「みんなの学校」をつくるために:特別支援教育を問い直す (教育単行本)

  • 小学館
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  • Amazon.co.jp ・本 (191ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784098401970

作品紹介・あらすじ

インクルーシブ教育はどこへ向かうべきか?

映画「みんなの学校」で有名な大阪市立大空小学校と東京大学のコラボにより、2018年度、のべ4日間にわたって、「特別支援教育を問い直し、今後の公教育の形を考える」ワークショップが開催されました。木村泰子、小国喜弘、星加良司、川上康則、川村敏明、前川喜平ら錚々たる講師陣の講義を受け、参加した全国各地の現役教員(大空小の現役教員を含む)らが白熱した議論を展開。まさに主体的・対話的で深い学びを体現していくその過程をリアルかつエキサイティングに記録したのが本書です。全ての子どもたちが安心して学べる「空気」をどうつくるのか? その答えについて考え続けたい人にとって、必読の一冊になりました。平成31年度から、必修科目「特別支援教育総論」のテキストとして、東京大学教育学部での正式採用が決定しています。

【編集担当からのおすすめ情報】
木村泰子先生の最新刊が、東京大学のテキストとして採用されました! インクルーシブ教育の今後について考える上で、避けては通れない必読書です。特別支援教育関係者、通常学級担任をはじめ、全ての教育関係者にぜひお読みいただきたいマイルストーン的な一冊です。

感想・レビュー・書評

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  • 【障害の社会モデルとはなにか。】


    小国喜弘は、『「みんなの学校」をつくるためにー特別支援教育を問い直すー』(小学館、2019年)の冒頭で次のように述べている。

    「文部科学省は、2019年4月以降、教職課程において「特別の支援を必要とする幼児、児童及び生徒に対する理解」を深める科目=「特別支援教育総論」を新たに必修とすることを決めています。これは幼小中高にわたる共通科目となる予定です。この科目について文部科学省から提示されている教職課程コアカリキュラムが、「現場の子どもの事実から乖離しているように見える」のです。コアカリキュラムとはいわばガイドラインで、文部科学省は今回の科目でこういうことを教えなさいということを細かく規定しはじめました。
    このガイドラインを見ると、やはり「障害の医学モデル」-医学的知識がないと障害児に正しく対処することはできないということが事細かく書かれています。それを大学もしくは短大で全7回にわたって教えなさいという話になっているのです。文部科学省が示すガイドラインのままこの科目が教えられ、それを履修して、現場に出ていくことになるこれからの先生たちはやや偏った知識を持つことになり、この科目が新設されたことによって学校を通じた「障害児」の排除が拡大していく危険があるのではないかと考えました。」(p8)

    この引用部によると、大学教職課程の必修の集中講義「特別支援教育総論」の、文部科学省から提示されたガイドラインは「障害の医学モデル」(「障害の個人モデル」ともいう)寄りに重点が偏っており[註1]、また、それに対抗しうる「アンチな知」(p9)を考えるのが、この教科書がつくられた目的であったらしい[註2]。

    そこで、我々が考察すべきことは、「障害の医学モデル」あるいは「障害の個人モデル」以外の障害というものの捉え方をしっかりと理解することで、「現場に出ていくことになるこれからの先生たちはやや偏った知識を持つことに」ならないようにすることであるだろう。具体的には、「障害の個人モデル」に対する「カウンター」(p49)としての「障害の社会モデル」についてここでは考察していきたい。

    【考察の前提となる諸概念の定義】
    ではまず、「障害の個人モデル」と、そのカウンターである「障害の社会モデル」とはいったいなんだろうか。以下のⅰでは「障害の個人モデル」を定義し、ⅱでは「障害の社会モデル」を定義する。

    【ⅰ :「障害の個人モデル」の定義】
    まず、「障害の個人モデル」(あるいは「障害の医学モデル」)とは、障害を「身体機能の欠損(=病い impairment)」と捉え、「障害者とは身体機能の異常を持つ人」であるとし、「障害は個人の持ち物」とすることで、その「害」の軽減のために、「当事者個人の療育やリハビリ、社会適応のためのトレーニングなどの個人努力を通して変革を推進する」立場であると説明されている。また、当該書には、次のような記述がある。

    「インペアメント[註3]とディスアビリティ[註4]をほとんど同じものだと考える、あるいはインペアメントがあれば、やっぱりディスアビリティは生じるのだ、つまり、身体にどこか不具合があれば、その人には社会生活を送っていく上での不利や困難が、自動的に、機械的に、あるいは因果的に生じるものだと考える。そして、そういう捉え方を私たちはずっと当たり前のこととして受け入れてきたと考える。こういう考えを、「障害の個人モデル」あるいは「障害の医学モデル」と呼びます。」(p47)

    この引用部において、「因果的に」というところが重要であると私は考える。なぜなら、「障害者にはディスアビリティ(困難)がある」という現状認識は、「個人モデル」でも「社会モデル」でも実は変わらないのだが、その原因が、もっぱら「インペアメント」だと自明視され、その機能上・身体構造上の欠陥(=インペアメント)を取り除けば、「原因がなくなるので、その結果であるところの困難はなくなる」という因果的な仕方で「個人モデル」は解決手段を捉えているからである。つまり、「インペアメントが原因なので、インペアメントこそが問題だ」という仕方で、「ディスアビリティ」が生じていることの原因を身体機能と医学の問題に局限して考えている。これは重大な欠陥ではないだろうか(これについては後述していく)。また、教科書には次のような見逃せない指摘がある。

    「「医学モデル的解釈」は、障害者は、「正常」な身体から逸脱した否定的な身体特徴(インペアメント)を持っているために、社会生活上の困難(ディスアビリティ)を経験するのだが、そうした「恵まれない」状況に対する社会の慈善的な反応、あるいは社会連帯の理念に基づく福祉的な措置として、一定の配慮は提供されるべきだ。つまり、合理的配慮は、「普通」の社会に適合できない障害者に対して、社会の側が善意に基づいて提供する「特別な恩恵」という色彩を帯びる。」(p57。なお、推論の推移を示す「⇒」や「数字」は省略した。)

    この引用部によると、医学モデル的な障害の捉え方だと、我々が障害者に配慮しなくてはならない理由が、「我々が古来より不正義をおかしてきたから、それをつぐなうことが我々に課されているから」(←これは社会モデル)というロジックではなく、ディスアビリティの直接的原因であるところのインペアメントを持ってしまった「恵まれない人々」に対する善意から、ディスアビリティの解消に向けた配慮をすべきだというロジックになっているのである。同じことを逆から言えば、恵まれない人々の生活上の困難を放置することは「我々の良心に反する」(p56)から、相応の配慮が提供されるべきだというロジックになっているということである。しかし、まず私が指摘したい疑問は、「良心に反するから」という理由で合理的配慮を正当化することは、正当化として弱すぎるのではないだろうか、ということだ。

    なるほど、「個人モデル」で考えれば、障害とはもっぱらインペアメントのことであって、社会的なものではないのだから、私は誰かにインペアメントを付与した覚えなどないので、私に「つぐない」は課されておらず、それでも配慮が社会的責務だとしたら「良心」とか「善意」とか「慈善」に訴えるしかないだろう。しかし、「良心には反するが配慮する強制力はないのだ」とか「私の良心には反しない」とか「私に良心はない」といったたぐいの反論が予想される。

    ⑵-② 「障害の社会モデル」の定義
    他方、「障害の社会モデル」とは、障害を主体を「取り巻くバリア(社会的障壁 disability)」であると捉えて、「障害者とは様々なバリアを社会から引き受けさせられる人」であるとし、「「害」の責任を、環境・社会の在り方に求める」ことで、その「害」の軽減のために「当事者を取り巻く環境・社会の変革を行う」ことだとされている。また、「悪気なく存在するバリア」の種類は具体的には4種類あり、一つ目が、歩道や出入り口の段差などの物理的バリア。二つ目が、資格・免許等の制限などの制度的なバリア。三つめが、点字、字幕、案内表示などの情報アクセス面でのバリア。そして四つめが、「心ない言葉」やステレオタイプなどの認識上のバリア[註5]であり、この4種類がこれまで挙げられてきている。

    そしてこれらの物理的・非物理的バリアを、インペアメントを持った人々が偏って引き受ける[註6]ことで彼らはディスアビリティを蒙る(すなわち、「障害者」とされる)。それゆえ、バリアを減らす手段は医学的であるだけでなく社会的でもなければならない。教科書でも、次のように説明されている。

    「個人モデルや医学モデルに対するカウンターとして提起されたのが、「障害の社会モデル」という考え方です。この概念のポイントは、「ディスアビリティこそが本質的な問題である」ということ。ディスアビリティ(障害者が経験している社会生活上の不利や困難)はインペアメント(機能障害)によって生じているのではなく、周りの環境や制度、ルールなどが障害のない人(多数派)の都合に合わせて作られていることによって生じているわけです。私たちが当たり前、あるいは普通だと思って行っていることの中に、様々な偏りとゆがみが存在している。でも、多数派はそのことに気づけないという問題がある。その批判的な視点、観点を持ち込むことが、障害の社会モデルという考え方の原点なのです。」(p49)

    ここでは、「インペアメント」と「ディスアビリティ」とのあいだに先ほどは指摘されていた因果的関係(=「ディスアビリティ」の原因はもっぱら「インペアメント」であるから「インペアメント」を医学的アプローチで取り除いてやれば、「ディスアビリティ」もおのずと解消するという考え)が一旦保留にされていることに注視したい。ここでは「ディスアビリティ」の発生過程がそれほど単純な因果論ではないものとして捉えなおされている。あえて対比的に言うならば、むしろここでは、「障害とはもっぱら「ディスアビリティ」のことであり、その原因にはインペアメントや社会の側の様々なバリアなどがあって複雑である」と理解されているのだ。また、先ほど「個人モデル」の定義で疑問を呈した配慮の正当化のロジックも「社会モデル」では見直されていることが分かる。

    「「社会モデル的解釈」は、本来障害者の身体特徴は、非障害者との間の単なる差異であるに過ぎないにもかかわらず、現行の社会が多数派である非障害者の利便性を基準に編成されてしまっているために、障害者は不利益を被っているのであり、そのように一部の人々に犠牲を強いるような社会を放置することは正義にもとるのだから、せめて可能な範囲の配慮ぐらいは提供されてしかるべきだ。つまり、合理的配慮は、歴史的に社会が障害者のニーズを無視し、偏在的に犠牲を強いてきたことに対する補償という文脈を与えられる(正義の観点からの道徳的正当化)。」(p58。なお、推論の推移を示す「⇒」や「数字」は省略した。)

    この引用部によると、非障害者が障害者に対して配慮しなくてはならない理由は「良心がそう命じるから」などではなく、「非障害者は障害者に対しての補償を課されているから」である。ここまで述べたことと、教科書のp52-53を参考にすると、「障害の社会モデル」とは、次の三要件が一体になった障害の捉え方であると言えそうである。


    【障害の社会モデルの三要件】
    ①ディスアビリティの発生メカニズムの社会性を認めること
    ②ディスアビリティの解決手段に社会性も認めること
    ③ディスアビリティの解消を「補償の責務」として社会へ帰属させること



    以上で用語の定義の確認を終わり、これらを前提とした自分なりの考察に移る。

    ⑶自分の考察
    【「障害者が存在する」のか?】

    今、わたしの目の前に机がある。これを手の平で軽く叩くと、「パチン」という音がする。このとき、「この音は机の音だ」と、さも当たり前のように言われる。ましてや、「この音は机の音である」ではなく、「机の音が存在する(机の音がある)」とさえ言われる。しかし、この音は、この机のザラザラした表面と私の手の平との関係がいま結ばれたことによって鳴った一度きりの音である。手だけでこの音は鳴らないし、机だけでもこの音は鳴らない。全く同じ音を鳴らすこともできない。手と机があっても、手の能動的運動と、その運動が突然ぶつかって拒絶されること、そしてそのことに対する私の注意と空間規定がなければ、この音はならない。

    果たしてこの音は、本当に机に帰属するのだろうか。この音は机「の」音だろうか。机と私の手のひらの関係が変動すれば、音は変わるし、音が鳴らなくなることもごく普通にあり得る。

    音の成立条件は注意(能動性)と手と机だけではない。周囲の空気の状態や、その音を聴く人の耳や脳の状態が変われば、その音が聞こえなくなることはありうる。逆によく似た音がなり過ぎていても聞こえない。この音に慣れていれば、鼓膜が震えていても気づかない。

    このように音は、様々な周囲の諸条件とまことに相関的であり、常に何かと関係的である。なぜ音が特権的に机を選び、机に帰属され、机の音として認識されるのかといえば、それは我々の関心がそのとき机にあるからだ。「音がどこにあるのか」という問いには、どんな局面においてもたったひとつだけの答えがなければならないという考え方は、上記の反省を経れば棄却される。色については、音ほど簡単に物体から引き剥がせないので、「色は常に物に帰属する」と考えるべき強固な理由があるのだが、電気を消すだけでそれも文脈に依存すると気づくだろう。

    では、「音」を「障害」に置き換え、「机」と「手」とを、「車椅子」と「階段」に置き換えて考察してみたい。

    車椅子それ自体に障害「がある」と言う人はどこにもいない。少なくとも私は一度も聞いたことがない。階段にも障害などないと誰もが言う。なぜなら、車椅子も階段も、それ単独のとき、それ自体としては、それなりの機能を十全に果たすからだ。しかしこの両者が関係をとり結んだとき、そこに人々は「障害」(ディスアビリティ)を認めるだろう。車椅子と階段の相性は今のところ悪いからだ。したがって、車椅子に乗らざるをえない人物はやがて「障害者」と呼ばれるはずである。そして彼が存在するとき、彼は「障害者がいる」と言われるはずである。このときこの人には、「階段をのぼれないという障害が帰属している」とされているどころか、階段の近傍、数メートル圏内からこの人が離れた時でさえ、このひとは相変わらず障害者なのだ。こうして「障害者が存在する」という文は真になる。彼は障害者「である」のではなくて、彼という障害者「がいる」ことにされたのである。障害という性質はこのひと個人に帰属させられ、もはや何かと関係的ではないかのように認識され始めたのである。こうして障害が個人に帰属させられてゆくこと(まさしく「障害の個人モデル」)が、自明化していった。そういう具合に、私は「障害の個人モデル」の生成過程を素描する。

    つまり、「障害の個人モデル」とは、「障害」という本来的に関係的で、周囲の諸条件に相関的な性質を、ある個人の本質的性質として認識するような、つまり、関係的なものを実体化してしまうような、認識の傾向性の結果物である。実際、私の考えでは、これから「階段を登れるような車椅子」が開発され実用化にまで至るか、「車椅子が登れるような階段」が開発され、一般化されれば、車椅子に乗っている人を何をもって「障害者」とするのか説明することが今よりも困難になるはずである。私の工学部の友人に、「ドアノブが近づいてくると、自動でドアノブの存在を検知して、機械の付属アームが動いて、ドアを自動で開けることのできる車椅子」を研究している者がいる。このように「福祉機器の開発によって社会の側に遍在するバリアーと主体の側にあるディスアビリティそれ自体を減らしていく方策」は、「医学的アプローチ」ではない障害へのアプローチ、関係的なアプローチである。

    なるほど、上記の通り、「障害」というものがそもそも関係的な性質だということを正当化する理屈は分かった。では、さらにこう問い返そう。「それではすべてがそもそもは関係的なのだろうか」と。つまり、障害という性質がそこに帰属することを可能にした車椅子の存在も何かと関係的なのか、と。現に「車椅子がある」というではないか。つまり、障害という「性質」に先立って車椅子がまず「存在」しているのでなければならないのではないか。あらかじめ車椅子が「存在」しているからこそ、そこに様々な「性質」が帰属させられえたのだ。

    このような立場からの反論に私は答えなくてはならない。

    車椅子の諸性質のうち、実際には何かと関係的であるに過ぎなかったものを全てそこから取り除いてゆき、それでも決して車椅子から取りされないように思える性質、そして、すべての性質に先立って単独で存在するような本質として、車椅子の「延長」がある、と人はいうだろう。少なくともデカルトはそう言った。

    しかし、そうだろうか。車椅子の「延長」は触覚と関係的でないとでもいうのか。

    なぜ「延長」しているのか。不貫入だから延長しているのである。では、何が不貫入なのか。固有身体が不貫入なのである。我々が車椅子に触るとき、我々は車椅子の本質に触れているのだ。車椅子の本質である延長は、私の身体と関係的である。A「がある」ことを、これ以上疑いえないほど実在的にするのは、Aが固有身体に対する抵抗「である」というこの事実である。

    また、このように考えれば、「障害の社会モデルという言葉、考え方に出会って、自分の人生はまったく違うものになったと、そのぐらい大きなインパクトを与えた考え方なのです。」(p42)と述べる星加氏の紹介は、納得が行くだろう。というのも、個人モデルという認識様式から、社会モデルという認識様式に移ることは、単なる政策上の変更に留まるものではなく、「障害」という実体化されがちだった性質を、本来の関係的な性質へと送り返すという、根本的(=哲学的)なインパクトがあったのではないかと私には思われるからである。

    今は「車椅子」と「階段」の二者に限定して「障害はどのようにして生じているのか」(教科書p52の①参照)という問いを私なりに考察したに過ぎないが、ことは「階段」のような指で差して示せるような在り方のもののみならず、「事物、制度、慣行、観念その他一切のもの」(p43-44)のような非物理的な存在者までもが、主体との関係によっては、バリア(ディスアビリティの複合的要因)となり、そのバリアは主体すなわち個人に引き受けさせられてきたのである。

    逆に、「障害の個人モデル」で障害を捉えることににどんなメリットがあったのかということも考えてみたい。たとえば「障害のある子は、親の育てた方が悪かった」という親の責任を追及するような言説に対して「親の育て方の問題ではなくて、脳機能の問題なのです」と反論できた、ということがあるだろう。しかし、その場合、親の責任であるとして責任を親に局限して背負わせるのも、子どもの脳の問題とするのも、どちらも「障害の個人モデル」であり、障害を社会全体の関係的な問題として考えることは出来ていない。

    障害を「社会モデル」で捉えることに反対する他の論拠として、次のようなものがありうるだろう。すなわち、「多数派の利便性を基準に、脈々と編成されて来た社会制度は、今さらその歪みに気付いたからといってすぐに変えられるようなものではないので、「社会モデル」で「障害」を捉えると、目の前に困っている子どもがいるとき、「社会全体の構造の問題なので、すぐに変えられるものではありませんので、諦めてください」と悟すことになって、結局のところ、その子の困難の解消を先延ばしにしているだけないのではないか。」という反対意見がありうる。

    しかし、木村泰子氏が大空小学校で実践したように、「歴史を通じて脈々と編成されてきた」非障害者中心の制度の歪みを、強い指導力を発揮することでかなり軽減した例はあるし、なにより、日本全体の制度を変えるのは時間がかかるとしても、その子の困難に関係する周囲の諸条件に注目して、可能な範囲で変えていけることは決してゼロではないだろう。それこそが「合理的配慮」(教科書p54「個別ケースに応じた対応」参照)である。また、その意味では、困難を抱えた子に個別的な対応をすることと、その子を取り巻く環境に目を向けることは両立するので、「障害の社会モデルを採用すると個別ケースの対応が出来なくなる」と考えるのは早計であると私は考える。

    また、「障害の社会モデル」がなかなか浸透していかない原因のひとつが、「障害の個人モデル」の存在であると私は考える。それに関連して私が指摘したいのは、「障害を「個人モデル」で捉える傾向が弱まってしまったら、障害に医学的なアプローチができなくなるではないか」という批判は、的外れではないかということだ。なぜなら、障害には、インペアメントとディスアビリティの二側面があるのであって、「社会モデル」が主として焦点を当てているのはもっぱらディスアビリティの方であるが、だからといって、インペアメントに対しての医学的にアプローチが難しくなるわけではないからである。星加氏の指摘を引こう。
    医療的ケアの問題をどう考えるのかという話がありました。社会モデルを主張する人たちは、医学は要らないと言っているわけではなく、医学モデルがまずいと言っています。医療は必要です。医者がすべてのことを決める出発点に置かれていることが問題だと批判しています。社会モデルにおいては、適切な形で適切な医療が提供されるような社会の仕組みになること、社会の課題として重要だということは、まったく否定されていません。(p52)
    しかし、個人モデル論者が尚も食い下がって、「ディスアビリティが社会から取り除かれていけば、インペアメントの概念の確保も危うくなるのではないか」と反論してきたとしたら、それ以上そこで争う必要はない。なぜなら、私の考えでは、「ディスアビリティなきインペアメントだけでも保持したい」と主張するのは何らかの生物学的・美学的・主観的なスタンダードの強制に他ならないからだ。というのも、何を基準に「インペアメントがある」と判断するかということを決めるのは、ただでさえ、困難があるのに、「ディスアビリティがなくてもインペアメントはある」と主張することはますます主観的にならざるをえないだろう。

    そもそも「インペアメント」は、「体の機能が動くか動かないか、あるいは構造や姿、形のどちらかについての「異常とか欠如」、標準的な身体のあり方に照らして、欠けている、足りないと医学的に判断されるようなもののこと」(p46)であって、その「標準的な身体の在り方」は時代の趨勢(多数派が要求する能力の変遷)や、人類種の生物学的進化などの要因によって基準が今まで変わってきただろうし、これからも変わっていくだろうと考えられる。もしかしたら、人類が集団での大規模定住を続ける限り、何らかの身体的特徴のスタンダードは、その内容に変化はあれども残存し続けるので、これからも「インペアメント」が無くなることはないかもしれないが、非障害者が障害者に対して補償する義務を負うべきは、やはりインペアメントではなくディスアビリティの方であると私は考える。




    [1] 「コアカリキュラム一つとっても、障害の個人モデルが、いかに私たちの社会の中で浸透しているのかを確認できると思います。この考え方がベースになって、私たちの障害者政策や教育政策は、組み立てられているのです。」(p47)と星加良司氏も小国喜弘氏と同じ指摘をしている。また「社会的障壁と機能障害との関係で困難が生じていると言っているにもかかわらず、現状の特別支援教育では、社会的障壁についてはほとんど言及されていないのは大きな問題だと思います」(p44)として、特別支援教育の現状に異議を申し立ててもいる。

    [2] 「こういう状況にあって、何とかこれに対するアンチな知、これに対抗し得るような知を世間に問いたいと考え、木村泰子先生と相談してきた上で、全4回のワークショップを開催する運びとなりました。」(p9)

    [3] ここでいう「インペアメント」とは、非障害者(多数派)と障害者(少数派)との身体特徴の比較において認められる欠如(あるいは差異)のことである。「インペアメントを日本語に訳すとすれば、機能障害としたりもしますが、意味としては「機能・構造上の異常や欠如」です。体の機能が動くか動かないか、あるいは構造や姿、形のどちらかについての「異常とか欠如」、標準的な身体のあり方に照らして、欠けている、足りないと医学的に判断されるようなもののこと、このことをインペアメントと呼びます。こちらの意味で障害という言葉を使うほうが一般的かもしれません。」(p46)

    [4] ここでいう「ディスアビリティ」とは、次のことである。すなわち、「ディスアビリティは、「社会生活上の不利や困難」の意味です。障害問題に取り組むに当たって、社会的なフィールドで、あるいは社会全体で取り組むべき重要な課題は、ディスアビリティです。なぜなら、その人たちが困っている状態というものが問題なのであって、その困っている状態を何とかしていくということが社会的な課題であるからです。」(p46-47)

    [5] ここで注意すべきなのは、さきほど⑵-①で定義した「障害の個人モデル」という考え方があることそのものが、「障害の社会モデル」で考えたときの「社会的障壁」の四つめ、すなわち「認識上のバリア」を可能にする条件を提供してしまっているという考え方もできるということである。というのも、個人の身体の問題に非障害者中心社会の「歪み(社会的障壁)」を還元し帰属させることは、「障害者」という類型的で固定的な役割を作り出し、「障害者」と一度認定された人に対しては、次からはそのようなあらかじめ用意された型にあてはめて接することに、たやすくつながるからだ。それゆえ「障害の社会モデル」論者からすると、障害者たちに医学的アプローチをするために「個人モデル」的な仕方で「〇〇さんは障害者だ」と同定されていくこと自体が、ステレオタイプが産まれていく温床になりうる。そしてそのステレオタイプは、障害の社会モデルでいうところの、「認識上のバリア」である。

    [6] 実際、現行の社会は「昔も今も健常者中心の社会」であるため、それによって非健常者たちが偏在的に引き受けてきた社会の歪みが「バリア」であるとされている。

  • T.N

  • これからの学校の在り方が問われていると思った。

    インクルーシブ教育とは、その目的は何か。

    私は先生が指揮・指示を出し、子どもたちがそれに従い出来るようにすることにモヤモヤしていた。
    そうしないための教師のマインド・子どもたちへの接し方を考えるきっかけになった。

  • すごい本です。
    圧倒されます。
    「インクルーシブ教育」について考えるなら、ぜひ。

  •  考え方はいいと思います。

     問題は、制度であるとか、予算であるとか、人的措置であるとか、そういうことは整わないまま、あとは現場の努力でお願いしいます、それでは話になりません。

     ここから先は大学の先生の範疇ではありませんが、ぜひ国に動いて欲しいと思います。

  • 映画『みんなの学校』公式サイト
    http://minna-movie.jp/school.php

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    インクルーシブ教育はどこへ向かうべきか?
    映画「みんなの学校」で有名な大阪市立大空小学校と東京大学のコラボにより、2018年度、のべ4日間にわたって、「特別支援教育を問い直し、今後の公教育の形を考える」ワークショップが開催されました。木村泰子、小国喜弘、星加良司、川上康則、川村敏明、前川喜平ら錚々たる講師陣の講義を受け、参加した全国各地の現役教員(大空小の現役教員を含む)らが白熱した議論を展開。まさに主体的・対話的で深い学びを体現していくその過程をリアルかつエキサイティングに記録したのが本書です。全ての子どもたちが安心して学べる「空気」をどうつくるのか? その答えについて考え続けたい人にとって、必読の一冊になりました。平成31年度から、必修科目「特別支援教育総論」のテキストとして、東京大学教育学部での正式採用が決定しています。
    〈 編集者からのおすすめ情報 〉
    木村泰子先生の最新刊が、東京大学のテキストとして採用されました! インクルーシブ教育の今後について考える上で、避けては通れない必読書です。特別支援教育関係者、通常学級担任をはじめ、全ての教育関係者にぜひお読みいただきたいマイルストーン的な一冊です。
    https://www.shogakukan.co.jp/books/09840197

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著者プロフィール

初代大阪市立大空小学校長

「2021年 『学校の未来はここから始まる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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