中世の東海道をゆく: 京から鎌倉へ、旅路の風景 (中公新書 1944)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121019448

作品紹介・あらすじ

弘安三年(一二八〇)十一月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた-。中世の旅路は潮の干満など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も、現在とはかなり異なっていた。本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、最新の発掘調査の成果などを取り入れ、中世の旅人の眼に映った風景やそこに住む人々の営みを具体的に再現するものである。

感想・レビュー・書評

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  • 読みなおす日本史、で再読中。

  • 中世の東海道。近世とはまた違った風景。特に地形の観点から探る。

    東海道53次。確立されたのは江戸時代。それまではまた異なる複数のルートが存在したという。

    本書は中世の紀行文を基に当時のルートを再現する試み。

    木曽川などの乱流地帯、淡水湖だったとの説が根強い浜名湖。近世でも難所であった天竜川、大井川、富士川は流路が一つでなく扇状地を複数の小河川だった事実など。

    現代とも近世とも異なる沿線風景。歴史が専門の筆者。ことのほか地学が多い科学的な視点は新鮮でした。

  • 中世の東海地方が中心に書かれていて興味深い。
    特に今切の箇所は完全に淡水湖で外界と接点がなかったわけではないということを改めて知る。

  • ふむ

  • 昔の紀行文などの資料に基づき、中世の東海道の景観を復元していく。資料の記述について当時の潮汐時間や日の出時間を現代の技術で算出し資料の記述の必然性をあぶりだして行く。
    なぜ、その時間にそこを通過しなければならなかったのか、なぜそこに泊まる必要が在ったのか
    当時の東海道の状態も合わせて、納得させられる。
    浜名湖が明応地震によって大きく姿を変え津波によってそれまでの東海道も大きく姿を変えた事が本書でのべられているが、

  • 40年くらい前に新城常三氏が展開して以降、進んでいるとは決して言い難かった中世交通史の研究領域を広げていくのにいいキッカケになるんじゃないかなぁ、という感じの本。
    鎌倉時代の貴族飛鳥井雅有の旅日記を元に木曾三川や浜名湖の変遷を地理学的にも判断しながら追っており、中世の東海道が近世以降に整備された人工的な道とは違い、自然環境にあわせて通り道や宿場ですら変わっており近世東海道交通史を研究していた私としても目からウロコの場面が多かった。
    近世交通史を研究していて、制度的な事と絡めて考えたい人はそれがどれだけ大変なことだったのかと言うのを思い知るために読んでみてもいいかも。(笑)

  • [ 内容 ]
    弘安三年(一二八〇)十一月、ひとりの貴族が馬に乗り、わずかな随伴者とともに東海道を京から鎌倉へと向かっていた―。
    中世の旅路は潮の干満など自然条件に大きく左右され、また、木曾三川の流路や遠州平野に広がる湖沼など東海道沿道の景色も、現在とはかなり異なっていた。
    本書は鎌倉時代の紀行文を題材に、最新の発掘調査の成果などを取り入れ、中世の旅人の眼に映った風景やそこに住む人々の営みを具体的に再現するものである。

    [ 目次 ]
    序章 干潟をゆく―鳴海
    第1章 旅立ち―京・近江
    第2章 乱流地帯をゆく―美濃
    第3章 湖畔にて―橋本
    第4章 平野の風景―遠州平野・浮島が原
    第5章 難所を越えて―天竜・大井・富士川、興津
    第6章 中世の交通路と宿
    終章 中世東海道の終焉

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    [ 参考となる書評 ]

  • 榎原雅治『中世の東海道をゆく』(中公新書,2008)を読んで,やるなあ,とおそれいりました。いまさら鎌倉時代の文献を漁ったところで,ひとを驚かせるような知見は得られないのではないかというぼくの卑しい先入観は,本書によって粉砕されました。いや,本書の著者は,古い文献を読みこんでいるだけではありません。「歴史学,考古学,文学,地理学,地震学,地質学などの分野で指摘されている諸事実」(p233)にもとづいて,著者は13世紀における東海道の地形や風景を推定しようとしています。ぼくは本書の主張の正否を判断できませんが,その内容はぼくにとって驚きの連続でした。

    序章では,現在の名古屋市南部に広がる海抜ゼロ・メートル以下の地域で,中世の東海道が干潟を通っていたことが明らかにされます。干潟は,今日の地図で海として示されています。現在の地図に記されている海岸線は,満潮時のものだからです。ですから,もし著者が派手な記述を望んでいたならば,中世の東海道は海のなかを通っていたと書いたとしても,かならずしもまちがいと言えなかったでしょう。しかし,著者は冷静に干潟とのみ記します。それは序の口だからです。

    第一章ではまず,京都と鎌倉を結ぶ陸路が,中世においてなんと呼ばれていたかが検討されます。というのは,当時「東海道」とは,「五畿七道のうちの東国諸国」(p30)を指したからです。著者によれば,その陸路は「海道」と呼ばれていたそうです。

    次に著者は,中世の「海道」が,現在の滋賀県と愛知県のあいだでどこを経由していたかを考証します。江戸時代の東海道と現在の国道1号線が,三重県の鈴鹿峠を通っているのにたいして,今日の東海道本線,東海道新幹線および名神高速道路は,岐阜県の関ケ原を経由しています。明治政府が東海道本線の敷設にあたって,鈴鹿を避けて関ケ原を選んだ理由は,よく知られているように,当時の蒸気機関車の登坂能力が限られていたからでした。また,滋賀県から岐阜県にかけての地域は,古代から東山道の一部を成していました。にもかかわらず,著者は,当時の文献の間接的言及を分析して,中世の「海道」は美濃(岐阜)経由であったという結論を導きます。

    第一章ではまた,中世の「海道」が場所によって川であったことも明らかにされます。ゆるやかな山地を越えるには,わざわざ道路を普請するまでもなく,天然の川を通ればいい。川の土手を行くという意味でなく,人も馬も足を水に浸けて川の浅いところを進みます。本書では触れられていませんが,ネパールの僻地では,いまなお川が人馬の通行路として利用されているという話を,ぼくは聞いたことがあります。東海道が,目で見て分かる物質的な道路となるのは,近世江戸時代のこと。中世の「海道」の一部は,海山のどこを通るべきかという観念的な存在であったようです。

    第二章では,現在の木曽三川──揖斐川,長良川,木曽川──が中世においてどこをどのような水量で流れていたかが考察されます。その詳細は本書をお読みいただくとして,ぼくが感服したのは,著者がここで,「濃尾傾動運動」という地質学上の現象にもとづいて,木曽三川の長期的な変遷を展望していることでした。このあたりは,歴史学者というより地質学者の仕事を見ているようでした。

    第三章は,中世の浜名湖の形の推定に費やされ,第四章では,内海について語られます。これら両章の内容は,砂嘴または砂州によって形成された地形を論じているという点で,連続しています。

    1498年(明応7年)に御前崎沖で発生した中世日本最大の地震「明応の東海地震」によって,紀伊半島から房総半島にかけての沿岸地帯が津波の被害を受けました。この地震と津波によって,浜名湖の地形が一変したと考えられています。その地震以前に浜名湖を通った旅行者たちが賑わいを書きとめた「橋本宿」が,その後だれの著作にも現れないことを著者は指摘して,ひとつの町がまるごと津波に流されたことを暗示します。

    では,失われた「橋本宿」はどこにあったのか。議論の詳細はここも本書をお読みいただくとして,著者の結論は,浜名湖と遠州灘を隔てていた砂嘴の湖側に「橋本宿」があったというものです。続いて著者は第四章で,遠州灘のほかに北陸地方の海岸を例に挙げながら,中世の日本の海岸沿いに,砂嘴や砂州によって形成された内海や湖沼が数多く見られたと言います。つまり,当時日本中のあちこちに,現在の天橋立のような地形が見られたというわけです。これが,本書でぼくがいちばん驚いた点でした。たしかに,古い時代の地形を推定した地図を見ると,現在より水面が広いことがしばしばあります。古代の難波では上町台地の東側にも水面が広がっていましたし,親鸞が布教に赴いたころの常陸(茨城)には,いまより大きな霞ケ浦と数々の小さな沼沢がありました。愚かなことにぼくは,それが,それらの地域に限られた特殊な現象であると勘違いしていました。しかし,著者によれば,中世の日本列島は,一本の海岸線によって単純に海と陸に分けられていたわけでなく,むしろ海岸線の陸側に内海があるのは,ありふれた風景であったようです。そういった内海や湖沼は,江戸時代の干拓によってほとんど姿を消したと著者は言います。

    内海についての著者の議論を読んでぼくがまず思ったのは,恥ずかしながら,ぼくはそういった観点を踏まえて古代史を読んだことがないということでした。古代の大和朝廷は,今日の奈良県を中心にしていくつかの都を造営しましたが,彼らがなぜその地域を選んだのか,ぼくはこれまで釈然としませんでした。古代において,現在の大阪府の内陸部に至るまで水面が広がっていたことは承知していますが,まったく陸地がなかったわけではありません。なのに,なぜひとつ山を越えた盆地に彼らは都を置いたのか。『中世の東海道をゆく』の著者は,古代については慎重になにも述べていませんが,海岸線を基準として地形を見るのでなく,内海よりさらに陸側という観点で見ると,古代王朝が奈良盆地に定着した理由が見えてくるような気がします。

    もうひとつ,今日,遠州灘の東端には浜岡原子力発電所が建てられています。そのあたりの陸地もおそらく,砂嘴や砂州が形成されたのと同様の,海流の堆積作用によって生じたものでしょう。政府および電力会社は,原発が数百万年前に堆積した強固な地盤のうえに建っているから安全であると主張していますが,1号機の設置許可が出たのは1970年のこと。21世紀のいまなら,海流の堆積作用によってできた砂岩および泥岩主体の岩盤上に,政府が原発の設置許可を出すかどうか,ぼくには疑問です。

    さて,『中世の東海道をゆく』の著者は,このあとも傾聴に値する意見を繰りだします。なかでも,中世における宿は,鎌倉幕府の軍事機構の一端を担っていたのであろうという見解は,説得力があるとぼくは思います。しかし,そのあたりは本書を読んでいただくとして,最後にぼくの疑問をひとつ記しておきます。それは,本書で論じられている陸路が,いまは亡き網野善彦が重視した海路と,いったいどういう関係にあるのかということです。権力者は陸路を重視して苦労するが,庶民は苦労を避けて海路を行く,という意味のことを,かつて網野は言いました。たしかに,本書で引用されている旅行記のほとんどは,朝廷か幕府の権力に結びついている人々の手になるものです。古代の紀貫之『土佐日記』に記されている状況と同じように,中世においてもなお,権力に結びついている者が海路を行くと,海賊に襲われるおそれがあったのかもしれません。

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著者プロフィール

東京大学史料編纂所教授

「2021年 『歴史のなかの地震・噴火』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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