中先代の乱-北条時行、鎌倉幕府再興の夢 (中公新書 2653)

著者 :
  • 中央公論新社
3.61
  • (10)
  • (24)
  • (22)
  • (6)
  • (0)
本棚登録 : 309
感想 : 33
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (225ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121026538

作品紹介・あらすじ

建武2年(1335)7月、信濃で北条高時の遺児時行が挙兵した。破竹の勢いで鎌倉を落とした彼らの動きに、時の政権は戦慄する。後醍醐天皇、足利尊氏、護良親王など多くのキーマンの運命を変えた反乱の内実を読み解き、その歴史的位置づけを示す。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • “中先代の乱”とは随分と地味な題材だなと思いつつ、鎌倉〜室町の中世が好きなので読んだ。
    鎌倉陥落〜南北朝、室町幕府が開かれる前まで、北条の残党
    の戦いがつづいていたとは知らない歴史でした。簡単に次の時代へと移るわけがないか。

  • 鎌倉幕府滅亡から2年後に起きた、中先代の乱。
    建武政権から南北朝時代へと進行する契機となった乱の、
    あらましや内実、時流に抗う人々の動向を探る。
    序章 鎌倉幕府と北条氏  第1章 落日の鎌倉幕府
    第2章 北条与党の反乱   第3章 陰謀と挙兵-中先代の乱①
    第4章 激戦と鎮圧-中先代の乱②
    第5章 知られざる「鎌倉合戦」 第6章 南朝での活動
    終章 中先代の乱の意義と影響
    主要参考文献、関係略年表、建武政権期における反乱の表有り。
    適宜、系図有り。
    北条氏得宗家の生き残り、北条時行が起こした、中先代の乱。
    鎌倉時代の始まりから滅亡までの北条氏と、
    その後の建武の新政、南北朝時代の時の変遷の中で発生した
    多くの反乱について、北条時行の他、北条氏残党の動向と共に、
    各説の検証をも含め、考察していく内容。
    建武政権下、2年6ヶ月の期間に26件の反乱、
    それも全国のあちこちで火の手が挙がっていたということ。
    武士たちへの恩賞給付の問題への不満、東国御家人の不満等が、
    北条与党を担いでの行動に繋がった。南北朝時代も、
    南朝方となって、生き残った北条一族は戦い続けていく。
    それらの中で、特に激戦だったのが中先代の乱なのですが、
    中先代の乱自体が20日間という短期間であったことと、
    北条時行(挙兵時、著者の推定では7歳!)についての史料が
    少ないことから、文中に占める記述は僅かになってしまっています。
    でも、その後も彼は、南朝に組して何度も各地を転戦し、
    捕らえられ、鎌倉郊外で処刑されている。
    生地・鎌倉と反足利氏への思いが執念と化したような、
    時行の短い生涯。著者の推定では享年25歳!
    鎌倉幕府の頃はよかった・・・あの頃に戻りたいと願う者たちの、
    想いが乗り移ったかのようにも、思えました。

  • 建武の新政への不満を背景として、北条時行は建武二年(一三三五年)に北条氏の残党を率いて信濃から蜂起した。上野国から武蔵国と関東平野の正面から攻め込み、鎌倉を占領し、足利直義を追い出した。時行は北条高時の遺児であり、鎌倉幕府滅亡時に逃げのびていた。

    これは中先代の乱と呼ばれる。この呼称は後の時代につけられたものである。鎌倉幕府を先代、室町幕府を当代とし、その間のため、中先代となる。時行を中先代と呼ぶことは支配者としての正統性が認識されていたことになる。北条氏を後醍醐天皇に滅ぼされた逆賊とする皇国史観は存在しなかった。北条氏の正統性の意識があったからこそ、戦国時代に後北条氏が名前を利用した。

    足利尊氏は時行を討つために自分を派遣することを後醍醐天皇に再三要請したが、尊氏の自立を怖れた後醍醐は許可しなかった。業を煮やした尊氏は無断で関東に出兵した。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任命した。

    尊氏は出陣すると破竹の勢いで中先代の乱を鎮圧した。時行の敗因は建武の新政に不満を持つだけの寄せ集めの軍勢だったことである。鎌倉幕府滅亡時に北条方の有力な将は死に絶え、この時点で残っていなかった。それ故に形勢不利と見るや足利方に寝返る者が多数出た。

    その後も時行は戦い続け、短期間であるが合計三回も鎌倉を奪還した。南北朝の内乱では南朝の武将として足利方と戦った。執権北条氏は持明院統を支え、大覚寺統の後醍醐天皇に滅ぼされた。尊氏が持明院統を奉じると時行は南朝で戦う。当時の人々にとって皇室は利用する神輿に過ぎなかった。

    皇室は仇として憎しみの対象とする価値もなかった。これは後白河院や後鳥羽院の保身第一の無能公務員体質が影響しているだろう。後白河院は源義経に源頼朝追討の宣旨を出しながら、義経が敗れると取り消した。後鳥羽院は承久の乱を起こしたが、幕府軍に敗れると北条義時追討の宣旨を取り消した。

    時行は南朝方の武将として新田義貞の次男の新田義興(にったよしおき)とも共闘して鎌倉を奪還している。義貞は鎌倉幕府を滅ぼした武将であるが、それよりも時行にとっては足利尊氏が主敵だったのだろう。

  • 勉強になった。

  • 「逃げ上手の若君」を読んでから。史実という今後の展開のネタバレともう少し背景を詳しく知りたかったから。
    脳内でバンバン若君のキャラに変換されていくわ…。登場していない人物は大河ドラマ「太平記」に…

  • 北条時行を初めて知った。
    この時代の歴史は知識が少なかったので勉強になる。

  • 鎌倉幕府滅亡後の建武政権期に起こった中先代の乱とその前後の歴史の流れの中での北条一族についてが描かれている。
    北条時行についての資料があまり無いようで時行についてはそこまで描かれていない。

  • 建武政権の樹立後に起きた「北条与党の反乱」「西園寺公宗の陰謀事件からの中先代の乱」「鎌倉合戦」「南朝下での北条一族」について詳細に語られ、北条時行の動向がうっすらだが分かり、なんと鎌倉占領を三度も果たしている。「廿日先代」が「中先代」になった経緯だが、著者は過去、尊氏が時行を破り鎌倉を占領したと同時に「当御代」となり遡及して時行を「中先代」との見解と記憶するが記載がないのは一般書ゆえか?持明院統の親王を将軍として担いできた執権一族は、持明院統の天皇を抱き将軍位に着く足利家をどう思ったのだろう(2021年)

  • 結果的に足利尊氏が建武政権から離脱するきっかけとなり、歴史的にも大きなターニングポイントになった中先代の乱は、個人的にとても興味があり、とても興味深く読みました。
    ただいかんせん、残されてる資料が少ないので、状況証拠などからの推論に頼らざるを得ないのは、しょうがないかもしれない。

  • ●鎌倉幕府の滅亡から2年後に、最後の徳宗(鎌倉幕府の執権を代々務めた北条氏の家督)北条高時の遺児時行が、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権に対し幕府再興をはかって起こした反乱である。
    ●この中先代の乱と呼ばれた事件は、尊氏を鎌倉に引き寄せる契機となったことで武家政権の成立を決定的にした。
    ●鎌倉幕府ともに北条氏が滅び去ってしまったわけではない。建武政権や室町幕府と戦い続けた者たちもいた。
    ●太平記でも鎌倉幕府滅亡のハイライトは、高時が北条氏の菩提寺東勝寺で自害するシーンとなっている。
    ●正中の変と元弘の変。後醍醐天皇の倒幕計画が密告される。後醍醐は隠岐に。隠岐脱出〜幕府滅亡。元弘の乱。
    ●将軍は持明院統、皇位継承は、大覚寺と交代制。このままでは後醍醐天皇の息子は天皇になれない。
    ●北条泰家、自害を勧めに来た諏訪盛高に「我が北条家が滅亡するのは、ひとえに兄高時が人望を失い、天に背いたためである。だがこれまでの善行の果報が当家に残っているなら、生き延びた者の中から、滅びた1族を再興するものがきっと出るだろう。その時のために、俺はむやみに自害をせずに逃げて雪辱を果たそうと思う」
    ●中先代の乱で北条時行が鎌倉を占領したのはわずか20日余りだが、恐れを抱いた後醍醐天皇が何度も祈祷を行わせるなど、建武政権は大きく動揺していた。

全33件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

鈴木由美(すずき・ゆみ)

1976年,東京都生まれ.中世史研究者.99年,帝京大学文学部史学科卒業.現在,中世内乱研究会会長.
共著に阿部猛編『中世の支配と民衆』(同成社,2007年),細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館,2015年),日本史史料研究会編『将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える』(吉川弘文館,2018年),呉座勇一編『南朝研究の最前線』(朝日文庫,2020年)など.

「2021年 『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』 で使われていた紹介文から引用しています。」

鈴木由美の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×