- Amazon.co.jp ・本 (48ページ)
- / ISBN・EAN: 9784082990138
感想・レビュー・書評
-
話自体は典型的なのだけれど、集英社のは植田真さんの絵がすごくいいし、かといって絵が主張しすぎず、活字を読ませるための良い脇役に徹していて、絵本としてかなり良質だと思う。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
世間のひとびとから恐れられ、疎まれている龍と、一人の少年の物語。
浜田廣介作品は初めて読んだが、繊細で脆い筆致は非道く美しく感ぜられた。もっと早く出逢えていたらと、いまは思う。
龍を恐れている村のひとびとは、龍のほんとうの気持ちを知ろうともせずただただ“恐ろしい”という先入観に囚われて、手前勝手な陰口を捲し立てる。少年に対してもそうだ。「あの子は龍が怖くないようだから、おかしな子だ」「きっと、ばかなんだ」。少しでも自分達と違う考えを持っている人間を排斥する愚かな風潮は、現代社会にも充分に通じている。
童話としては少しばかり長いお話だと思ったが、多くの子ども達に読んでもらいたい。 -
こんな素敵な絵を描かれる人がいるとは…
立ち読みのつもりがつい購入。-
「こんな素敵な絵を」
植田真の、この絵本は失念していた。今度図書館で借りよう、、、
ゴブリン書房から出てる「スケッチブック」とか好きなんです...「こんな素敵な絵を」
植田真の、この絵本は失念していた。今度図書館で借りよう、、、
ゴブリン書房から出てる「スケッチブック」とか好きなんです。2013/08/06
-
-
「偏見のない子どもの心だけが出会えたりゅうの本当の心。なぜ怖がるの?なぜ嫌うの?なぜいじめるの?「ぼくは、ね、おまえさんをいじめはしない。また、だれか、いじめようとしたっても、かばってあげる。」凍りついた心は、優しい子どものこの言葉に解け出し、やがて涙の川に…。」
やさしさの本質を語る、美しく感動的な一篇。
“これまで、ただの一度も人間からやさしい言葉をかけてもらったことがない”りゅうが、偏見のないやさしい子どものことばに流す滂沱の涙…。感動の古典を植田真氏が繊細なタッチで描きあげます。 -
16'00"
村人に怖れられている 龍に
優しい少年が 会いにいくお話。
使われている言葉遣いが
少し古風で丁寧なので
自然と物語に引き込まれる。
終わり方が突然なので
読み方に工夫が必要。
細いタッチの絵が
恐怖や寂しさの空気感を良く表している
-
絵の書き手がちがうと感じが少し変わりますね。内容は何度読んでも感動的な気分になりました。
-
人に信用されると良くなるのねー
-
南の国の山の中には、昔から大きな竜が住まっていると言われていました。
人々は竜を直接見たことはありませんでしたが、皆が竜を恐れて、どうして誰も竜を退治してくれないのかと思っていました。
そうするうちに、ある町に、奇妙な子どもが現れました。
その子は、竜を怖がらず、自分から竜の話を聞きたがるのです。
大人やお母さんから、竜に心を寄せることをとがめられるも、その子は竜を不憫に思い、自分の誕生日に呼ぼうと、竜を探しに出かけていきます。
深い山奥に辿りついた子どもは…
初めて読みました。
『泣いた赤おに』の感想を書いてすぐにこの本のページをめくると、扉に、ブックショップ「ユトレヒト」を立ち上げ、その後蒸留家に転身された江口宏志さんの言葉があり、「浜田廣介がこの話で伝えたかったのは、自らものごとを判断することの大切さ。」と書いてありました。
『泣いた赤おに』で私が一番感じたのは、深く知ることも考えることもせず、周りに流れるがままに鬼を恐れ忌み嫌っていた人間の姿でした。鬼にフォーカスを当てられなかった私の考えも、あながち間違いではない?と思いながらこのお話を読みました。
このお話は、竜というよりも人間の方にフォーカスが当てられています。
植田真さんのイラストが本当に素敵でお洒落です。けれど、そこに出てくる人々は、どこか冷たく無機質なものに感じました。
子どもは、竜を恐れず、竜をもっと知りたいと思い、恐れ忌み嫌われる竜に同情をします。
人々はそのことを訝しみ、母親でさえ、対外的には子どもをかばいながらも、世間体を恐れ、子どもの気持ちを汲むことはなく、考えを改めさせようとします。
私はこの話を「異端」の話だと思いました。
「異端」との向き合い方の話。自分が「異端」であることの勇気。
まずもって、「異端」(この場合、竜)とは「知らないこと」を起因とします。
もし人間がもっと竜をよく知っていれば、知ろうとしていれば、竜は「異端」にならなかったかもしれません。けれど、この国の人は、誰も「よくわからない怖いこと」を知ろうとはしなかったのです。その子ども以外は。
そしてこの子どもも、「異端に心を寄せるもの」としてまた、「異端」として描かれています。
人々の態度は一貫していて、噂に流され、日和見主義です。(これは『泣いた赤おに』でも同じ。)実の母親でさえも、子どもの気持ちを尊重することには考えも及ばないようです。これが、もし竜が、実態として人に害をするものであったとすれば、この態度も当然かもしれないのですが、実際には人間は竜を見たこともなく、実態はしれないのです。実を知らずしてただやみくもに恐れるところに、違和感を感じます。
読んでいるうちに、このお話も『泣いた赤おに』も同じことを言わんとしているのではないかと感じるようになりました。
それは、「知って、自ら考えること」の必要性です。
「りゅう」であり「赤おに」であるものは、何も人間以外のものであるとは限りません。むしろ、実社会においてそれは、人間である可能性の方が高いのです。
「異端であること」…現代であれば、LGBTQ…などに対する考え方もそういったものあたるでしょうか。
人は、よく知らないものは怖いし、避けたいと思います。
けれど、よく考えれば自分と同じ陣地内にいると思っているそれら多くの人々も、同じではありません。それぞれが異端であることを肝に銘じれば、世の中は少しは住みやすくなるでしょうか。
『泣いた赤おに』も『りゅうの目のなみだ』も、発表年は戦前とかだと思います。
(『泣いた赤おに』は1931年と出ました。)
様々なことに対して、今よりももっと自由が尊重されなかった時代。
広介の意図がどうであれ、そんな時代にこんな作品を残された浜田広介という人は、やっぱりすごいひとなのではないかと思いました。
このお話において、竜は最後に船へと変わります。
文章にはありませんが、最後のイラストにおいて、子どもたちに長く親しまれる船になるであろうことが示唆されています。
けれど、竜はどうして船にならなければならなかったでしょうか?
どうして竜は竜のまま、子どもたちのいる町に来ることがかなわなかったのでしょうか。
それは、この時代、いや現代においても、人間社会が未だにそれを受け入れる器を持たないことを意味しているのではないでしょうか。 -
せっかく理解者が現れたのにりゅうの形の船になってしまうのは悲しい。
-
4-08-299013-5 47p 2005・11・30 1刷