フォンターネ 山小屋の生活 (新潮クレスト・ブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784105901790

作品紹介・あらすじ

スマホを捨てよ、山へ出よう。自然との新たな共生を啓く21世紀版『森の生活』。30歳になった僕は何もかもが枯渇してしまい、アルプスの山小屋に籠った。都市での属性を解き放ち、生きもの達の気配を知り、五感が研ぎ澄まされていく――。世界的ベストセラー『帰れない山』の著者が、原点となった山小屋での生活と四季の美を綴る。コロナ時代に先駆け二拠点生活を実践してきた著者の、思索に満ちた体験録。

感想・レビュー・書評

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  • 人里離れた場所にひとりで暮らす生活に憧れる。昔のことになるが『独りだけのウィルダーネス』という本を読んでその気になり、北欧製のキットを買って近隣の山中に丸太小屋を建てたことがある。休日にバルコニーで読書したり、石を組んだ炉で焚火をしたり、愉しいときを過ごしたが、豪雨による土砂崩れで道が不通になり、足が遠のいた。何年かして道が通じたので行ってみたが、扉の鍵が錆びて開かなくなっていた。

    手入れして使えないこともないが、今となっては体力がない。そんなわけで、近頃は本を読むことで憧れを満たすことにしている。最近読んだものでは『結ばれたロープ』『ある一生』『帰れない山』などがお気に入り。『フォンターネ 山小屋の生活』は小説ではない。三十歳でスランプに陥って書けなくなった作家が、春から秋にかけて山小屋でひとり苦闘した日々を綴ったものだ。『帰れない山』を発表する三年前のことで、前日譚の趣きを持つ。

    ミラノに住む「僕」は、今やすっかり都会っ子だが、子どもの頃は夏の二カ月間、南にアオスタ渓谷を囲む峰々を臨むホテルに陣取り、毎日、岩壁をよじ登ったり氷河を渡ったりした。鬱々とした日々『ウォールデン 森の生活』はじめ、荒野(ウィルダネス)での孤独な日々を綴った本を読むうちに自分の失くしたものに思い至り、標高千九百メートルに建つ山小屋を借りることに。かつて高地放牧の季節に家畜や牧人のために建てられた小屋で、家畜小屋だった一階が寝室と浴室、ソファーの置かれた二階がキッチンと居間にリニューアルされている。電気も通じ、泉からポンプでくみ上げた水が蛇口から出る。

    四月の終わりに山に入ると、小屋のあるあたりに人は誰もいなかった。季節外れに降った雪を心配して小屋の持ち主のレミージョがやってくるまでの二週間、「僕」は完全な孤独の中にいた。体が高地に慣れるまでは、眠ることさえ難しかったが、慣れてくると活動を開始した。たどれる道はすべてたどり、地図を書き、見つけたものをノートに書き留めていく。兎やアルプスマーモット、ノロジカ、アイベックス、狐、といった動物たちの様子や、かつてそこに住んでいた人々の生活を物語る道具などの来歴を。

    「僕」は望んで孤独な暮しをはじめながら、レミージョの顔を見たとき、人に会うことを喜んでいる自分を発見する。六月が来ると、高地放牧をする牛飼いたちが山にやってくる。牛を追う三匹の番犬とも仲良くなる。首につけた小さな鐘が鳴るので、近づいてくるのが分かるのだ。犬たちは小屋にやってきてはチーズの皮をねだるようになる。ガブリエーレとは、はぐれた牛を連れ戻してやって仲良くなった。力が強く声も大きい男で村で暮らすには何かと規格外れで、山で暮らしているという。

    彼が連れてきた牛は低地の人のもので、自分の牛ではない。資産と呼べるものはほとんどなく、冬の間はスキー場で働いているという。ガブリエーレに言わせれば、わざわざこんな暮らしをしている「僕」もまたアウトローで、世を拗ねた者同士、互いに小屋を訪ね合うようになる。「僕」が、トマトソースのスパゲッティやポテト、腸詰めを料理し、一緒にワインを飲む。昔の山の暮らしを語るガブリエーレの話のたねが尽きることはなかった。

    七月にはレミージョを手伝って秣を刈った。仕事終わりにビールを飲むうちに関係が深まる。彼の父親は猟師であり、大工であり、物語作家でもあった。狩りや大工仕事を父に教わり、大きくなったが、深酒をするようになった父は、人が変わってしまった。衰弱し、入退院を繰り返していた父は畑で倒れて死ぬのだが、亡くなる前の晩つらく当たったことが彼を苦しめていた。レミージョは読書家でサラマーゴやサルトル、カミュを読んでいた。一緒に山を歩くうち、中腹にある小屋の話を聞かされる。父が彼に遺したもので、天然の岩壁を背にし、残る三方を岩壁で囲んだ小屋だ。『帰れない山』に登場するあの小屋である。

    夏になり、観光客が大勢やってくると動物たちが姿を消してしまう。動物の後を追うように「僕」もリュックを背に山を放浪するようになる。そんな中、登山小屋で働く同年輩の二人に、自分も働かせてくれと頼み込む。あたりの佇まいが気に入り、しばらく留まってみたくなったのだ。登山小屋で働くアンドレアはまるでもう一人の自分のようだった。不思議なほど気が合ったが、もう一人の自分と始終顔を突き合わせているのは愉快なことではなかった。最後に一緒に山に登り、頂上で別れのワインを空けて登山小屋を出た。

    その帰り道、ガレ場で遭難しかけた「僕」は、自分が少しも成長していないことに気づく。「孤独は、森のなかの小屋というより、鏡の家に似ていた。どこに目をやろうと、歪んで醜い自分の鏡像ばかりが際限なく増殖されていく」。冒険は失敗に終わったのだ。小屋に戻った「僕」は新しいノートにフォンターネの樹々の頌歌を書きはじめる。ある日ガブリエーレが一匹の犬を連れてくる。放牧犬には向かないという。試しに山歩きに連れて行くと喜んでついてくる。犬の名はラッキー。「僕」は、レミージョとガブリエーレと三人で最後の食事をし、犬を連れて山を下りることを決める。

    確執のあった父の遺作の山小屋、高さや速さを競うのでなく、自分が未踏のルートを探し、知らない山をめぐる山の楽しみ方、気のあった友との山歩き、と『帰れない山』を思わせるエピソードが詰まっている。冒険は挫折に終わるが、渦中の出来事を書いた文章には、清冽な山の息吹きと孤独な心の葛藤が溢れていて、優れた山岳小説を読むようなしみじみとした感動を味わうことができる。人といるより独り居が好きで、本を読んだり、動物と心を通わせることを愛する人に読んでほしい。

  • ”それは、旅に出たいというよりも、帰りたいという欲求、自分のなかの未知の部分を発見したいというよりも、失くしたと思い込んでいた、奥深いところにある昔懐かしい部分と再会したいという欲求に近かった。”
    「帰れない山」の三年前に書かれた本。何もかもが枯渇してしまい、書けなくなった作者は、人里離れた家を探すことにし、子どもの頃に、毎年夏を過ごしていた渓谷の隣の渓谷の山小屋を借りて過ごすことにする。

    牛飼いや登山小屋番との交流が描かれていて、印象的だったのは、本好きで難解な本を読んでいるレミージョの話で、中学しか出ていない彼は四十になってから古典に目覚めたそうだ。方言では、感情を表現する言葉が少なく、貧困で曖昧になるという。知っている語彙では、自分の思いを表現しきれないという限界に気づき、貪るように本を読んできた。
    一方で方言には、土地や道具、作業、家屋の部分、植物や動物に関しては厳密で豊かな語彙があるという。しかし、使われなくなり失われていくことにレミージョは心を痛めている。

    自然の壮大さや生きものたちの気配。松脂の香り。紅葉に燃えあがる唐松林。篝火の美しさ。失われていくもの。

    冬が訪れる前に山を降りる作者。だが、来た時とは違って一人ではないのだった。

  • 翻訳者は語る 関口英子さん | 小説丸(2017/8/31)
    https://shosetsu-maru.com/interviews/translator/4

    やまねこ翻訳クラブ:関口英子さんインタビュー(『月刊児童文学翻訳』2012年11月号より一部転載)
    http://www.yamaneko.org/bookdb/int/esekiguc.htm

    パオロ・コニェッティ、関口英子/訳 『フォンターネ 山小屋の生活』 | 新潮社
    https://www.shinchosha.co.jp/book/590179/

  • スランプに陥ったイタリアの作家が、フォンターネという集落に隠遁した生活を綴ったエッセイ。枯渇感に見舞われ、創作のスランプに陥った著者が選んだのは、幼い頃に慣れ親しんだ山に籠り、帰りたい原風景の中に身を沈めることだった。原題の直訳は、(野生の若者ー山の日誌)というもので、山での生活、孤独、友情、自然を淡々と描いた作品である。

    「30歳になった僕は何もかもが枯渇してしまい、アルプスの山小屋に籠った。」という裏表紙の文句に惹かれて衝動的に買った私からすると、結局著者は何に悩んで、どう解決したのか直接的には書かれていなかったのが少し残念だった。ただ行間から読み解くと、人間は、子どもの頃の自分と大人になった自分との間の断絶に苦しみ、それらを統合したい欲求に駆られるものなのだろうかと考えた。

    個人的にはこの文章がそれを象徴的に描写している気がして、印象に残った。

    (引用)82p
    僕は、それまでの人生を過ごした二つの渓谷にまたがる山の尾根で、三千メートルの標高に生えるふかふかの苔や、氷の力で裂けた岩の上を歩いていた。分水嶺のこちら側の、大人になってから住み着いた斜面では、空が澄みわたり、重量や体積があるのではと思えるほど青が濃かった。向こう側の子ども時代を過ごした斜面から風花がちらちらと舞いあがっては僕の足にまとわりつき、溶けていった。僕は向こう側で過去の二十年を過ごし、こちら側でこの数か月を過ごしている。おなじ山で生まれた二本の川によって削られた二つの渓谷。僕の現在と過去を結びつけているのは、いま目の前にそびえるモンテ・ローザという山だった。

    遠いあの日を想う郷愁。その想いはのちに『帰れない山』というベストセラーの小説に結実しているようなので、いずれ読んでみたいと思った。

    (引用)126p
    悲しいとき、方言でなんて言うか知ってるか?「長く感じる」って言うんだ。(…)結局レミージョはその言葉だけでは満足できず、自分の気持ちを表現するには新しい語彙が必要だと思い立ち、それを本の頁に求めるようになった。そしてむさぼるように本を読んだ。自分のことを語っている言葉を探すために。

    私も30歳になった頃から虚無感に襲われるようになって、それが言語化できないのがもどかしくて本を読んでいるところがある。本書は、「自分のことを語って」くれている本ではなかったけど、彼の漂わせる郷愁と私の原体験が似通っている部分もあって、懐かしく楽しかった。文章も心地よく美しくて満足。

  • 「帰れない山」でストレーガ賞を受賞したパオロ・コニェッティのエッセイ。文章が書けなくなった作者はアルプスの山小屋で孤独と向き合う生活を始める。
     特に何か事件が起こるわけでもない。また本当に隠遁生活をおくるわけでもない。他の山小屋の住人を訪ねたり、山登りをしたり、野生動物をみたりしているうちにすこしずついきる希望を持ち直していく。このような本なので教訓めいた話はない。いわゆる自己啓発本の対極にある自己啓発本なのであった。
     山で生活しながらも昔読んだ本の一節であったり、ファブリツィオ・デ・アンドレの歌だったり様々な言葉が生活を通じて意味を吹き返す。
     山の生活を通じて言葉ともう一度向き合えるようになったとうい話か。
     今は普通に生活していると、メールがSNSが、携帯が雨霰のように降ってくる。たまには砂漠にいかないと身体がぬれていることにも気づかなくなっているそんな感想を持った。

  • 著者は、30歳のとき何もかもがうまく行かず、1年間アルプス山麓の山小屋で暮らした。その時の暮らしを綴ったのが本書。
    まさにソローの「森の生活」のような移りゆく自然の中での生活は、都会の生活ではけっして得られないものだった。
    この体験が「帰れない山」の創作へと繋がっているのだろう。

  • 「帰れない山」がすごくよかったので、その3年前に書かれたという著者の山小屋生活のエッセイも読んでみることにした。都会暮らしに疲れてエネルギーを使い果たし、ものを書けなくなった著者が子供の頃の夏に訪れていた田舎へ行き、山小屋で生活する、という内容。「帰れない山」につながる部分もたくさんあって、それは読んでいて楽しかったのだが、著者自身は寂しがりで、孤独を深めて楽しむというよりは山で出会った風変わりな友人たち、動物たちとの生活の話が主である。

    「山に籠って一定以上の期間耐え抜けば、別の人間になれるだろうと思っていたのだ。ところが、…略…孤独は、森のなかの小屋というより、鏡の家に似ていた。どこに目をやろうと、歪んで醜い自分の胸像ばかりが際限なく増殖されていく。たとえすべてから解放されたとしても、その胸像から逃れることは不可能なのだ」
    山小屋で夏を過ごした著者はこう語る。いつか、なにかをすれば、違う自分になれるという幻想は、誰しもが持っているように思う。でも、現実はそうではない。嫌な自分がどこまでもどこまでも、いつまでも追いかけてくる。山小屋生活で著者はそのことを悟って、そのためかは分からないが、また書けるようになっていくのである。他の山籠もりエッセイとは趣はちょっと違うが、その生々しい自己分析は都会暮らしの人間たちへと通じる水脈を確かに持っていて面白いと思った。

  • コニエッティの名を高めた「帰れない山」の前哨戦とでもいう感覚の作品。
    読んで何かを得ると言う類ではなく、遠景に浮かぶ世界を見て共感を得たり 何かしらのポエジーを嗅げる様な作品。

    「孤独は鏡の家に似ている様・・歪んだ醜い自分の鏡像ばかりが際限なく増殖されて行く」とある。筆者は仕事にも恋愛にも疲れてはるかモンテローザを眺める標高1900メートルにある集落の一軒家に移り住む。
    寝たり起きたり何事にも拘束されないで自然と共に流れて行く時間の細やかな描写は 読むものへも耐寒体験の共有の世界へ誘ってくれる。
    寝られず、シェラフに包まって野外で寝る事も。

    一人になりたかった彼が 同じく武骨で寡黙な友と交流を深め 犬とも連帯して行く様がほほえましい。
    雪が深くなり、山を下りて行くラスト・・又なる再生の時間が始まる力強さを感じる。
    自然と一体化して己を見つめ直すには、再生のエネルギーを生み出せるしなやかさが不可欠だと再認識する・・30歳だもの、彼は。

  • パオロ・コニェッティは2作めで、『帰れない山』の前に書かれた作品。
    小説ではなくて、ミラノという都会の生活に疲れた著者が、本とノートとペンだけを携えてアルプス山麓のフォンターネに山小屋を見つけ、春から秋まで過ごした体験の記録である。

    『帰れない山』が、このフォンターネでの体験が基になったことはすぐに分かった。ブルーノのモデルとなったのはきっと、山小屋の生活で親しくなった牛飼いのガブリエーレと家主のレミージョだろう。

    仕事にも恋愛にも人間関係にも行き詰まり、創作の源泉さえも枯渇してしまったと感じた著者が一人で彷徨う山、登山小屋のアンドレアとダヴィデとの夏の束の間の暮らし、アルプスの山人の習慣、春から夏、秋へと移り変わる山の暮らしと人との交流のなかで、少しずつ回復していっているのが感じられた。
    そうとは書いていないけれど、秋、登山小屋から山小屋に戻り、新しいノートを開いた場面でそれは確信に変わった。

    山と山の暮らしの様子が淡々と、でも力強く綴られている。
    著者の素晴らしさもあるが、翻訳者の力量を感じた。
    本を閉じると、良質のドキュメンタリーを観たような満足感が広がった。

    旅に出るときに携えたい1冊。
    よく旅したインドでは、お気に入りのゲストハウスやカフェに旅人たちが置いていった本が並んでいて、よく借りて読んだ。
    旅のお供に連れて行った『フォンターネ』を、そんな宿やカフェの本棚に並べたい。
    どんな旅人が手に取るだろう。
    きっと気に入ってくれるはず。

    著者は執筆以外にも、恩恵を与えてくれた山々に恩返しがしたいと、『野生の呼び声』と称する活動を行っているそうだ。
    彼のそういった山に対する想いの深さ、心根の優しさが作品に表れて、わたしは魅かれているのかもしれないなと思った。

  • 文章を読むというよりかは、
    この本の世界に紛れ込むといった気持ちになる本。
    ひとつひとつの文自体の分かりやすさやシンプルな表現は
    折り重なって「孤独に逃げ込みたいのにひとりぼっちは
    寂しい」そんな大人の心の休憩場所のように描かれた世界に、
    どうしょうもなく惹かれていく。
    山小屋や村から少し外れた小屋の話やそこに住む人、
    関わる人、
    旅の途中で通り過ぎていく人。
    そして取り囲んでいる自然と動物たち。
    日常が不幸なわけでもなく、
    取り立てて特別でもなく、
    けれど空虚に感じたような穴をどのようにして埋めればいいのか
    分からなくなってしまったとき、この本と一緒にほんの少しだけ、
    社会から距離を置く気持ちになる。
    自然と自分の人を恋しく思う気持ちや
    意外と孤独を愛してしまうところ、自分と向き合う気持ち、
    いろんなものを再認識できるような、心の旅を味わえる本。

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