京都学派 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784062884662

作品紹介・あらすじ

西田幾多郎に始まり、田辺元、三木清、そして「京大四天王」と呼ばれた高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高と、戦前、匆々たる哲学者を輩出した「京都学派」。彼らの思想は西洋の「受け売り」ではなく、むしろ西洋哲学に伍し、さらにはその乗り越えさえも目指したオリジナルな哲学的思考として、今も高く評価されています。
 しかしその一方では、日中戦争以降の日本の海外侵略的政治姿勢に思想面からのお墨付きを与えたとして、厳しい批判にもさらされています。本書では、いったん彼らの「政治的な誤り」はカッコに入れた上で、極力、客観的なその哲学的評価を試みます。その上で、なぜ彼らは過ちを犯すことになったのか、その深い理由にも迫ります。
 じつはそこには日本の思想、いえ、思想のみならず「後発の近代国家」として出発せざるを得なかったという近代日本の宿命が、構造的に関わっているのではないでしょうか。そしてその問題は、今なお克服されることなく、ことあるごとに日本人の思想の中に回帰してくる。例えば近年の柄谷行人氏の思想などにも、著者は思想の「形」としての同一性を見ています。その意味において、京都学派をどう捉えるかは、私たちにとっても過去の問題ではなく、まさにアクチュアルな問題なのです。
 本書は、今なお毀誉褒貶あい半ばする京都学派の思想を、「われわれ」の問題として再提起する試みです。

感想・レビュー・書評

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  • 「京都学派」とは、西田幾多郎、田辺元をはじめ、世界水準と評される西洋哲学研究者を輩出しながらも、1942年に「近代の超克」を掲げて行われた座談会などが、戦後、日本の軍国主義を擁護したものとみなされ、知的A級戦犯という扱いを受けてきた、京都大学に基盤をおく哲学研究グループのこと。
    その悪名高い存在は知っていても、彼らの思想の難解さゆえに、「日本が西洋近代を超克する存在になる」というくらいの思想なのだろう程度で、本当のところ何を論じていたのか、実はよく知らなかったのです、恥ずかしながら。それが新書でわかりやすく解説されているというのだから、よし今こそ宿題をかたづけてやろうという勢いで読み始めました。
    実際、本書は問題の京大グループだけでなく、明治初期の東大に始まる日本の西洋哲学研究の流れから書き起こし、彼らと反目しつつ関わりのあった他大学の研究者、さらには戦後、京都学派の「主犯」たちが学会を追われて以降の京大における哲学人文研究の流れまでを抑えつつ、それぞれの議論を、もとになっている西洋哲学もあわせて解説するという離れ業を行っており、門外漢にとってはまことありがたい限り。しかし……
    やっぱり、あまりに難解すぎる!まあこれは著者の問題というより、やたらに抽象的な言葉を使って論じたがる当の哲学者たち、それ以上に西洋哲学についての素養が足りなさすぎる読む側の問題なのでしょうが。
    とはいえイントロダクションでは「第2次世界大戦という言葉になじみがない若い読者でもアメリカと日本が戦争をしたことくらいは知っていよう」と書かれているのだけど、さすがにそのレベルの基礎知識ではまったく歯が立たないでしょう。
    まあしかし、わからないなりにも本書で学んだことをまとめておこう。

     京都学派が世界水準での哲学研究グループとして確立されることになったのは、西洋への留学経験をもたない西田幾多郎がただ独自の思索のみを通して著した『善の研究』を、ドイツに留学しハイデガーとも交流のあった田辺元が新プラトン主義やヘーゲルなど西洋哲学の流れに位置づけながら批判をくわえたことによるという。その後に続く「京大四天王」たちは、西洋哲学の最先端の議論を参照しつつ、西田、田辺の仕事を引き継いで発展させていくことになった。
    なるべく素人にもわかりやすく記述されているとはいえ、これら哲学者たちの思想はあまりに難解で入り込み難いが、問題はこうした一見、非政治的な純粋哲学と「時局」との関わり方である。
    ハイデガーのナチス協力に見られるように、哲学者が戦争と抜き差しならぬ関係を持つようになったのは、ヘーゲル哲学の流れを汲むマルクス主義の影響の克服が、帝国主義国家において大きな課題となっていた世界的背景がある。
    そもそも数理哲学者であった田辺がヘーゲル研究へと足を踏み入れたのも、治安維持法により京大の学生たちが多数検挙された京都学連事件を機に、マルクス主義思想にかぶれた学生たちを「善導」しようとの意図から弁証法研究に向かったのがきっかけだったという。
    また、哲学者の三木清が国策研究会で「東亜共同体論」の旗振り役を務めることになった背景には、1930年代になると、マルクス主義の強い影響下にあった左派知識人が次々と「転向」を迫られるようになっていた事情があったという。三木の「東亜共同体論」には、「マルクス主義者およびそこからの転向者を保護するという意味での抵抗を試み」(p.113)るものという側面もあったが、日中の積極的混血により文化的にも一体の「東亜民族」を生み出すことまで主張する三木の議論は、日中戦争を哲学的に正当化する意味を強く持っていたといえるだろう。
    このように日本の知識人階級全体が、国家暴力の矛先がどちらに向くのか不透明な中で翻弄されながら西洋と中国との間で〈日本〉の位置付けに苦心するという状況の中で、京都学派は国策研究会がお膳立てした座談会に参加し、勇み足気味に壮大な歴史哲学を提供したというふうに見ることができる。
    であるからこそ、著者が論じるように、ただ京都学派のみを「知的戦犯」として責任を負わせ蓋をするような態度は、今日にも続く問題から目を背けることにしかならないだろう。
    たとえばコラムで触れられているように、日本を西洋および中国と区別される独自の文明として記述するために非常に問題の多い「風土」論を展開した和辻哲郎は、『国体の本義』執筆にも参加するなど、日本ファシズムの育成に大きな役割を果たしながらも公職追放を免れ、今日まで俗流文化論に大きな影響を保ち続けている。
     この意味でも、本書のもっとも重要な指摘は、「中国との差異と中国に対する優位性を示そう」とするさまざまな知識人の試みに、今日における「日本スゴイ」言説に見られるような自文化礼賛の源流を指摘している点である。日中文化の差異を風土の違いに求めた和辻哲郎しかり、イギリスと日本を同じ文明圏に位置付けてみせた梅棹忠雄の「文明の生態史観」しかり、「知識人は自分の専門の都合でイギリスを利用したりドイツを利用したりと、実にさまざまなアプローチを試みた」のであった(p.233)。
    「日本スゴイ」論はしばしば教養のない者たちがふりかざす俗論として蔑まれているが、本書の議論は、より知的に洗練された形態をまというることに改めて注意を促すものといえるだろう。

  • 中国から日本をどう際立てて独自性を打ち立てるか。
    コンプレックスの解消としての「言葉のお守り的使用」

  • 西田幾多郎『善の研究』をいきなり読もうとして数ページで断念した数ヶ月前の自分に、まずはこっちを読めと伝えたい。私には特定の哲学書の内容の理解よりも、こういった哲学史の流れに沿ってその内容をかいつまむことが有効だった。/著者は上山春平を全面的に肯定している訳ではないと断っているが、登場する哲学者の中で唯一兵士としての戦争体験をもつ上山氏の経歴や姿勢は際立ってみえて、興味を持った。/どこかで目にした「言葉のお守り的使用法」(鶴見俊輔)が出てきてハッとした。

  • 私のように、 哲学には疎い人間には少し難しいが、京都学派と近代日本の哲学界の見取り図のようなものは少し理解できた。
    著者は、何とか京都学派の人々のプラスの成果を今日的に位置づけようとしているようだが、そういう事に意義は感じられない。私の残り少ない人生で京都学派の人々の本を読む必要はない、と理解できる本だった。

  • 近代の日本において独創的な哲学的思索を展開した京都学派について、戦後の展開も含めて解説している本です。

    京都学派といえばその領袖の西田幾多郎をはじめ、西田の批判者の田辺元や宗教哲学の西谷啓治、あるいは京都学派左派の三木清らの名前がよく知られていますが、本書は彼らのほか、「世界的立場と日本」の座談会に出席し戦後責任を追及されて公職追放にあった高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治らの議論の問題と意義について、比較的くわしい検討がなされています。さらに、京都学派の思想的遺産を戦後に引き継いだ三宅剛一と上山春平にもページを割いて、より広い観点から京都学派の思想史的意義を見なおそうとしています。

    三宅や上山といった、従来の京都学派の哲学についての本ではとりあげられることのすくない思想家たちに焦点をあてており、おもしろく読みました。ただ、上山らの新京都学派の文明論的な思索を、西田以来の京都学派の哲学的思索と接続することには、多少違和感をおぼえました。

  • 正直、哲学的素養の少ない自分にはこの本は早すぎた。半分も理解できなかったが、しばらく違う本をいろいろと読んで立ち返ると、きっとすごく深く学ぶことができるのではないかと思う。
    ただ、テーマとして「日本の英知を詰め込んだような京都学派が、なぜ戦争に加担し、公職追放の憂い目にあったのか」ということは非常に興味深い。
    そして、自文化礼賛主義と上山春平の戦争体験と自文化礼賛主義からの距離感というのは、現代において特に参考にできる部分だと思う。

    もう一度、この本に立ち返ってくるぞ、と挑戦的気持ちを起こさせる一冊。

  • 東2法経図・6F開架 B1/2/2466/K

  • 三木清の思想と行動を知るにつけ、聖人はいないのだ、との感を強めた。私の知っている三木清像は誰が描いたのだろうか。

    また、戦争という国家規模の動きに巻き込まれないことがいかに難しいかを痛感する。科学だけでなく、パラダイムはあらゆる分野に確実に存在する。後の時代から声高に断罪することの意味はいかほどか。

    上山 春平の「ネガ」としての日本文化論は興味深い。ナショナリズム克服の方途としての視点だけでなく、健全なナショナリズム構築の視点もあるからだ。

    本書で記述されている、思想的な部分と心情的な部分の人間模様は京都学派に限らず、他の分野でも必要な切り口だろう。

    また、全体的に哲学的な思考を入口っで味わうことができる。

  • 18/03/09。
    2018/12/3読了。

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著者プロフィール

菅原 潤(すがわら・じゅん)
1963年、宮城県仙台市生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、日本大学工学部教授。主な著書・訳書に『シェリング哲学の逆説』(北樹出版)、『京都学派』(講談社現代新書)、『実在論的転回と人新世』、リュディガー・ブプナー『美的経験』、リチャード・J・バーンスタイン『根源悪の系譜』(いずれも法政大学出版局・共訳)など。

「2023年 『マルクス・ガブリエルの哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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