〈私〉を取り戻す哲学 (講談社現代新書)

著者 :
  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784065343883

作品紹介・あらすじ

電車の中や部屋の中、気が付けばいつもスマホをスクロールしている。本当は何が知りたいのか、自分に何が必要なのかわからないままSNSの世界に浸り続け、気が付けば自分自身を見失ってしまった――。スマホ時代の過剰な繋がりによって失われた〈私〉を私たちはどうやって取り戻すのか。気鋭の哲学者による現代を生き抜くための思考法!【本書の主な内容】第1章 デフォルトの〈私〉――――動物になるか、善い人になるか・ミニオンズの憂鬱・パッケージ化された善に警戒せよ・目を閉じて、〈私〉の声を聴く第2章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考・「新デカルト主義」宣言・判断しなくてよいという判断・批判的思考のプロトタイプ第3章 ポスト・トゥルースを終わらせる・SNSを気にする学生・「正しさをめぐる争い」は終わりにする・陰謀論は理性と情動に訴える第4章  ネガティブなものを引き受ける・対話とネガティブ・ケイパビリティ・アルゴリズムと自己消費・「弱いロボット」から考える

感想・レビュー・書評

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  • 哲学系の書籍を読んだり、勉強したことがほとんどなかったため、出てくる単語や概念を頭に入れることに終始していたが、哲学に興味を持つよいきっかけになる一冊であった。現代思想の基本的な事柄について詳しく丁寧に書かれており、デカルトの哲学との関係性や、構築主義や相対主義、ポストトゥルースの落とし穴を理解することができた。
    構築主義や相対主義が蔓延している現代に生きる私たちが私を見失わないためには、私という確かな存在を持つこと。サイバースペースでは、自分を都合の良いように取り繕うことで私という存在が私から離れていってしまう。そのためには、取り繕いたい自分の内面も相手にさらすことが時には必要である。それはネガティブケイパビリティの考えにも繋がる。この考えや、なにかを判断する際には、判断保留を意味するエポケーという選択肢を持つことも、私という存在を確かなものにするには必要な要素である。
    しかし、この一冊を読んだだけでは理解が深まっていないので、千葉雅也さんの「現代思想入門」(講談社現代新書)を読んで基本的な部分を理解していきたい。

  • <私>を取り戻す哲学は、世界を取り戻す闘いでもある。一人ひとりが、<私>の内側に視線を移し、内省すること。それは、「スマホ」を介した外側の世界との接続ではなく、<私>の意識体験を見つめることだ。そこから、「よい」世界は創られていく。

  • サイバースペースへの接続によって情報摂取をし、コンテンツを消費し続けるのは退屈が原因であるが、情報を消費することにも退屈を感じ結局自分が何なのか、何をしたいのかわからなくなる。そこに「私」について、考える隙がない。うまくスマホ依存を言い表している。
    デザインされた「私」からネガティブな部分を排除することで、人間的な本質が見えてこなくなる。人間は持ちつ持たれつで支え合いそこからつながりが生まれる。ネガティブな事柄にもポジティブな役割があることを忘れてはいけない。全く同感だ。無難なコンテンツばかり公開される中で、パッケージ化された善が氾濫し、我々はどこに向かっているのだろうかと時々不思議に思う。どんなにAIやテクノロジーが発展しようと多様性が推奨されようと、いじめや自殺や戦争がなぜ無くならないのか?ネガティブな心理の原因や役割から目を背けて「よい」ことだけを発信し続けていても、本当の喜びやつながりは生まれない。

  • 【主な目次】
    第1章 デフォルトの〈私〉
    ――――動物になるか、善い人になるか
    ・ミニオンズの憂鬱
    ・パッケージ化された善に警戒せよ
    ・目を閉じて、〈私〉の声を聴く

    第2章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考
    ・「新デカルト主義」宣言
    ・判断しなくてよいという判断
    ・批判的思考のプロトタイプ

    第3章 ポスト・トゥルースを終わらせる
    ・SNSを気にする学生
    ・「正しさをめぐる争い」は終わりにする
    ・陰謀論は理性と情動に訴える

    第4章  ネガティブなものを引き受ける
    ・対話とネガティブ・ケイパビリティ
    ・アルゴリズムと自己消費
    ・「弱いロボット」から考える

  • 第1章 デフォルトの〈私〉
    ――――動物になるか、善い人になるか
    ・ミニオンズの憂鬱
    ・パッケージ化された善に警戒せよ
    ・目を閉じて、〈私〉の声を聴く

    第2章 〈私〉を取り戻すための哲学的思考
    ・「新デカルト主義」宣言
    ・判断しなくてよいという判断
    ・批判的思考のプロトタイプ

    第3章 ポスト・トゥルースを終わらせる
    ・SNSを気にする学生
    ・「正しさをめぐる争い」は終わりにする
    ・陰謀論は理性と情動に訴える

    第4章  ネガティブなものを引き受ける
    ・対話とネガティブ・ケイパビリティ
    ・アルゴリズムと自己消費
    ・「弱いロボット」から考える

  • 前書きを読んで暗い本であることが予想された。
    著者は大学院を中退し、かなり長い間ニートしていた(奥さんに扶養されていた)。それに対する著者自身の感想がだらだら…自分語り。私小説?

    で、本文。ほとんど理解できない、理解させようとする気遣いはない。まして論調が暗いのは前書きで予想した通りなので、ページをめくるのが苦痛になる。

    三分の一だけ読了45分

  • とても現実的で、実践的な哲学。結局私とは自分が意識的に経験してきたものの総和だということ。
    また、これは全員が持っている普遍であり確信できるもの。だからこそ、経験から語られものが人の心を動かし実用性に富んだものになるのだと思う。
    これを感覚的に分かっている人はいるが、それをこれからの新しい哲学が証明できていることがすごい。
    結局、自分へ内省から外へと繋がっていかなければ揺るがない自分にはならない。揺るがない自分はまた時と共に変容していく。

  • 感想
    見えない総体への恐怖。炎上を避け批判から逃れる。しかし本当にやりたいことはなんだろう。耳を傾けて目を見開く。自分の意見を聞いてみる。

  •  他者の視点や判断に身を委ねるうち、〈私〉という自己イメージが曖昧になってくる感覚を覚える人は多いだろう。その〈私〉を取り戻すためには、逆説的だが、自分が自由にできる〈私〉という自己イメージを手放す必要がある、というのが本書の主張。全般的にやや繰り返しが多く少々くどい感じがするが、認識論、現象学、経験論などを幅広くカバーしている割には論旨が一貫しており、おかげで理解がしやすい。自身の身の上話から本書が始まるのも共感できる(本書の要諦を体現しているとも言える)。

     共同体が果つるところで立ち現れた〈終わりなき日常〉(宮台真司)では、共同体で必要とされるコミュニケーション能力なき者は、ひたすらに自己の快楽のみを追求するしかない。すると、間主体的な批評の対象となるような「物語」よりも、それを構成するフェティッシュな個々の「要素」のみに着目し、共通理解を拒むかのような「自己のエロス」に閉じこもる〈動物化〉(東浩紀)が生じる。そのような「なんでもあり」の状況では、人間は克服すべき課題や障壁を見失い、理想や欲望の所在が不明瞭となる〈退屈〉(國府功一郎)に苛まれることとなる。

     著者はこれらの背景に〈善への意志〉、すなわちもう一度他者との関係性の中で普遍性倫理を取り戻そうとする回帰的な欲望の作動を見る。マルクス・ガブリエルの新実在論を引き合いに、ポストモダン的構築主義に倦厭した人々が、自らの自由を手放し外部規範に隷属することを欲しているのだと喝破する。これが自らの〈内なる声〉に耳を傾けることなく他者の評価に拘泥する、現代人の病理の根源だというのだ。

     この「自己の放逐と他者への依存がもたらす空疎さ」に対処すべく著者が提唱するのが、経験論哲学の系統を継ぐ〈新デカルト主義〉だ。畢竟、〈私〉は現象学的な「見え」から脱却することができない。そうであればとにかくこの「見え」から出発し、同じく個々の「見え」に依拠するしかない他者の認識を認めた上で間主観的な合意を探っていこう、とする。その際重要になるのは、物事に対する判断を一旦保留するピュロン主義の〈エポケー〉であるという。複数の真実が暫定的に共存しているという状況を認め、安易な臆見を差し控える。そこにあるのは自己の認識能力の限界に対する強い自覚であり、これがデカルトの提唱した〈方法論的懐疑〉に通ずるというのだ。

     自己と他者の認識が高々現象学的な「見え」に依存するという意味において対等である、という前提にたてば、「真実はいかなるものであるのか」という問いはその基盤が揺らいでくる。それよりは「私とあなたの認識がどのような意識体験から生じたのかを検討し、対話を通じて共通点を探ろうではないか。そのためには時間が必要だから即断は避け、問題を単なる信念対立から本質洞察に昇華させよう」と著者は提唱するのだ。

     私の主観的・現象学的「見え」ではなく、外部の〈善のパッケージ〉に判断を委ねてしまうと、理性と情動に訴えかけてくる陰謀論に容易く取り込まれてしまう。そうではなく、この〈私〉がどう感じどう考えるかを観照し、同型の認識が他者でも成り立っていることを認めた上で共通理解を探る。その際、〈私〉が感じた違和感や摩擦が外部的対象の成立を担保しているのだから、そのようなネガティブネスから目を逸らしてはならないというのだ。

     面白いと思ったのは、サイバースペースでやりがちな〈私〉のドレスアップを続けるうち、どうしても改変できないものが残るルガ、それが〈私〉のコアである可能性に言及していること。なるほどと思った。

  • 最後のところがよかった。のだけど、私は傍点が苦手だということが分かった。著者にはすまないのだが、単に、苦手らしい。こういうのも抵抗のうちではある。

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著者プロフィール

豊橋技術科学大学准教授。1987年札幌生まれ。早稲田大学国際教養学部卒業、同大大学院国際コミュニケーション研究科博士後期課程修了。博士(国際コミュニケーション学)。同大国際教養学部助手を経て現職。専門は現象学を中心とした哲学。
著書に『新しい哲学の教科書――現代実在論入門』(講談社選書メチエ)、『現象学とは何か――哲学と学問を刷新する』(共著・河出書房新社)、『交域する哲学』(共著・月曜社)など。

「2021年 『<普遍性>をつくる哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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