近代日本の官僚 - 維新官僚から学歴エリートへ (中公新書 2212)
- 中央公論新社 (2013年4月24日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (356ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121022127
作品紹介・あらすじ
明治維新後、新政府の急務は近代国家を支える官僚の確保・育成だった。当初は旧幕臣、藩閥出身者が集められたが、高等教育の確立後、全国の有能な人材が集まり、官僚は「立身出世」の一つの到達点となる。本書は、官僚の誕生から学歴エリートたちが次官に上り詰める時代まで、官僚の人材・役割・実態を明らかにする。激動の近代日本の中、官僚たちの活躍・苦悩と制度の変遷を追うことによって、日本の統治内部を描き出す。
感想・レビュー・書評
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明治維新後、高等教育が確立して全国の有能な人材が集まり、官僚は「立身出世」の一つの到達点となった。激動の近代日本の中での官僚たちの活躍・苦悩と制度の変遷を追い、日本の統治内部を描き出す。【「TRC MARC」の商品解説】
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明治から大正初期の官僚と国の成り立ちについての書籍。
儒学理念に裏付けられて前例踏襲・変わらないことが求められた時代において、人々が如何に伝統を変えていったかが描かれている。
そのきっかけとして大きな役割を担ったのが洋学である。1870年に洋学教育機関として設立された大学南校(東京大学の前身)での学び、留学を通して得られる知見の重要性がある。本書では大学で学ぶ学生の闊達な雰囲気が描かれているが、読んでいて大変心地よいものがある。また、1882年には伊藤博文が憲法調査団にて諸外国の制度や知見を吸収して日本の制度改善につなげている。
現在の日本は前例踏襲に縛られ、新しいことに挑戦できていないのではないだろうか?
諸外国と比して、科学に基づかず、場当たり的な対応をしているのではないだろうか?
1917年に内務省に入省した安井の以下の文章が刺さる。
「自己の内部にあるものが何の方向に向かいつつあるか、また向かうべきものであるかを了解せずしていたずらに新しそうなものに目が眩んでいる日本は誠に危険なものだと思う。日本に内在している生命が何であるかを確かめて、これを新しい文字と組織とに実現化していくことを考える政治家は賢明なる政治家であって、忠良なる国民である。」 -
2017/04/30 初観測
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2018/07/15
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明治期から大正にかけての政治家、行政官など、人に焦点を当てて、その変遷について述べられた本。極めて精緻な研究に基づいている。特に、明治維新からの歴史の流れに沿って政治・行政の体制を明確に示していること、人材育成について詳しく調査されていること、中央と地方との関連性についても述べられていること、政治家と官僚との関係の分析が精緻なことなど、その分析・研究は深く、勉強になることが多かった。すばらしい研究書である。
「伝統的な世界で生きる者にとって、藩を捨て、藩主を捨てて新政府に仕えることは背信行為と映る。新政府の官僚たちは能力ではなく、その軽い行動ゆえに地位を得たという否定的な見方が嫉妬と羨望が深く交錯しながら存在していた」p41
「(貢進生制度)人を集め、競争によって学び進めることがなければ、わずか一度だけの実施でこれだけの成果は得られなかっただろう。近代日本の出発点における大きな成功といってよい」p69
「幕藩体制による長く安定した身分秩序のもとで暮らしてきた上士たちにとって、洋学を学ぶことは彼らの領分から外れた行為であった。佐久間象山がいうように洋学は実学と理解されていた。それは算術と同様に実務に携わる上士が学ぶものと映り、上に立つ者に求められるのは技術ではなく道徳であるという考えに立てば、上士には不要の学であった」p73
「大久保利通はイギリスを訪れた際に、議会政治で知られるイギリスを支えているのは優秀で安定した官僚機構であることを理解し、このことに深い感銘を覚えた。突出した政治家だけでなく、堅実な知識、技術を持った官僚が登用され、両者の協働関係を築いていくことが、この改革の本旨であった」p132
「徴士制度で人材を集め、大学南校で人材の育成に力を入れてきた明治政府であったが、諸藩からの勢力が定着するにつれて旧知縁故の人脈を頼った情実人事が横行し、無能な官僚が大量に政府に寄生していた。非効率で不公正な人事は非難の的となり、民権派は試験任用制の導入を主張した」p149
「人材登用の制度を整備し、不要な人材を放逐し、有用な人材を集める途を開くことが求められた」p161
「(明治中期)首相の地位は権限なくして責任ばかりを問われる面倒な役回りとなり、内閣が崩壊するたびに、誰が首相となるかではなく、誰ができるかという責任の押し付け合いが繰り広げられた」p219
「山県をはじめとする幕藩政治家たちは、議院内閣制を認めるかたちに憲法が改定され、政府が議会に支配されることを恐れた。ベルギー流の立憲議院内閣制が導入されれば、同時代のスペインやギリシャのようにポピュリズムが蔓延し、人気取りの政策が横行した結果、取り返しのつかない事態が生じるのではないかという危惧である」p224
「(明治末期)議員は名誉的に一期だけ務める者が多く、地方の名士であるといっても政策知識は皆無であった。彼らは自己の利益に関するものに拒否権を発するばかりで、自ら積極的に国政に臨む気概は持っていなかった」p263 -
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明治維新後、行政機構がどのように作られ、その運営を担う人材がどのように採用・育成されたか。
明治初期の人材登用制度、徴士(=行政職員)、貢士(=藩の代表者、議員)。政府運営にあたっては藩の持つ人材や利害関係を無視できなかった。また明治3(1870)年布告により設置された大学南校では、藩同士の対抗意識を利用してよりすぐりの人材を集め教育した。
やがて人材登用が進み官僚の専門性が高まると、政府内での調整が難しくなり、政治の役割が大きくなる。明治6年、明治14年の政変を経て立憲政体が作られ、官僚の役割も整理される。
帝国議会開設と前後して、明治19(1886)年に帝国大学創立。明治20(1887)年に官僚の採用に関する規則が作られ、官僚を試験で採用する旨が定められた。高等教育を受けた人材が試験を受けて行政官となる立身出世のコースが形成される。政党内閣の成立により政党閥ができ、やがて大正デモクラシーの時代には地方閥、閨閥等階層化が進む。
江戸時代以来の藩閥の影響から脱却する一方、専門知識の進展とシステムの成熟に伴い別種の閥が形成されていく様子。 -
公議輿論(政治参加の拡大)、国家としての統一と成長(競争と協力)、自己実現(公志と私志)
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江戸末期、明治、大正の各時代の官僚の動態がいきいきと描いた良書だろう。十分な史料に基づき官僚という集団の特質をあぶり出し、その際重要な役割を演じたのが、立身出世の登竜門である旧制の高等学校・帝大、さらには私大を含めたその他の大学という高等教育機関という見方もできよう。この視点を持ちながら本書を読んだ。第2章では実際に大学の生活の描写も多く、勤勉さだけではないやんちゃぶりも書かれており、現代に通ずる大学生の生態がよくわかった。今日、大学のヒドゥン・カリキュラムの効用より正課における授業内外学習時間が話題になるが、時代を問わずに、ある程度時間的余裕は必要だと感じた。そうした余裕があった上での、試験制度による官僚登用システムなのだろう。
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本書の主張:
日本の官僚制=開放された能力主義(試験至上主義)
→官僚システムは極めて制度として安定しており、かつ能力さえあれば誰もが昇進機会を持つという点で、公平性が保たれている。
…これだけだといいことばっかりだが、本書の後半で指摘されているように、官僚制は硬直し制度疲労を起こしたということになっている。
優れた日本の官僚制の下、なぜ国家主義へと走り戦争を止める事が出来なかったのかというパズルが湧いたが、それについては答えていない。本書の続編が気になるところ。