- Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784062582810
作品紹介・あらすじ
中国史書に現れる「倭王」とは何か。奴国王はじめ、紀元前の統治者はいつ邪馬台国にとって替わられ、さらにはいつ皇室に敗れたのか。皇室の「神話」から排除された神々が語る「倭国」の真実。
感想・レビュー・書評
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初代「神武」から九代「開化」までの9人の天皇は実在した。ただし皇室が倭王=日本国王となったのは十代「崇神」天皇からである。という論を中心に,「荒神谷遺跡」出土の銅剣や「倭の五王」など日本古代史に独自の論を展開していて興味深い。
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この筆者は、「倭國」の成立は西暦107年に「倭國王帥升」が後漢安帝に朝貢した時點だと主張してゐる。<BR>
西暦57年に「倭奴國王」が後漢光武帝に朝貢し、金印を授與された時點では、「倭國王」ではなく「奴國王」なので、まだ「倭國」は成立してゐないといふことのやうだ。<BR>
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まあ、それはそれとして、西暦107年の「倭國」がすでに「九州島の主要な國々と本州島の主要な國々が聯合」したものだといふ主張は、さすがに受け容れ難い。<BR>
その根據が、獻上した「生口160人」は九州だけでは多過ぎるといふことだけでは、あまりに根據が薄弱である。<BR>
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「倭國」聯合を成立させたのは「奴國王」であり、それは「安曇氏」だといふ。<BR>
確かに安曇氏の痕跡は全國に廣がつてゐるので、その可能性はある。<BR>
かたや、出雲には「出雲古族」の國、「投馬國」があり、大和には同じく「出雲古族」の國である「邪馬臺國」があつた。<BR>
そして、3世紀の卑彌呼の時代には、この「邪馬臺國」が「倭國」の都であつたといふわけなのだが・・・<BR>
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もし、さうだとしたら、「安曇氏」と「出雲古族」との關係はどうなつてゐるのだらう?<BR>
また、「邪馬臺國」が大和にあつたとすると、物部氏や天皇家との關係はどうなるのか?<BR>
「出雲古族」の「邪馬臺國」がある大和の地に、西暦180年頃、天孫族の物部氏族が入りこみ、その後、西暦220年頃に神武東遷があつた。<BR>
そして、天皇家は物部氏を取込んで勢力を擴大し、ついには「邪馬臺國」を倒したのだといふことだ。<BR>
つまり、神武東遷の220年頃から、開化が物部を服屬させ、崇神が「邪馬臺國」を倒した時まで、3つの勢力が大和地方に犇きあつてゐたことになる。<BR>
このあたりの説明が、私にはどうにも納得できなかつた。<BR>
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2004年11月7日讀了