実に痛快で、面白いお話だった。
手法としては、歴史の謎に筋の通った裏話を巧みに当て嵌めるもの。奇想天外な設定をぶち上げて、実はそれが見事に史実に符合していく様を描いていく本書。
現在、写楽の正体は、「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」というのが通説。江戸時代の考証家・斎藤月岑が天保15年(1844年)に著した『増補浮世絵類考』に記されている。この斉藤十郎兵衛の実在が近年まで確認できなかったことから、それすら隠れ蓑ではと、
「勝川春郎、幾五郎(のちの十返舎一九)、喜多川歌麿だけではない。歌川豊国、司馬江漢、円山応挙、酒井抱一、谷文晁、栄松斎長喜、歌舞伎堂艶鏡、一筆斎文調らの絵師が写楽ではないかと噂された」
という。今は、能役者名簿やお寺の過去帳等で、斎藤十郎兵衛という人物の実在が確認されはしたが、能役者にこれほどの才があったかの?、あるいは、前期後期で作品の質に差があることや、短期間で活動を止めた理由などは説明しきれていない。そうした残された謎に真っ向切り込んだのが本書だ。
版元の蔦屋重三郎が、とある謎の絵師の作品にほれ込み、なんとしても役者の大首絵を描かせたいと思い立つ。懇意の人気戯作者の明誠堂喜三二こと久保田藩留守居役筆頭平沢常富に絵師を紹介してもらおうと重三郎は一年かけて絵師を特定する。 その絵師というのは徳島藩の元藩主蜂須賀重喜。藩の改革を性急に進めたが、藩政宜しからずとの理由で三十二歳という若さで隠居させられた御仁。そこで重三郎が、理不尽な扱いを受けたわれら三名で、御公儀に一泡吹かせてやろうと持ち掛ける。
つまりこの三者、妙な大義で結びついていた。若くして隠居させられた重喜候を筆頭に、明誠堂喜三二は、黄表紙『文武二道万石通』が発禁、戯作の筆を折ることになっていたし、発起人耕書堂蔦屋重三郎は刊行本三作の発禁処分と重過料(おもかきりょう)の罰を受けていた。
てなことで、御公儀(おかみ)に恨みのこの3名の「写楽組」が繰り広げる10か月の物語。
謎の絵師写楽の正体は早くも読者の前に晒されるわけだが、どうしてどうして面白さや、興味が尽きないのは、ある程度、読む側に写楽にまつわる謎についての常識があるからか。著者もそれを期待してのことであろう。
例えば、デビュー作で大首絵を28枚手掛けて鮮烈デビュー、その作風は役者の欠点をも露わに描く大胆なもの。徐々に質が落ちていくことや、落款が異なったりの謎、そして10か月の活動期間を経て、パッタリと消息が途絶えること。
そして、さらには後世に写楽の正体は能役者斎藤十郎兵衛との噂だけが残っていることも我々は知っている。
これら全てが写楽組の仕掛けたこと、あるいは蔦重のプロデュースによるものという、嘘か誠かがピタリと史実にハマっていく痛快さがたまらない。もちろん、蔦重の計算違いもあり、写楽作品の質は落ち、取り繕うよう足掻いた後期のドタバタもあるが、それも、なるほど、そういう訳で、写楽絵の第1期から第4期までの変遷があるのかという腹落ちが心地よい。
写楽作品が短期間ながら、1期から4期まである理由は、これまで不勉強で知らなかったが、要は歌舞伎の興行のタイミングに合わせての作品刊行だったということだ。本書は、当時江戸の興行世界の栄枯盛衰も具に描き出しており、歌舞伎の歴史のちょっとしたお勉強にもなった。
本作で写楽の正体とされた徳島藩元藩主の蜂須賀重喜候のキャラが魅力的なのも良いところ。芸達者で達観しており、お咎めを受けてからの人生に不遇をかこつが、今が盛りと写楽に成りすますことを嬉々として楽しむ様がいい。写楽の絵の極意を、重喜候の言葉として語らしむところも面白い。
「他人(ひと)はどうか知らぬが、予は常に一番あざやかな部分から描いて行く。目を描くと、釣られて目の周囲がおなじくらいに明らかになる。周囲を描くとさらに周辺へと、明確さが波及するのだ」
多少似顔絵を嗜む身として、この表現は良くわかる。また当時、写楽絵は、あまりにモデルの特徴をデフォルメしたため、役者の御贔屓筋からは人気がなかった(売れ行きは芳しくなかった)というのも大いに納得できる。喜多川歌麿の美人画と一線を画した写楽絵、その神髄は、ご隠居重喜の遊び心にあったのだというのも愉快ではないか。
読了後、Wikiなどいろいろ検索するが、写楽の正体は阿州藩おかかえの能役者斎藤十郎兵衛であるとなっているのは、蔦重の最後の仕掛けが未だに効いているからだなと思うと、そこには虚実の境を超越した痛快さがある。