足利将軍たちの戦国乱世-応仁の乱後、七代の奮闘 (中公新書 2767)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121027672

作品紹介・あらすじ

応仁の乱後、弱体化した室町幕府。将軍は無力だったと言われるが本当か。九代義尚から十五代義昭まで七人のしたたかな戦いを描く。

感想・レビュー・書評

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  • 【足利将軍15人言えますか?】『戦国期足利将軍研究の最前線』(山田康弘編、2020年)│【最終的に点を取る!】日本史オススメ勉強法
    https://nihonshi.me/ashikaga9-15/

    『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館) - 著者:山田 康弘 - 松尾 剛次による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS(2023/03/28)
    https://allreviews.jp/review/6066

    足利将軍たちの戦国乱世 -山田康弘 著|新書|中央公論新社
    https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/08/102767.html

  • <目次>
    序章   戦国時代以前の将軍たち
    第1章  明応の政変までの道のり~9代将軍義尚と10代将軍義稙
    第2章  「二人の将軍」の争い~義稙と11代将軍義澄
    第3章  勝てずとも負けない将軍~12代将軍義晴
    第4章  大樹ご生害す~13代将軍義輝
    第5章  信長を封じこめよ~15代将軍義昭
    終章   なぜすぐに滅びなかったのか

    <内容>
    室町時代の、いわゆる戦国期の将軍たちは、いてもいなかったのような存在、と言うのがイメージ。著者がお題を掲げているように、「なぜすぐに滅びなかったのか?」は確かな疑問だ。それをきちんと史料を交えながら解いていく。終章の結論を読むと、複合的な要素ながら、当たり前の結論となっているが、きちんと分析してくれているので納得である。著者は、東大史料編纂所の職員。史料をしっかりと読み解ける人なんだろうな?と思えた。

  • 応仁の乱後、将軍義政は将軍職を息子の義尚に譲るが、銀閣寺建設資金を集めるため、自身の権力の全ては譲らず、義尚はこれに不満を持つ。義尚は政治的功績を立てるため、六角氏討伐に自ら出陣、これに諸大名も従うが、心労からか陣中で病死してしまう。
    義尚に子はなく義政が一時将軍職に復帰するが、すぐに病没。日野富子が足利家を代表し、甥の義稙を将軍とする。義稙は若年のため父義視が後見する。義視は日野富子を引退させるが、すぐに病没する。
    義稙は義尚を反面教師とし六角氏討伐に成功。さらに細川政元を頼りつつ、その勢力を牽制するため斯波、畠山の家督争いに介入し、阿波細川氏に自らの一字「義」を与えるなど肩入れし、勢力均衡を狙う。細川政元はこれに反発し挙兵し、引退していながらも御台所として権勢を有していた日野富子もこれに同調。明応の政変起きる。義稙に続く臣下は少なく捕縛され将軍職を廃された。
    細川政元、日野富子により義澄が将軍となる。義稙は幽閉され富子に毒殺されかけるが脱出し北陸で義澄討伐の狼煙をあげた。しかし派兵に応じる大名はなく行き詰まる。義澄は、若年な上、富子の死もあり、大名たちから支持を受けられず、2人の将軍は膠着状態となる。
    明応の政変で自刃に追い込まれた畠山氏の子畠山尚順は細川政元討伐の挙兵をし、義稙はこれに乗じ京都へ攻め入ろうとするが、途中かつて討伐した六角氏から奇襲を受け壊滅。
    義澄政権は15年ほど続くが細川政元が細川家家督を巡る内紛で暗殺され、最大の庇護者を失う。義稙はこれに乗じて京都を奪還し再度征夷大将軍となる。義澄派との争いは続くが義澄が急死したことで決着する。
    義澄派残党の細川澄元が反乱を起こし、義稙は細川高国に討伐を命ずるが、高国は敗北。義稙はなんと高国を見捨て澄元と手を組む。ところが澄元が急死したため、義稙は高国に攻め返され、京都から出奔し阿波で客死する。
    高国は足利義澄の遺児義晴を将軍とするが、細川晴元と内紛を生じ晴元はこれも義澄の遺児義維を堺にて主君とする。世間は2人の将軍がいるものと捉えるようになる。諸大名は勝馬に乗ろうと様子を伺った。
    高国と晴元の戦は晴元勝利に終わり高国と義晴は京都を去る。しかし高国は晴元派の有力武将柳本賢治を暗殺し、晴元派を追い詰める。とこらが、味方のはずの赤松氏に裏切られて高国は自刃。
    晴元は配下の三好元長がライバルだった柳本賢治の遺児を暗殺したことに激怒し、本願寺の門徒衆を借りて三好元長を討つ。ところが本願寺勢が暴走して各地で略奪を行ったため、これを契機とし義晴を擁護していた六角氏と和睦。本願寺を壊滅させる。もともと晴元が主としていた義維は阿波へ引き上げさせ、義晴が将軍として京都に戻る。
    義晴は独自の裁判機関による裁判を多数行うなど比較的安定した政権運営を長期実施。嫡男義輝に将軍を譲る。重臣の細川晴元が配下の三好長慶と対立し、これに敗れたため、義晴、義輝は京都より去る。直後に義晴は病死。義輝は三好長慶と和睦し細川晴元は一時没落するが、再起。義輝は長慶か晴元かで迷うが、再度晴元と手を組む。ところがこれが裏目に出て、晴元は長慶に敗北。義輝は再び京都から敗走する。
    五年後義輝は本願寺と手を組み京都へ派兵、長慶と和睦し京都に帰る。この頃長慶が死に三好家内部で三好三人衆と松永久秀の抗争が始まる。義輝は大名同士の抗争の調停を積極的に実施し存在感を見せるが、三好松永は義輝を突如殺害。殺害理由は明らかになっておらず、殺害までは意図していなかったとの説もある。
    義輝の弟義昭は三好追討の兵を募り、織田信長がこれに応じる。三好三人衆は足利義維の子義栄を擁立しようと画策、三好一門と松永久秀の抗争が起こるも、義栄は将軍就任を強行。しかし義昭信長軍に三好三人衆は敗走し、義栄は行方知れずとなる(病死?)。義昭が将軍となる。
    信長包囲網が敷かれるが義昭が朝倉氏との間に入り和睦するなどして、信長は危機を脱出。義昭は単なる信長の傀儡ではない。信長が朝倉や本願寺と争い始めると義昭は信長の権力が強まりすぎることを恐れ反信長派と手を組む。信長により義昭は京から追放される。
    しかし2年後には義昭の求めに応じ毛利、上杉らが信長包囲網を形成。一般に戦国将軍に権力はなかったが権威はあったためとされるが、そのメカニズムを解き明かすことが戦国将軍研究の目標である。
    信長死後、義昭は秀吉から京への帰還を許されその臣下となり、晩年は剃髪して静かに余生を過ごした。
    戦国将軍は軍事力はなく弱いが、天下の将軍家としての格式と威光があり、諸大名は各々の利害得失を踏まえてこれを利用した。地域紛争を国連が仲裁するようなものである。ゆえに足利将軍家は応仁の乱後100年存続できた。

  • 戦国時代の足利将軍である九代義尚から十五代義昭までの事績をたどる初学者向け概説書。まとめとして、隣接諸学の知見も加えて将軍家を存立せしめた社会構造の見取図も描かれ、現在の研究動向も示す内容にもなっている。

  • 戦国時代の幕府が如何に協調バランスで存在意義を
    長持ちさせたかが分かる一書です、金も武器も無い
    けれど足利の血が地域の大名どもに、地方ヒエラル
    キーの根拠を与える、需要あるところに供給をして
    やれる、国際連合の理念的役割を果たしていたのが
    仲裁を超えて恣意的な匙加減が生まれた為に消滅
    (まさに国際連合そのもの)

  • 登録番号:0142356、請求記号:210.47/Y19

  • 義稙と義澄、義晴と義維の二人の将軍の並立は大変興味深かった

  • 将軍の名前すらおぼえられません。

  • 明応の政変から信長まで、理路整然とつないでくれる人がやっと現れました。他の本でモヤモヤしてたのは、この目まぐるしい勝った負けたの応酬が原因でしたが、この本でやっと全体像が見えました。特に、細川澄元と細川高国、足利義晴の立ち位置について、これまで判然としていなかったので、理解できて嬉しかったです。

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著者プロフィール

1967年、東京都生まれ。国立歴史民俗博物館教授を経て、東京都立大学人文社会学部教授。専門は先史学。縄文時代の墓制を中心に当時の社会構造・精神文化について研究を行う一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めている。著書に『縄文人も恋をする! ?』(ビジネス社、2022)、『縄文時代の歴史』(講談社、2019)、『縄文時代の不思議と謎』(実業之日本社、2019)がある。

「2023年 『土偶を読むを読む』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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