに書きとめるのです。
そういえば、ルネッサンスの大発明家レオナルド・ダ・ビンチも、ニュートン同様に膨大なメモを残している。 この二人をあわせ見ると、天才はけっして突然つくられるものではないことを痛感する。だれもやらないような、並はずれて緻密なメモの膨大な積み重ねこそ、彼らの独創力のみなもとだったのです。
ニュートンは子どものころから無類の工作好きで、手先の器用さではだれにも負けなかった。二六歳にして史上初の反射望遠鏡を自分で合金を調合してつくってしまったように、その工作のうでまえは相当のものだったといえよう。 また、人一倍好奇心が強く、生涯にわたり、自然の不思議さに対する子どものように鋭敏な感受性をもちつづけています。
夜店で売っていたおもちゃのプリズムに示したような無邪気な自然への好奇心が、ニュートンの超一流の創造力の原点であった。
「私がほかの人より遠くを見ることが可能だったのは、私が巨人の肩に立ったからである。〈中略〉私が世間からどのような目で見られているか知らないが、私は、海岸で美しい貝や滑らかな小石を求めてさまよい歩く少年と同じであり、私の眼前には、未知の真理をたたえた大海が横たわっている」 ここでいう「巨人」とは、レオナルド・ダ・ビンチ、ガリレイ、ホイヘンスら先人たちの偉大な業績のことです。
昨今、わが国では「独創教育」が叫ばれているが、ややもすると既存の知識が独創性の邪魔をするかのような考えに陥りがちだ。ニュートンの独創的な偉業の多くが、先人の積みあげた多くの知識のうえに打ち立てられたことを、ぜひ、心に留めておいていただきます。
精神疾患の原因は、ライプニッツとの微積分法の先取権論争とか、フックとの万有引力の法則の先取権論争とか、いろいろいわれている。最近、ニュートンの遺髪が分析され、大量の水銀が検出されたため、長年の錬金術研究で使用した水銀の中毒による精神疾患ではないかという説も出てきます。
すなわち、文系理系を問わず、ありとあらゆる分野の研究を同時並行で精力的におこない、その中で、万有引力の法則、微積分法など一部が大当たりして、歴史に残る業績として残ったというのが実情なのです。
さらに、当時イアトロヘミー(医化学)とよばれた分野をよく勉強しており、その冶金術、調合術を背景に錬金術にはげんだ生涯を通して見れば、ニュートンは、ありとあらゆることに手をだした「無駄の大家」でもあった。しかし、その無駄さえ今や研究対象になってしまうのだから、ニュートンはやはり天才なのです。
フックはニュートンより七歳年上で、「フックの法則」で有名である。陽気で好戦的な性格で、数学力ははニュートンに劣るが才気煥発で、本質的直観力にすぐれ、性格的にはニュートンとまったく正反対の人物であった。 フックは最後は事務局長として、設立のころから王立協会(学会)をとりしきっていたが、暗く目立たない若い後輩のニュートンにいつもつらくあたり、彼の学会活動を徹底して妨害した。理づめの数学的証明で緻密に仕事を進めるニュートンの力を内心おそれ、数学的コンプレックスも手伝ってのことといわれる。両者の溝は深くなるばかりであった。
王立協会(学会)の面でも、フック以外にニュートンと対立、あるいはニュートンを批判した人物は、学界から抹殺される恐怖政治となり、ニュートンの力学、数学、天文学、光学のあらゆる業績、学説を批判することは、完全にタブーとなった。
天才は、幼少時しばしば不器用で、問題児であることが多い。アルベルト・アインシュタインは、まさにこのケースであった。 彼は、ものごとを考えるのにあまりにも時間がかかりすぎ、〝退屈神父〟というあだ名まで頂戴した。とにかく、やることなすことが遅すぎるので、障害があるのではないかと疑われたほどだった。 その半面、ひどいかんしゃくもちで、〝キレル〟子どもでもあった。
ヤコブはシュツットガルト工科大学を卒業した電気技師で、アインシュタイン少年に抜群の理工系才能がそなわっていることを見抜き、幾何学や代数学を教えた。たとえば代数学は、名前のわからない動物Xを狩る楽しいゲームとして、子どもでも興味をもてるように工夫して教えた。
その後、アインシュタインは一七歳でチューリッヒにあるスイス連邦工科大学に入学したが、物理と数学以外の講義にはほとんど出席せず、友人のノートを借りて試験を切り抜けた。一方で、物理実験室に入りびたっていたという。 その素行はすこぶる評判が悪く、電気工学の権威だったウェーバーという教授に対して、「プロフェッソール(教授)」とよぶべきところを「ヘール(さん)」とよび激怒させた。 今日、教育心理学でADHDという言葉がある。Attention Deficit Hyperactivity Disorderの略で、注意欠陥多動障害といわれ、ふだんは手に負えない問題児だが、関心のあることに集中したときには抜群の能力を示す子どもを指していう。 アインシュタインには、多分にこのADHDの傾向があったと思われる。
母校スイス連邦工科大学の助手に応募して失敗(素行不良の風評が原因との説も)したアインシュタインは、友人グロスマンの奔走でベルンの連邦特許庁に就職し、三〇歳で辞めるまでの七年間、特許申請物の合否審査に従事した。
当時の特許申請数はあまり多くなく、それほど忙しい職場ではなかった。 ところで、ルーチン作業だけやっている一介の役人が、相対性理論という最先端の独創的理論をなぜ発見でき、歴史に名を残せたか、不思議に思う人はいるだろうが、じつは特許審査というこの職業ほど、合否を「評価」するための審美眼(直観)を必要とするものはない。 日本では、特許審査の基準は「今までと違う」ことだけだが、欧米では「すぐれている」ことに主眼がおかれる。だから、欧米で特許を申請しても、よほど内容が頭抜けていないと受からない。 アインシュタインは、特許審査という日々の知的労働の中で、独創的理論形成に欠かせない「何が大事で、何がくだらないか」を判断する審美眼を知らず知らずのうちに身につけていったのである。
もう一つ、特許庁の役人だったからこそ、という点がある。それは、「仕事が暇だった」ことである。 書類審査終了後の暇な時間、彼は理論展開と数値計算に没頭し、さらに、世界の最先端問題が示される『アナーレン・デア・フィジーク』など第一級の物理学雑誌を読みふけって思索していた。 理論物理学研究には、自由に使える時間の存在は不可欠であり、また、世界の第一級雑誌を熟読することは、世界で今何が最先端で最大の話題になっているかを知る最短距離であり、彼の審美眼の重要な背景となった。
アインシュタインは成人してから本をほとんど読まなかった。 このウソのような本当の話の一端をかいま見る、有名なエピソードがある。 ヒトラーのユダヤ人排斥をのがれてアメリカに亡命したアインシュタインは、アメリカ国籍を得たのち、プリンストン高級研究所の正研究員に就任した。 そのころ、のちにノーベル賞をもらう日本の有名な物理学者、湯川秀樹がアインシュタインをこの研究所に訪ねたことがある。 アインシュタインの部屋に一歩を踏み入れた湯川は、息をのんだ。本がないのだ。 物理学を根底から変革した世界トップの大理論家は、古今東西の本や文献に埋まって研究しているはずだという一般の想像に反して、彼の部屋には、名著とよばれたユークリッドの『原論』やニュートンの物理書などが約一〇冊、よく整理して置いてある程度で、学会論文集や恵贈論文などの文献類をふくめても一〇〇冊はなかったといわれている。
もちろん、論文や文献については、学界の最先端動向を知ることのできるものはよく読んでいた。しかし、読むのはそれだけで、すでにできあがった理論本である教科書の類にはほとんど興味がなかったのである。 アインシュタインの書く論文もまた、特徴的であった。彼は、自分が論文を書く場合に、他人の論文を引用することはほとんどなかった。
小川家は、代々漢学者の家系ということもあり、琢治は、専門の地質学、地理学のほかに、中国学や考古学、歴史、文学などにも関心をもち、かつ、凝り性の徹底した蔵書家であった。 その人並はずれた多方面にわたる文献収集の結果、三男の秀樹をふくめ五男二女のいる家は、数万冊といわれるあらゆる分野の大量の書で埋まり、秀樹も本のあいだで迷子になるほどのすさまじさであった。 幼い秀樹には、まるで森や林に見えたことだろう。ときにはうずたかく積まれた本の山が崩壊して、その下敷きになることもあったという。 際限なく増える本のために、常により大きな家への引っ越しを迫られた。数万冊という蔵書の引っ越しは、貨車三台分くらいになったと思われる。 湯川の晩年の懐旧談に、つぎのようなくだりがある。 「もの心ついたときには、本の中に埋まって生活していた」 そんな環境のもと、父の書斎に入りこんで、手あたりしだい古今東西の文献を見たり、父の手ほどきで簡単なものを読みふけるのが、外で友だちと遊ばない寡黙な秀樹少年の最大の楽しみであった。 もちろん、まだ小学生というこの段階で、秀樹少年が古今東西の言語を理解できたわけではない。しかし、細部まで完全に読めなくとも、だいたいの内容を把握してしまうところに天才の片鱗が見えていたという。 祖父は漢学者で、この祖父からも彼は幼少時、漢籍の訓導を受けている。 高校生になると秀樹は、プランク『理論物理学』五巻、ボルン『原子力学の諸問題』、シュレーディンガー『波動力学論文集』など難解な原典と先端論文集をドイツ語の原語で読みはじめていた。 ドイツ語は、父の書斎で洋書を常に読んでいるうちに、必要に迫られてマスターしてしまったという。
彼は幼少のころから、無口な読書を愛する学究的な少年で、余計なことは京都弁で「言わん」と宣言して黙ってしまうため、「イワン」というロシア名のあだ名がついたほどであった。そんな性格とひ弱さがわざわいして、小中学校時代は、よくいじめられた。 旧制中学(今の高校)の一年生のとき、〝イワン少年〟は三年生の粗暴で体の大きな柔道部の先輩にとくにいじめられていた。
ところで、キュリー夫人はたしかにソルボンヌ大学を首席、次席で卒業した秀才だったが、それは物理学や数学の話で、化学、とくにこのような分析化学には、夫ともどもずぶの素人であった。
また、ラジウムによるがんの治療にも尽力し、さらに女性初のソルボンヌ大学教授として、女性科学者の地位向上にも尽くした。
アメリカ人のキュリー夫人に対する評価がきわめて高いのは、女性の権利獲得や自由主義思想への共感のほかに、放射性物質の濃縮技術に対する恩義が大きかったからともある。
キュリー夫人こそ、歴史上最初の放射線による犠牲者である。
現在、フランスでは他国にくらべて圧倒的に女性科学者が多い。 通常はどこの国でも、科学は男性の仕事として研究ポストが独占され、女性はなかなか指導的立場につくことができない。これは女性に対するまったくの偏見で、男の横暴なのだが、日本の大学でも、オックスフォード大学やケンブリッジ大学、シカゴ大学やハーバード大学などでもこの傾向は変わらない。 キュリー夫人の登場する前のフランス科学界もそうで、女性の研究ポストはほとんどなかった。
鍛冶職人の子として生まれたマイケル・ファラデーは、一〇人兄弟の長男で、家が貧しく、小学校にも行かせてもらえなかった。 やがて、今の日本ならば中学生の年齢のときに、製本業の店に丁稚奉公に出された。彼は、そこで製本される本の中で「科学書」に興味をもち、空き時間を見つけては「商品」を熱心に読みあさった。 とくにファラデーに影響をあたえたのは、マーセット夫人の『化学の話』だった。この本は一八〇五年に出版され、一六万部のベストセラーになっていた。
ところが、ファラデーには天性の実験センスがあった。また、人一倍の努力によって実験内容をよく理解し、徐々に有能な実験家として頭角をあらわしている。
ファラデーは数学がほとんどできなかった。本当の話である。 彼は正規の小学校教育さえ、まったく受けていない。「読み書きそろばん」という言葉もあるように、数学は訓練によって習得される部分が大きく、なかなか自学自習ですべてを身につけることはできない。 だが、数学ができなかったことが、逆に、彼の対象をイメージ化する能力を高めたのではないかといわれている。
電磁気現象のように目に見えないものを、幾何学的モデルで説明することにファラデーは長けていた。「見えないものをイメージ化する」すぐれた能力によって、数々の歴史に残る業績を打ち立てたのである。
ファラデーの時代は、「数学という道具」を使った理論の精密化がまだあまり要求されず、直観的なイメージ力で多くの創造的仕事ができたことはたしかである。 自然の真理を把握するうえで、当時はイメージが第一で、数式的あつかいは二次的であった(今日では重視される)。ファラデーの成功には、このような時代背景もあった。
ファラデーは、数学的には未整理の多くの「イメージ」を残した。のちに天才数学者マクスウェルがその本質的な重要性を見抜き、ファラデーの了解のもと、この「イメージ」を数式化し、電磁波に関するマクスウェル方程式を導いた。ここに電磁気学は集大成され、今日の電波技術全盛時代へつながることになる。
ファラデーの、一歩ひいて人に接する「セカンドバイオリン」の謙虚さは一生つづき、あらゆる社会的名誉を断りつづけた。 王立協会会長という、ニュートンも座った名誉あるポストへの就任を打診されたときも辞退し、女王から授けられる、これもニュートンが受けた騎士号(ナイト)も断り、生涯平民をつらぬいた。 彼はサンデマン派の小派に属する熱心なクリスチャンであった。
トーマス・アルバ・エジソンは子ども時代、今日教育心理学でいうところの典型的なADHD(Attention Deficit Hyperactivity Disorder=注意欠陥多動障害)だった。 好奇心旺盛だが奇行が多く、集団になじめない。動揺しやすく情緒不安定で、プレッシャーに弱い。テストが近づくと荒れ出し、勉強させても手につかない。下手に厳しくしつけて追いこんでしまうと、手がつけられなくなる。 学校教育制度が整備され、集団でのしつけの厳しい日本やドイツなどでは、こういう子どもは学校で問題児として浮いてしまい、たいていは潰されてしまう。その結果、反社会的となって酒に溺れたり、犯罪者となってしまう場合すらある。
母親があたえた一冊の科学啓蒙書(『自然実験哲学』)から出発したエジソンの理科への関心は、自宅の地下室の片隅に実験室をもうけ、電気や化学の実験に没頭するまでになった。 大がかりな実験をするには、より多くのお金が必要で、エジソンは一二歳から、資金を得るためにグランド・トランク鉄道の支線で新聞の売り子をはじめた。学校はとうの昔にやめていたので、なんの制約もなくこんなことができたのである。
彼は、一〇万ドルの資金をかけ、東南アジア、日本、そして竹の本場の中国など世界中から数十種の竹を入手、その中で最良のものが、日本の京都の石清水八幡宮境内の竹林から切り出した孟宗竹だったのである。 この竹ヒゴを蒸し焼きにして得られたフィラメントによる数百回の実験の結果、この電灯は一〇〇〇時間以上点灯し、世界初の実用電灯となり、以後一〇年以上、八幡の竹はエジソン電球の定番フィラメントとして使われた。 現在、京都府八幡市には「エジソン通り」という目抜き通りがあるが、かつて八幡の竹が世界の発明王エジソンに見出され、世界最高の電球用フィラメントとしてエジソン商会最大の発明を支え、世界の照明技術史に足跡を残したことを知る人は、現地でも少ない。 エジソンは、新渡戸稲造の著書『武士道』(初版は英語)を愛読し、それは少なからず彼の人生哲学に影響をあたえた。とくに、自分に厳しく、自分を律して努力する武士道の人生観に共感したようである。 新渡戸が渡米した際には、エジソンに厚遇されたという。 世界の発明王エジソンと日本の関わりは、意外にも深い。
技術開発には無駄がつきものであり、その無駄から新技術が予期せず生まれる。無駄をあえておこなうアメリカ人の底力が、関連する数々の発明、特許を生んだといえよう。
それはなぜか。エジソンは正規の大学教育を受けておらず、高度な数学、とくに三角関数を用いる交流理論が理解できなかったのである。また、プライドが高く、自己流をつらぬき通してしまう頑固さがあった。
実用一点張りのエジソン主義は、プラグマティズムの思想とも合致し、工業社会に発展しつつあった当時のアメリカに大きな影響をあたえた。しかし、この結果、「発明」こそ「科学」であるかのように誤解され、学校での科学教育を役に立たない空理空論と疎外した面も見られる。今日のアメリカでも、このエジソン主義の弊害は、理論の軽視としてまだ少なからず残っていた。
ラボアジェは孤高の化学者であったといわれる。あまりに頭がよく進歩の速い彼にだれも追いつけず、共同研究者ができなかったのである。 孤高の彼を助けたのは、一四歳年下の有能な妻であった。ラボアジェ夫人は、徴税組合という最悪の組織に飛びこんできた才気ある若い化学者に目をつけた組合長が、彼にあたえた娘であった。 だれからも嫌われていた徴税組合長の娘は嫁のもらい手がないが、彼女は驚くほど才能に恵まれた美女で、残された肖像画で見てもその才媛ぶりが感じとれる。 二人は徴税組合という運命共同体の中で恋に落ち、もともとラボアジェに目をつけていた組合長は、これを許した。言い方は悪いが、〝同じ穴のむじな〟の認識が、若い二人の距離を近づけたのかもしれない。 彼らは似合いの夫婦で、夫人は共同研究者や助手のいない彼の申し分のない助手役として、歴史に残るブルドーザーのような精力的研究すべてを支えた。 ラボアジェは勘がよく、見通しを立てる力は抜群だったが、実験の後処理や、道具の綿密な準備は得意とはいえなかった。これらも、ラボアジェの指示のもと、夫人が一部手伝った。 また、ラボアジェは絵が下手で、自分の実験のようすをうまく絵に描けなかった。それを救ったのがラボアジェ夫人である。
船はイギリスのデボン港を出て南米大陸沿岸を航行し、マゼラン海峡を通過、太平洋へ出てガラパゴス諸島に達する。その後、南太平洋諸島、オーストラリアなどへ航行し、喜望峰をまわって帰路についた。 この間、約五年、ダーウィンはさまざまな生物の観察をとおして、進化についての考えを深めている。
ところが、船をおりてから、ダーウィンが何をしていたかというと、定職につかず、家でブラブラしていたのである。大学や研究所に職を求めるわけでもなく、医者で資産家の父に寄生するモラトリアム青年であった。 学会には所属していたが、大学などに所属するプロの研究者でない彼は、研究発表をするわけでもなく、金持ちで暇をもてあましたいわば博物学の趣味人としか、前半生は思われていなかった。 ビーグル号の航海からもどったのが二七歳だが、二九歳で、いとこのエンマ・ウェッジウッドと結婚する。ちなみにダーウィンの母親は、かの有名な陶芸家ウェッジウッドの娘で、ダーウィンが幼少のころに亡くなっている。 結婚の三年後、生まれ故郷のシュルーズベリーから、ロンドン郊外のダウンに広大な敷地と大邸宅(ダウンハウスとよばれる)を購入して父とともに移り住み、七三歳で死ぬまでここに住んだ。
ダーウィンの父親は、最初ダーウィンを法律家にしようとしたが興味を示さないため、自分と同じ医者にしようとエジンバラ大学医学部に入れる。 のちに中退することになるが、ダーウィンはけっして医学のすべてが嫌いなわけではなかった。それどころか、医学は博物学的傾向があるから、多くの領域を積極的に学んだ。
ダーウィンは結局、心身症的な「憂鬱症」であると、親戚の医者仲間から診断されたが、当時の専門知識と技術では手にあまるものであり、この風変わりな奇病の治療はできなかった。 本当の原因は、今もって謎のままである。
ところで、日本では長く偉人として祭り上げられてきた野口には、あまり知られていない一面があった。 彼は、酒と女が大好きだったのである。
さて、偉人の背後には必ず偉大な母親の存在があるのが歴史の真実だが、野口の場合も、生涯彼を激励した母シカの存在があった。
ジェームズ・プレスコット・ジュールは、マンチェスターに近い織物工業都市ソルフォードの、裕福な地ビール工場主の次男として生まれた。
二〇歳になったジュールは、ビール工場の中に、ビール製造とはまったく関係ない自分だけの大実験室をつくってしまう。工場は本来、兄弟で経営するはずのものであったが、すべてを兄にまかせ、自分は、科学実験という「道楽」に走ったわけである。
内気で町からあまり外に出たことのないジュールにとって、新婚旅行は外界を感じるまたとないチャンスであった。彼は、とり憑かれたように、自然界のあちこちの温度を測りまくったのである。
メンデルが最も得意としたのは、じつは数学だったのである。その中でも確率・統計の分野の能力はずば抜けていた。 つまり、生物学者とは桁違いの数学力をひっさげて、畑違いの生物学の分野に乗りこみ、大成功をおさめたのだった。 当時の生物学者といえば、形態学や分類学に終始し、現象を記述すれば生物学者としての仕事は終わりで、その背後にある自然の摂理の解明など、まったく関心がなかった。 そもそも、エンドウを何世代もかけ合わせるというきわめて数学的な、今日でいう分子生物学的な実験は、当時の生物学者の発想では絶対に出てくるものではない。
だが、ごちゃごちゃした自然現象の中から真理を選びとれること、これはまさに天才であるがゆえの神の手のなせる業であると思う。
科学的真理(法則)は、雑多な現象のうしろに見え隠れしている。それを的確につかみとれる審美眼が、青年学者メンデルの歴史上不朽の業績を生んだ才能であった。生物学者にはない数学的能力のなせる天才的直観であった。
メンデルが所属していたブリュンの聖トマス修道院は、科学を奨励していた。科学に興味があったが家は貧しいメンデルにとって、科学をやるには修道院に入るのが近道だった。 彼が得意としたのは、博物学、数学、物理学だった。 やがて教員検定を受けて教師になるが、一時的で、その後また修道院にもどった。 僧職にまでなったのは、科学的才能が認められ、ウィーン大学に国内留学させてもらったために、教会に借りができたと考えたからである。教会から離れられない運命があり、その限界の中でよい仕事をした。
メンデルを無視した学界の反応もわからないではない。なぜなら、生物学者は数学ができず、数学者は生物学ができないという状況では、だれも彼の理論を理解できるはずもなかったのである。
ワットは、スコットランドの造船都市グリーノックの船大工の子として生まれた。若いころから探究心旺盛で、何でも自分で確かめてみないと気のすまない性格であった。
一八歳ごろ、ワットは父の失業のためロンドンへ出た。町工場に年季奉公に入り、機械職人としての技術を身につけ、出身地に近いグラスゴーに戻って機械工になるためだった。 しかし、ふつうは三年のところ一年と、奉公期間が短いことが不利な条件となり、高収入の機械職人の道を閉ざされ、やむなくグラスゴー大学の付属工場付の職工となった。そこでアンダーソンと出会い、やがて蒸気機関の完成者となっていくことは前に述べた。
そんな中、もともと探究心にあふれるワットは、職人でありながらよく勉強し、アンダーソンのほか熱学で有名なブラックら教授連中ともよく議論した。 ふつうの職工は、教授から言われた通りに道具をつくる。しかし、ワットは、その原理に納得してからはじめて製作に取りかかった。ただし、できあがりは最高だった。 そんな調子なので、自分の経験から原理的に納得のいかない道具は、言われた通りにつくらないこともあった。 そのような目にあった教授連中は、最初は、頑固で生意気なとんでもない職人だと腹を立てるのだが、じきにワットの実力と識見に脱帽して、その意見を取り入れて装置を改良するのであった。こんな職人は、現代でも見つけることは難しいであろう。
やがてトレビシックの精神は病み、一八一四年、イギリスを追われるように、南米に渡る。 当初は、ペルーやニカラグアで鉱山機械コンサルタントとして働いていたが、地元とスペインとの戦いに巻きこまれて破産した。
そのとき彼は、すでにだれを恨むでもなく達観して、技術文明の宿命を受け入れたのだろう。老後は技術と無縁の文学や趣味にあて、彼本来の温かさにもどって豊かな晩年を送り、生涯を終えたという。
それではなぜ、パスツールは、自然発生説を自信をもって否定できたのか? それは、彼が本来、生物学者ではなく、物質の反応に明るい化学者であり、物理にも強い論理的な人物だったからである。
パスツールは、狂犬病ワクチンの発明者としても歴史上有名である。 狂犬病は、狂犬病ウイルスによる人畜共通の伝染病で、発病すると中枢神経がおかされ、ほぼ一〇〇%死亡する恐ろしい病気で、狂犬病にかかっている犬などに咬まれることによってなる。
パスツールがすごいのは、一九世紀後半にはまだ、狂犬病の原因であるウイルスを見る手段はなかったのに、容疑者不詳のまま、すなわち病原体が特定できないにもかかわらず狂犬病のワクチンをつくってしまったことである(ウイルスを見ることが可能になったのは、一九三二年、ドイツのクノールとルスカによって電子顕微鏡が発明されてからである。
ここに西洋と東洋の科学研究手法の違いを見る。科学で大切なのは、ある意味で個々の事実より科学的方法や思考方法なのである。この科学哲学の有無により、同じウイルス学および免疫療法の入り口にいて、野口は病原体を発見できず失敗し、パスツールは病原体を見ずとも成功したのである。 今日でも、日本の科学研究や科学教育は、事実のみにこだわり過ぎ、最も大切な科学的思考法や科学哲学に欠けて、労力のわりに成果をあげていない面が見られる。この野口、パスツールの対比は多くの歴史的教訓を我々に示しているという。
晩年には、彼の名を冠したパスツール研究所が設立され、その落成式で語ったつぎの言葉が有名である。 「科学に国境はないが、科学者には祖国がある。
パスツールが幼少より才気煥発の天才少年であったという話は残っていない。彼は、スイス国境の山麓に広がる田舎町ドールでのんびりと育ち、後世の天才の片鱗はなかった。 ただ、偉人の背後には必ず偉大な母や父がいる例にもれず、勤勉家の父と心優しい母に恵まれた。 父は、皮なめし職人であったがナポレオン時代の誇り高い兵士で、老齢でも勉強を怠らず、少年パスツールによい学習感化をあたえ、研究者となって急速に才能開花し大成していくパスツールの学術的な手紙にもついていけるほどの勤勉家であった。 母は働き者で優しく、生涯、激しい勉強と人類愛で学術上の大きな成果と世の評価の両方を得たパスツールの性格と努力性は、この両親の感化によるところが大きい。
少年時代のパスツールが、唯一才能を発揮していたのは、絵画であった。その中でも、とくにパステル画が得意であった。 彼は、静物、風景、人物などを好んで描いた。 パスツールの描写力の高さを物語るエピソードがある。 彼は、母親を好んでスケッチしたが、彼の描いた母親のデッサン(似顔絵)は実物に酷似していた。あるとき、彼女と初めて待ち合わせる必要のあった人が、そのデッサンを持参して探すと、人ごみの中でわけなく彼女を見つけだすことができたという。 物理学や化学における独創能力と芸術の才能とがはたして相関するかどうかは、くわしい統計調査が必要であろう。 ただ、一般に、著名な科学者の中には、絵画や音楽の達人が意外と多いのである。 湯川秀樹はうたい(謡曲)をよくし、書道は名人クラスであり、アインシュタインのバイオリンはプロ並みであった。 また、その逆に、音楽家が数学の学位をもっている例もある。スイスロマンド管弦楽団のアンセルメは、元数学者であった。
本格的な動力飛行機の発想自体は、ウィルバーとオービルのライト兄弟ではなく、スミソニアン研究所の教授ラングレーが最初だった。 彼は、技術者、建築家、天文学者を兼ねた才人で、各地の大学で天文学教授をつとめ、最後にスミソニアン研究所教授となり、動力飛行機開発の一番乗りを目ざしている。
この偉大な人類初の動力飛行機の随所に生かされていたのは、じつは自転車の技術だった。ライト兄弟は、もともと自転車屋さんだったのである。 一八九二年、二人は共同で自転車の製造・販売と修理の仕事をはじめる。四歳年上の兄ウィルバーは控えめでまとめ役であったのに対し、弟オービルは才気にあふれ社交的だった。二人の自転車事業はかなりの成功をおさめていた。 だが、二人の大空への思いはふくらみ、工夫に工夫をかさね、前述のような偉業を成しとげたのである。 フライヤー機には、自転車の技術がたくさん生かされていた。 機体のフレーム構造は、自転車にはおなじみの構造で、自転車での経験がぞんぶんに生かされていた。また、フライヤーの後期型機には、離着陸用の当初のそりにくわえて、自転車の車輪をとりつけたほどである。 さすがに動力飛行に成功してからは、自転車屋をたたみ、飛行機製造会社を興している。
ライト兄弟機成功の最大要因は、まったくこの「ねじれ(+たわみ)翼」にあった。全体のフレームは自転車技術で頑丈ながら、主翼は鳥の翼のようにまことに「やわらかい」のである。 今日では、この原理は「補助翼」(エルロン)として技術継承され、不安定気流時に調整して使用したり、旋回するときに必ず必要な傾き(バンク)を発生させる際に使用する、頑丈な主翼の先端部の後縁につく翼となっている。
シャヌートはフランス生まれの土木技師で、ライト兄弟へのよき助言者だった。彼らに複葉機を教えたのもシャヌートである。 このシャヌートが、フランスを訪問した際、ライト兄弟との共同作業で知ったこの翼の秘密を、つい漏らしてしまったのだ。
ラングレーは、「学のないやつらに動力飛行などできるはずがない」と軽く見ていたのだが、啓蒙のつもりで、航空工学に関することをいろいろと親切に教えてやった。 それが、結果的には、一介の自転車屋の兄弟に完全に負かされてしまう形となったため、その恨みが大きいのである。 若きライト兄弟はラングレーに対する初期の恩義は感じつつも、自分たちのオリジナリティは強固に主張し、動力飛行一番乗りはラングレーといえども譲らなかったから、「教えてやったつもり」のラングレーの怒りは相当なものになっていたのである。 しかし、実力差はだれの目にも歴然としており、弟オービル操縦の飛行を見たアメリカ国民も、兄ウィルバー操縦の飛行を見たヨーロッパ国民も、一九〇八年の兄弟のアメリカ国内、ヨーロッパ同時の公開飛行の大成功を見て、ライト兄弟に軍配を上げている。 ライト兄弟の技術の本質的なすばらしさは、理論派ラングレーのいう流体力学など知らずに、実際に大空を飛んでしまったことである。 今日の科学原理の応用で開発される「科学技術」とは異なり、ライト兄弟の時代のような技術の創成期には、得てしてこういうことが起こりうる。理論よりも、すぐれた職人のアイデアが勝るのである。
この二つの技術をよく見ると、先翼は「舵取りが前」、チェーンドライブは「動力伝達はチェーン」ということである。つまり、これらは自転車の発想なのだ。もともと自転車屋であった兄弟は、最後まで自転車の発想から抜けられなかったのである。
その後、兄のウィルバーが腸チフスで一九一二年、四五歳で早世したあと、弟オービルは、創成期には大繁盛したアメリカン・ライト飛行機製造会社を引き継いで七六歳まで長寿をまっとうし、一九四八年に死去した。
ライト兄弟は、はじめアメリカよりもヨーロッパで高く評価されていた。フランス科学学士院やイギリス王立協会から数々の表彰を受けている。歴史的な「フライヤー一号機」も永くロンドン科学博物館に貸し出され(一九二八~四八年)、アメリカナショナリズム運動によってようやくスミソニアン航空宇宙博物館にもどされた。アメリカ政府がやっと兄弟の功績を公式に認めるのは、弟オービルも亡くなった一九四八年以降で、一九五五年にやっと兄ウィルバーがアメリカ偉人殿堂入りした。
メンデレーエフというと周期表を思い浮かべる人は多いと思うが、思い浮かぶのは教科書に載っていたあの表だけという人が多いのも事実だろう。
ここに、当時のノーベル賞が欧米白人社会中心のものであり、同じ白人系でもロシア人、あるいは東洋人など非ヨーロッパ系の受賞がいかに困難であったかということが思い起こされる(自然科学分野における東洋人の初の受賞は一九四九年の湯川秀樹)。 また、当時のノーベル賞は、科学上の重要な発見事実や、道具の発明・開発へあたえられることがほとんどで、「理論」にはなかなかあたえられなかった。かのアインシュタインの受賞も相対性理論ではなく光電効果への量子的説明に対してであった。真に理論への授与は湯川以後である。
自然世界をはじめて数学で記述したガリレイの研究スタイルは、近代科学の出発点であった。 古来、数学と自然世界は別もの、数学者と物理学者は別ものと考えられていたが、これを境に、数学は自然現象を説明する道具としての役割を果たし、近代科学の大発展をあと押ししたのである。
ガウスは、ドイツの片田舎の貧しいレンガ職人の家に生まれた。 父は荒くれ者だったらしいが、母は聡明で九六歳まで天寿をまっとうした。 ガウスの兄は凡庸で、ガウスの子も学者としては大成していない。その意味では一代限りの突然変異的天才であったといえる。 当時のヨーロッパでは後発国だったドイツでも、学界はやはり権威主義的で、生まれが問われることが多かった。 だから、一介のレンガ職人の子がゲッチンゲン大学教授になるなどということは、まったくあり得ないことなのである。
ヒルベルトが、数学の完全性を強調すればするほど、内部矛盾が露呈され、自己矛盾をおこしていくではないか。完全化をはかるヒルベルトだからこそ、不完全にならざるを得ないゲーデルはここに数学の限界を感じた。 この着想が不完全性定理に結びついたのだから、増長しきった大家も、それなりに大きな役割を演じたわけである。
一方で、ゲーデルは哲学好きの青年でもあった。中学生にしてカントの著作を読破していた彼は、ウィーン大学に入学してその哲学好きに磨きがかかる。 当時、一九二〇年から一九三〇年にかけて、ウィーン大学の科学哲学部門には「ウィーン学団」とよばれる錚々たる論客たちがおり、科学哲学の牙城といった感じであった。
ゲーデルは、チェコのブリュンに生まれた。 この地は、メンデルが「遺伝の法則」を発見した聖トマス修道院のある生物学史上有名な場所であるが、メンデルの存在がゲーデルに影響をあたえたということはない。 ゲーデルの父はオーストリア人でウィーン出身、母はライン地方出身のともにドイツ語系移民で、ゲーデルはドイツ語で教育を受けている。ゲーデルは二人兄弟の次男であった。 ゲーデルの母親には「多発性脳脊髄硬化症」という持病があった。これは、ヒステリーやひきつけをおこしやすく感情が不安定になる難病である。
母親の体質がゲーデルにも伝わったのか、彼は病弱かつ登校拒否気味で学校を休みがちだったため、その分、代わって母親が補ったのである。 母親の持病のせいか、ゲーデル自身も幼少からカンの強い病的な人格であった。 カンの強さは、別の面では繊細さの極限ともいえる。ゲーデルは感受性が強く、傷つきやすい少年だった。また、あまりに非社交的、対人恐怖症気味だったので、周囲との摩擦でさらに傷つくことも多かった。 ゲーデルの生来の探究癖、天才的な知的好奇心は、幼少のころから連発した「なぜ」に代表される。 この疑問癖には、親も周囲もうるさくて何もできないほどに困らされており、家庭内では「なぜくん(なにゆえの君)」とあだ名されるほどであった。
ゲーデルは生涯を通じて強迫神経症、いわゆる極度の被害妄想に悩まされた。このため、世間的には「変人」と見られることが多かった。 兆候は、はやくも五歳のときにあらわれていて、「夜がこわい」「人と話すのがこわい」と訴えていた。 また、八歳でリューマチとなり、そのために心臓にも負担がかかって心臓病も併発する。このころから自分の健康に大きな不安をもつようになった。
東京医学校時代、北里はけっして、「よい」学生ではなかった。 かんしゃくもちで言い出すとひかないところがあり、町へくり出しては人と摩擦をおこし、「ケンカ北里」の異名をとった。 その暴れっぷりは郷里の熊本まで聞こえ、彼に医学と倫理を教えた恩師マンスフェルトをして「あの柴三郎が」と嘆かせたほどであったといわれている。
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古本屋へ
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しみた。
天才といわれる人たちの人間らしさや自分との共通点を知ることができて、元気ややる気がじんわり湧いてきた。 -
大人になってから読むと、また楽しい。子供にもこういう本をたくさん読んでほしいなあ。
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[ 内容 ]
恐怖政治をしいたニュートン。
本を読まなかったアインシュタイン。
素人からの叩き上げファラデー。
浮浪者に間違われたエジソン。
はめられたガリレイ。
半身不随をものともしなかったパスツール。
「偉人伝」には書かれていない天才20人のきわめて人間的な横顔を初めて知る。
[ 目次 ]
ニュートン―イギリスの物理学者、数学者、天文学者
アインシュタイン―ドイツ生まれの理論物理学者
湯川秀樹―日本の理論物理学者
キュリー夫人―ポーランド生まれでフランスの物理学者、化学者
ファラデー―イギリスの物理学者、化学者
エジソン―アメリカの発明家、技術者
ラボアジェ―フランスの化学者
ダーウィン―イギリスの博物学者
野口英世―主にアメリカで活躍した日本の医学者、細菌学者
ジュール―イギリスの実験物理学者
メンデル―オーストリアの生物学者、修道院僧
ワット―イギリスの技術者
パスツール―フランスの化学者、微生物学者
ライト兄弟―アメリカの技術者、発明家
メンデレーエフ―ロシアの化学者
ガリレイ―イタリアの物理学者、天文学者
ガウス―ドイツの数学者、天文学者、物理学者
ゲーテル―チェコ生まれのアメリカの数学者
ボルツマン―オーストリアの理論物理学者
北里柴三郎―日本の医学者、細菌学者
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]