- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121025104
作品紹介・あらすじ
限られた上級貴族が集まり、国政の重要案件を論じた公卿会議。この国の合意形成プロセスの原型というべき合議制度の変遷をたどる。
感想・レビュー・書評
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美川圭『公卿会議 論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018年)は平安時代から室町時代にかけての公卿の会議について論じた書籍である。伝統的な歴史観では公家が無気力になり、力を失い、武士が取って代わった時代と考えられる。しかし、公家も会議で政治に取り組んでいた。
公家には政治をほっぽり出して和歌や蹴鞠に明け暮れたイメージがある。特に源氏物語などの女房文学を読むと、その印象を強くする。しかし、それは公家の生活の一面であって、政治生活もあった。それが公卿会議である。
公家の時代から武士の時代という歴史観は一面的であり、反省が求められれている。むしろ将軍家も朝廷を軍事面で守護する軍事権門という権門の一つという見解が出ている。
公家が政治をしていないと主張するつもりはない。しかし、会議中心は生産的ではない。その関心は専ら人事である。現代の公務員組織にも通じる。民間企業で社内政治に長けたと言えばビジネスができる人という意味ではない。公家の政治も似たような印象を受ける。
そのような政治体制の特徴は無責任である。保身第一の無能公務員体質に通じる。典型は後白河院である。後白河院は源義経に源頼朝追討の宣旨を出しながら、義経が敗北すると取り消した。頼朝は後白河院の無責任さに対して日本一の大天狗とは誰のことかと憤慨した。
これを後白河院の場合は腹黒さ、老獪さを評価する立場があるが、無責任である。「切羽詰まった状況で、後白河は究極の責任放棄、つまり国政の責任をすべて臣下に転嫁する方策に出た」「これを権謀術数とする見方もあるだろうが、もはやそのような余裕があったとは思えない。むしろ後白河の経験主義的な行き当たりばったりの、当面の危機回避策と考えるべきであろう」(162頁)
但し、後白河院は全くの保身第一の無能公務員体質ではない。義経は頼朝への謀反に失敗し、そのまま奥州平泉に落ち延びたと描かれることが多いが、すぐに平泉に行った訳ではなく、しばらく畿内に潜伏していた。
義経の謀反は文治元年(一一八五年)であり、平泉に身を寄せたことが確認できるのは文治三年(一一八七年)である。その間、義経が畿内に潜伏できた背景には反頼朝の公家や寺社勢力の援助があった。その背後に後白河法皇がいたことは容易に想像できることであり、頼朝も強く疑っていた。
後白河院以上に承久の乱の後鳥羽院は保身第一の無能公務員体質丸出しである。宇治川の戦いの敗戦後に上皇方の武士の山田重忠らが最後の一戦をしようと御所に駆けつけた。ところが、上皇は門を固く閉じて言い放った。
「武士達を入れると御所が関東方に攻撃されてしまう。武士達は勝手にどこかに落ち延びよ」
武士達が勝手に挙兵したもので、自分の責任ではないとの論理である。保身第一の無能公務員体質丸出しである。後鳥羽院は関東方に使者を送り、承久の乱は謀臣の企てであったとし、義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康や三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を出した。
「大臆病の君に騙られた」
重忠は激怒した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
面白くなかった。
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南北朝時代までを対象に、朝廷政治を支えた公卿会議の変遷をたどる内容。時代に合わせて姿を変えていく様相が興味深く、公卿会議という視点から見る歴史の姿も新鮮で面白い。
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摂南大学図書館OPACへ⇒
https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB50122540 -
限られた上級貴族が集まり、国政の重要案件を論じた公卿会議。この国の合意形成プロセスの原型というべき合議制度の変遷をたどる。
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第1章 律令制の時代
第2章 摂関政治の時代
第3章 院政の始まり
第4章 院近臣と武家の台頭
第5章 鎌倉幕府の興亡と建武政権
終章 公卿会議が生きていた時代
著者:美川圭(1957-、東京都、日本史) -
和歌しかしていないイメージのある宮廷貴族・公卿。しかし、和歌しかしていなければ支配階級として存在できない。そんな宮廷貴族の支配階級としての面を描いている。
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東2法経図・6F開架 B1/5/2510/K